今月号の小説作品から鹿島田真希氏の『暮れていく愛』を取り上げたい。いわゆる〝女性的エクリチュール〟の作品だからである。ただ女性的エクリチュール作品を題材に、小説における男流・女流の対立を論じたいわけではない。むしろその逆である。ここには〝物語文学〟の原点がある。もちろん女性的エクリチュールは独立して存在するわけではなく、男性性との交錯によって生み出される。しかしそれが肉体的実感に裏付けられた物語文学の基層となっているのは確かだと思う。
あの人が浮気をしていることは、傍にいて雰囲気でなんとなくわかる。すごく浮かれていて、でもその浮かれている原因は私ではなくて、そしてその浮かれている自分のことを隠そうとしている。だから面白くもない
テレビを見て、大笑いをして、これ、面白いなあ、なんてあの人は言ってみたりする。本当は別のことを愉快だと思っている癖に。
だから私は、そう? 私にはそんなにこのテレビが面白いとは思えないけど、と言いながら、あの人のグラスにワインを注ぐ。自分を裏切った相手だとわかっていてもつい奉仕してしまうのだ。
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俺のほうも何か不満があるのか、とは訊けずに、このテレビおもしろいな、とか言って、なんとなく機嫌をとるが、向こうはそうかしら、などと答えてやはりおもしろくないことがあるようだ。
俺たち夫婦は今年結婚して十年を迎える。それでもお互いわからないことはあるものだ、と思う。というより、わからないまま、わかっているつもりで結婚してしまったような気がしている。俺は今、この不機嫌な妻の機嫌の取りかたすらわからない。
(鹿島田真希『暮れていく愛』)
『暮れていく愛』は結婚十年目の夫婦が交互に洩らす独白から構成される。〝私=妻〟は夫が浮気をしていると疑っている。しかしそれは杞憂である。〝俺=夫〟の独白を読めばわかるように、夫は理由がわからない妻の不機嫌に悩んでいる。夫妻に子供はいないが比較的裕福な暮らしを送っている。妻は専業主婦だが申し分なく家事をこなし、夫にも細かな気配りのできる良妻である。しかし彼女はふさぎ込んでいる。この妻の憂鬱が夫の側の機嫌取りにつながり、それを妻が、夫は浮気しているので自分の機嫌をとっているのだと誤解している。夫妻間で感情的な悪循環が始まっているのだが問題は妻の方にある。従って妻の憂鬱を明らかにすることが作品の主題である。夫の独白は妻と対立するためのものではなく、その憂鬱を理解し相対化するためにある。
あの人といつも一緒にいられたらどんなにいいだろう。私はそれを想像して、ぼうっとしてしまう時がある。学生同士の冬休みの日みたいに、(中略)ずっと一緒に二人で家にいて同じ時を過ごすのだ。
こんなこと実際にはあり得ないことだってわかってる。人間は働かなければならないし、四六時中誰かにいてもらって依存することも良くないって。だけど原始的な細胞同士が近づいて、融合し、一つになってしまうように、私はただあの人を求めていたいと思う時がある。私は退化したみたいだ。
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昔、俺を縛ったその女は、肉体的にも接触したがる女だった。歩いていても腕を絡めてきて、部屋にいても俺の体にもたれかかり、ずっとこうしていたいな、と言う女だった。そしてそうやって、体に触れていても、私、寂しいの、なんだかすごく寂しいの、と言う。こうしてずっと一緒にいて触れ合っているじゃないか、と言っても無駄で、でもなんか寂しいの、もしかして心は離れていると思っているのかもしれない、という。
心が離れているかなんて、想像したらきりがないじゃないか、と俺は内心思った。
(同)
妻は結婚十年目であるにも関わらず、片思いの人に恋い焦がれるように夫との肉体と精神の完全な合一化を夢想している。そんな妻の心を察知して、夫の方は学生時代に付き合った女性のことを思い出す。その女性は異様なほど尽くし、彼にべったりの生活を送りながら『私、寂しいの』と言い続けた。彼女と付き合ったことのある男友達は、〝あの女は重い、早く別れろ〟と忠告するが彼はそうしなかった。結局その女性は自殺未遂して、精神を病んで彼の元から離れていった。夫はギクシャクした妻との関係を相対化するために学生時代の恋人のことを思い出したわけだが、それはむしろ、夫が妻と共振できる心性の持ち主だということを示している。その意味で夫は妻の不可解な苦しみの理解者である。
人間同士の完全な相互理解は可能か、という主題は文学にとってなじみ深いものである。しかし妻や夫の元彼女が抱えている問題は、必ずしも他者との相互理解によって解消されるものではない。恋愛関係において、他者との完全相互理解は一種の〝幻想(イリュージョン)〟である。多くの男女がこの幻想を通過儀礼として経験する。人間同士の完全相互理解は不可能だと見切った上で、その暖かな幻想と適度に戯れながら生きていくのである。しかし妻は『私は退化したみたいだ』と独白している。恋愛幻想に浸るのは逃避的退行だと知っているのである。従って妻はもちろん夫の元彼女も最終的に恋愛幻想を拒否する。本質的にはなにものによっても癒されることのない〝欠落〟の探究へと向かうのである。
私のやりたいことはそうね、例えば、いい人、あなたみたいな人を揶揄して、あなたが大好きな食べ物を食べようとした瞬間、それを取り上げて、私があなたの前で食べるでしょう?(中略)それをあなたが言いふらすの。(中略)そこで、儀式が始まるのね。廊下にクラスの人が並んで、私はそこを歩くの。そうするとクラスの人が私に石とか生ごみとかを投げるの。そういうことがしたい!
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なんて言ったらいいかわからない。(中略)心がこう、曇っていたのよ。そうしたらいつもね、(中略)心はいつも快晴って感じの男の子が現れて、私にもそうなれって無理矢理押しつけるの。(中略)色々なことをした。ハンバーガーを食べたり、(中略)映画を見に行ったり。(中略)でも私はいつも我慢ができなくて、心が壊れそうだった。大声を出したくなるような衝動に駆られていた。発狂しそうだったのよ。
(同)
前半部は夫が高校時代に体験した、奇妙な振る舞いをする女の子の思い出である。後半部は妻の高校時代のボーイフレンドとのデートの思い出である。視点は異なるが、いずれも思春期の女の子の心理描写である。そこにあるのは強い被虐意識だ。奇妙な女の子も妻も、心の中に闇を抱えている。それはどんな外的要因によっても拭い去ることができない。それどころか彼女たちは、むしろ心の闇にふさわしい罰を受けたいと望んでいる。〝女の原罪〟とでもいうべきものが二人の女性の心に巣くっているのである。
あら、生理になったのね。(中略)
お姉ちゃんは、私の分のチョコレートケーキも用意してくれて、出してくれた。(中略)
ああ、ごめんね。生理の話だっけ。なんかあの血液って赤くないでしょ? チョコレートみたいな色してるでしょ? だから思い出しちゃったの。(中略)
私、いつかお姉ちゃんみたいに、なれるかな。(中略)
お姉ちゃんの顔は曇った。
私は、まだあなたと一緒よ。小さい女の子のままよ。(中略)
今では、それは残酷な他人事ではない。共感なのだ、と私は思う。女は幸せな時は、自分が穢れていることなんて忘れてしまう。だけど哀しい時、まだ自分は少女なのではないかと思ったりする。幸福は、隣の男女と共有し合って、境目をなくして、くっついてしまうものだけれども、哀しみと憂鬱は犯しがたく、(中略)神聖な心の部分だ。女はある時、孤独になり、その部屋の玉座に座って、哀しい女王になる。
* * *
本当に、私は女として生まれた時から、戦場にさらされていた。あらゆる冒瀆や軽蔑と戦わなければならなかった。能力がないだろうという差別、嫌らしい目で見られるという冒瀆。皆、そういうことをうまくかわして忘れていっているようなのに、私にはどうしてもそれができない。本当に、思い出して、魂を無数の蟲がうずいて、蝕んでしまいそうになって、いても立ってもいられなくなる時がある。
(同)
『幸福は、隣の男女と共有し合って、境目をなくして、くっついてしまうものだけれども、哀しみと憂鬱は犯しがたく、(中略)神聖な心の部分だ』とあるように、妻が感じている孤独はその実存に根ざしたものである。それはまず肉体的な〝穢れ=生理〟として現れる。世界中の文化共同体が女性の月経を禁忌的な穢れとして扱ってきた。それが女性であることの〝原罪〟意識を生み出すのである。次いで社会制度的な差別が襲いかかる。女性の社会進出が進んでいるとはいえ、たいていの共同体は相変わらず男社会である。女性が男性と同等の社会的地位に就こうとすれば、男性よりも遙かに努力を積み重ねなければならないのは衆知の事実である。
少し乱暴なまとめだが、〝少女〟は月経という肉体的変化を通過して〝女〟になる。それが〝穢れ〟の通過儀礼だと意識されることでアルカイックな〝少女幻想〟が生まれる。また〝少女〟が〝女〟になることは、男性から性的視線を注がれ、男社会からの抑圧を受けることと同義である。それがさらに〝月経=穢れ〟という意識を倍加させる。つまり女性にとって月経を経ない成熟はあり得ず、それゆえ〝少女〟時代は永遠に失われた〝欠落〟となる。この肉体に根ざした〝女の原罪〟意識と、小原眞紀子氏が『文学とセクシュアリティ』で連載している、原理的には男女いずれの心にも存在する〝男性性と女性性のベクトル〟―制度構築的な力と制度破壊的な力―を組み合わせれば、女性的エクリチュールの概要が理解できるだろう。
いずれにせよ個の肉体の変化から生じる観念は物語の源基になり得る。なんの変哲もない〝女の一生〟であっても物語になり得るのである。女性は中性的な子供として生まれ、月経によって〝少女時代〟と〝女時代〟が分離し、男性との交流で社会的抑圧を経験し、子供を産むことでまた最初から女以前の子供時代を生きることができる。子供から女になることで少女時代を意識し、自ら子供を生んで再び少女に戻っていくのだと言ってもいい。男性の一生の平板さと比較すればその物語性は一目瞭然だろう。男性の成長はひたすら社会に飲み込まれていく過程である。成功も失敗も社会的なものである。男性の物語は一代で財を築き上げた社長が、引退前に取引先に配る豪華な『自伝』に最もよく表れているかもしれない。しかしそれは社会学的な資料であって文学ではない。
それを聞いた時、私はどっと涙を流した。彼は私の気持ちがわかるんだ。そう思ったのだ。私は話した。内容を覚えている本があること。その本には、いつも定まらない形の海や、すぐに曇ってしまう空のことが書かれていて、気持ちはあなたの言う通り、暗くなってしまうのだけれども、どうしても引き込まれてしまうこと、そしてその本を読んでから、そのすぐに灰色にかき消されてしまう風景が自分の心の中にあること、まくしたてるように私は言った。(中略)
そんなに憂鬱ならさ、俺と死のうよ。
え。(中略)
ねえ、俺と死のうよ、いいだろ?
私は怖くなった。ベランダから教室に戻って、二人の美人がいるグランドまで走って行った。
(同)
引用は妻の高校時代の思い出である。『暮れていく愛』は鹿島田氏の作品の中では平均的な出来だと思うが、この箇所は秀逸である。女性が原罪意識や痛切な喪失感に苛まれたとしても、それが直ちに自死願望に結びつくわけではない。償うことのできぬ原罪、埋められぬ喪失感は個の実存を超えた外在的アポリアでもある。それは女性にとってある程度普遍的なものであり、『暮れていく愛』の妻が〝お姉ちゃん〟という理解者を持っているように、その孤独と喪失感を理解し、哀しみを共有できる女の共同体が存在する。しかし生と社会が一体化した男性がそこから弾き飛ばされれば、もはや居場所はない。女性は孤独に苛まれても氷の女王として生きていけるが、他者と世界を喪失した男性には自死がふさわしい。それもまた物語の一つの基層だろうと思う。
小説はどんなにテクノロジーが進歩しても、決して解消し得ない現実世界の矛盾や葛藤を描き出すための芸術である。そして現実世界には男と女しかいない。現代世界をより的確に表現するための新たな技法・思想はもちろん必要である。ただその一方でジャンルの基盤(アイデンティティ)を愚直に検証し、動かしがたい基盤、あるいは動かしても恐らく揺り戻ってしまうだろう基盤を確認することも必要ではないだろうか。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■