TBS
金曜 22:00~
溱かなえの原作である。小説作品とテレビドラマの違いをいろいろと考えさせられる。
人々の憧れの的である高級住宅街で起こった殺人事件。殺されたのは中でも憧れの的であった家の主人であり、犯人と目されるのは主人公の親友であるその妻(石田ゆり子)。
最初に観たとき、妙に話が頭に入ってこないことに違和感をおぼえた。テレビドラマというのは、別に「これまでのあらすじ」など参照しなくても、たまたま一話をぼんやり眺めるだけでも来し方ゆく末、だいたいわかるものだ。それだけパターン化しているとも言えるし、観せているのは「絵」であって、複雑なプロットではないとも言える。
小説は絵のないぶん、緊密な事件の集積で読者を飽きさせないようにする必要がある。それをある程度でも忠実にドラマ化すると、さまざまなところでさまざまに意味深な出来事がどんどん起こることになる。で、惹きつけられて観るのだが、結局何が進行しているのか、予習復習の足りない視聴者にはさっぱりわからない、ということになる。
もっとも、この意味深な雰囲気にのみ意味を見出すというドラマ作りも、あるっちゃある。かつてのディヴィッド・リンチの駄=傑作「ツイン・ピークス」がそれで、ある町が舞台となっているという設定は、そういえば「夜行観覧車」に似ている。
けれどももちろん「夜行観覧車」は「ツイン・ピークス」みたいなミステリのパロディではなく、最終的には意味のある謎解きが期待されるドラマなのだから、視聴者はちゃんとついていかなくてはならない。
人というのは怠惰なもので、新規なものを欲しがる反面、見慣れたもの、聞き慣れた曲を聞きたがるところがある。「夜行観覧車」で見慣れた感じのするドラマ的人物は、夏木マリ演じる仕切り屋の婦人くらいだ。が、高級住宅地にこういう人物というのは、本当のところはリアリティがない。地域をやたらと誇るヒステリックな人物というのは、たいしたことのないマンションとか、田舎の住宅地ならぴったりくるが。
そしてやはり原作では、この人物はさしてヒステリックではなく、裕福でない主人公(鈴木京香)をいじめることもないそうである。しかしながらドラマでは、私たちはこういう突出した登場人物を目印として、視線や記憶を繋いでゆくしかない面はある。
実際、未確認情報ではあるが、溱かなえの原作はミステリですらなく、謎は最初からなんとなく解けているそうだ。
原作で描かれているのは、そこでの人間関係と心理の不可思議さだろうか。それをも取り込み、かつミステリとして謎解きし、突出した人物でアクセントを付け、となれば盛りだくさんになるのは必至である。ゆめゆめ、ぼんやり眺めてはいられない。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■