鶴瓶のスジナシ
TBS系 火曜日 深夜1時25分~
深夜、この時間まで起きているのは結構、辛い。もちろんこの番組を見るために起きているということもなく、録画して見るべきものでもない気がする。しかし面白い、ときがある。それに当たると得した気分になる。たまたま、というのがいい。
というのも、この番組自体が「たまたま」の集積を意図しているからだ。鶴瓶とゲストの俳優が「スジナシ」すなわちすべてアドリブで芝居を演じる。設定もでたとこ勝負。決まっているのは舞台の設えだけ。
演劇をする者にとって、なかなかチャレンジングなことではないか。俳優たちからの出演希望が相次いでいる、というのも、あながち嘘ではあるまい。
テレビはテレビである。演劇を志した者にとって、演技は演技であっても、テレビ向けにカスタマイズしたものでしかなく、おそらく一番スリリングな部分は削ぎ落とされている。それが深夜の「スジナシ」で、演技することのぎりぎりの境界のようなものが垣間見えるのだ。
その境界は、あらかじめ準備をすることができない、何の心の用意もないところに現れる。自分が何者なのか、相手が何を言い出すのか、そもそも二人がなぜここにいるのか、承知の上のことは何一つない。そういう状況は芝居としてばかりか、日常生活においても通常はあり得ない、特殊で究極的なものだ。記憶喪失の人が突然、記憶を取り戻し、しかも記憶喪失であったことを隠さなければならない、といった。
つまりそこでは「演技する」というフィルターを通して、「素」以上の「素」が覗く可能性がある。「純粋な素」とでもいうべきものを抽出しようかというそれは、文字通り実験的な試みだ。
実験であるからにはしかし、それは「たまたま」ではないのかもしれない。何の準備もなく、すなわち夾雑物もなく、「たまたま」ぶつけられた台詞、シチュエーションで出てきた反応とは、その俳優の「純粋な素」という「必然」にほかならない。
普段、私たちがテレビで見させられている「演技」とは、このような個々の「必然」に、折々の夾雑物がむしろ「たまたま」混ざって出来た代物なのである。それをテレビが深夜、暴き出しているのだ。
名前の通った俳優が、内心、目を白黒させながら、手さぐりで状況を作り上げてゆく姿もスリリングだが、その中で物語が見事なオチを見せることが多いのは、「たまたま」の内包する「必然」の力にほかならないだろう。
その不思議さが与える一種の「感動」もまた、名付けようのない「純粋」なものである。俳優本人がときに涙するそれは、親子、病魔、恋愛、善意といった、しばしば陳腐にもなる夾雑物のパターンがもたらす「感動」とは一線を画する。これはもしかしたら、テレビの罪ほろぼしなのか。
田山了一
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