テレビ朝日
木曜 20時~
ミステリードラマというのは、ふと気づくと長寿番組になっている、というものがある。それを決めるのは、もちろん数字だろう。
しかし数字がよくても続けられない、という場合もある。一本ずつが凝ったネタで、それが評判になっている場合、ネタが切れれば終了だ。しばらく休止して次のシリーズに備えると言っても、視聴者のリクワイヤメントが高くなってしまっていれば、自ずと限界がある。
それを無理して続ければ、かつての神のようだった『刑事コロンボ』が、「そのトリックとは…。お面をつけていたんですねぇ」という、とんでもないところにまで堕ちていった二の舞いとなる。ならばもう、惜しまれながら打ち切られてくれ、と祈るのみだ。
それでもあの、『刑事コロンボ』のテーマ曲が流れてくると、つい画面を見てしまったものだ。昔見たものでもつい見入り、見ていない新作はわかっていながら、もしやとやはり見入ってしまう。ラストシーンで怒り狂うことになっても、かくして数字は稼げるというわけだ。ほとんどテーマ曲だけで。
いつまでも溶けないアメみたいに、長ーく楽しめるミステリードラマというのは、それ自体やっぱり貴重なものなのだ。あまりトンがり過ぎてると保たないってことは、休止期間を経れば復活するぐらいのソコソコのネタに加え、中心になるのは主人公のキャラしかないだろう。
このキャラというのも、いくら魅力的であっても、あまり作り込み過ぎていると難しくなる。シャーロックホームズとかポアロとか、原作があれば別だが、現場で進行形で作っていくような面もあるテレビドラマの場合、主演の俳優さんと重なる部分のあるような、あんまりエッジが利き過ぎてない、ちょっとピリッとしてないぐらいの設定が長持ちする。
沢口靖子は東宝シンデレラガールとしてデビュー以来、東宝としては国民的女優路線を歩ませてきた感じだ。が、結果的には国民的、というのとはちょっと違ってきた。それは沢口靖子の器の問題ではなくて、もっぱら時代が決めたことだが。吉永小百合を押しいただく大衆、というものがもはや存在しない、ということだ。
それで女優さんもいろいろとセグメント化するしかないわけで、その様子を見る限り、夢を売る存在から、身近なつましい存在になってゆくのも仕方がない。言ってみれば大衆ひとりひとりが主人公となっていて、その自らをなぞってくれる女優さんに親近感を持つ、ということかもしれない。
とすれば、科捜研の女 = 沢口靖子 というセグメント化は、かなり成功している。そこにいるのは眩い美貌の国民的女優ではなく、オタクっぽい変わり者の孤独なキャリアウーマン、つまり、あなたであり私でもある存在だ。そこは東宝シンデレラの威信もかけて、よくよく見ると結構美人なんだけどね、ぐらいの設定にしておいて、実際はあり得ないぐらい美人、というところで、現実から夢に繋がる道をこしらえる。
個人的には、30 歳過ぎた頃の、脂が抜けた感じの沢口靖子は、ちょっと素敵で好きだったが。衰えと品の良さとのせめぎ合いを見定めるのも、長寿ドラマならではだろう。説明もないキャラの性格の変化も、歳のせいということだろうか。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■