今回でやっと10回を数えることとなりました。当初、俳句門外漢の俳句入門という趣旨で始まった時評でしたので、まずは歳時記を買わねばと思い立ち、買うなら持ち運びに便利な文庫本でないかと書店の文庫棚を物色していたところ、ありました。やっぱりというかさすがというか、もちろん角川文庫です。その名も、「今はじめる人のための俳句歳時記」。書名からして分かり易い。これなら初心者にもぴったり。とにかく最初は何が季語で季節はいつか、この最低限の基本を叩き込まねばなりません。ならば季語の数は少ないほうがいい。もう若くはないのだから。というわけで早速ぱらぱらと頁をめくってみたわけです。
ところが驚いたことに、春夏秋冬で終わりかと思いきや、その次に「新年」があるではありませんか。季語はすべて四季で分類されているのが当たり前と思っていたので、「新年」というカテゴリーは意外でした。巷では「盆暮正月」とか「盆と正月がいっぺんに来たようだ」と言いますが、「お盆」はあくまでも秋の季語です。が、歳時記では「新年(=正月)」が冬とは別立ての季語として登場します。正月といえども冬には変わりないはずなのですが、正月の数日間だけは特別な季感として捉えられてきた、ということでしょうか。
それにしても「新年」の季語は、はっきりいってどれも退屈なものばかりです。「初空」・「初日」・「初茜」・「初凪」・「初霞」・「初景色」に「縫初」・「読初」・「書初・「笑初」・「泣初」・・・、なんにでも「初」を付けさえすれば新年の季語になってしまいそうです。たまに「嫁が君」のような不気味な言葉もありますが、当たり前のことながらほとんどが目出度い「ハレ」の言葉ばかりです。こうした季語を使えば、でき上がってくる句はすべて似たり寄ったりの、金太郎飴を切ったような目出度い俳句になりそうです。しかも、新年の季語が使えるのは、ここ関東でいうと「松明け」の7日までとのこと。短い旬のなかで、型にはまった句ばっかり作られても、読まされる方はたまりません。
新年の季語を詠んだ俳句といえば初句会です。初句会とは、言葉どおり新年初めの句会のことで、参加者は当然のごとく新年詠を持ち寄ります。初句会で主宰の選句を得ようとするなら、通常の句会にもまして選ばれるための工夫が必要なのはいうまでもありません。しかしそれは選句する主宰にしても悩みの種かもしれません。なにしろ変わり映えしない句が目白押しですから、どれを選んでも同じという状況が目に浮かびます。
1月号の大特集は「新年の季語―由来を知れば秀句が詠める!」と題し、この厄介としかいいようのない新年の季語について、結社の主宰者を初めとした中堅俳人の先生方が、初学者にもわかるように説明しています。なかでも目を引くのが、「主宰に聞く!初句会で採る一句」という、まさにそのものずばりの特集です。そもそもこの大特集自体が、俳句愛好者向けの初句会対策に他なりません。今号の発売日が暮れも押し迫った25日ですから、年明け早々の初句会へ向けて、まさにタイムリーな企画に違いありません。
とはいえ、手の内を明かす先生としては、一筋縄というわけにも参りません。独特の風貌に着流し姿がよく似合う「銀化」主宰の中原道夫氏は、「昔と違って正月三ヶ日の厳粛な気分も薄れ、新年詠も大分様変りしている」と書き起こしています。「ハレに囚われず」という題名が示しているように、主題の明確な文章なのですらすら読めそうですが、実際に読み始めるに従い、新年という目新しさに欠ける季語を扱う詠み手サイドの難しさと、そうした句を評価しなければならない主宰との意識のギャップが、文体に微妙な影を落としています。簡単なようで簡単ではない、むしろ心して読まねばならない一文です。
“ハレ”の受け留め方も千差万別であり、行事、仕来りに関して言えば実態を見たことのない“形骸”だけの季語が多いことに気付く。(中略)句を採る側から言えば新年の句に限らず紋切型(ステレオタイプ)の句は避けたい、とやや消極的だが考える。消極的というのは、俳句の宿命として凡(おおよそ)、型の中で作られる為、仕立ては違っても骨子には差がない、同工異曲を承知して採らねばならないことを指す。
旬が短いにもかかわらず数が多いがゆえに、別仕立てに区分けされている新年の季語ですが、実は多くが季語として形骸化を被っており、その実態を経験している読み手は限られるということのようです。そうした状況では紋切型になるのもいたしかたありません。そしてこうしたステレオタイプを避けること自体が、俳句的価値を認めるうえで消極的にならざるを得ないというのが実情のようです。試しに形骸化したと思える季語を拾ってみました。「門松」・「若水」・「着衣始(きそはじめ)」・「獅子舞」・「歌留多」・「双六」・「福笑」・「獏枕」・・・言葉としては確かに魅力的ですが、新年の生活に関わる季語の多くは、すでに思い出の中に仕舞われ、現実の風景として観察できる機会はかなり少ないといってもいいでしょう。過去の体験は記憶に頼るしかないので、そこから思いがけないほど新奇な光景が浮かび上がることは、記憶だけにあまり期待できません。
厳かな気分で見渡した処で、息を呑むような絶景に出会うなどというのは稀で、大半が変哲もない日常の景である。(中略)しかし、それらを悉く切り捨てておられない。仕立て変わればという条件付きで、並選で拾うという采配も、潔くないが主宰の度量である。消極的と言ったのは、その辺でもある。
作品に対する積極的評価は価値に対する信頼から来るわけですから、文学作品にとって当然の前提条件だと思ってきましたが、俳句の世界では話が異なるようです。もちろんあくまでも句会という俳句特有のイベントに限った特殊性と考えられないこともありません。が、俳句の本質が「場」の文学にあり、「場」に連なる作者と読者、さらに「場」の仕切り人である主宰という、三方向の相互コミュニケーションがあって初めて俳句読解の土台ができあがる以上、その実践の場である句会を特別な価値観のもとに置くのではなく、あくまでも俳句の普遍性として捉えるべきです。句会という「場」が、俳句的成果をあげるためにも、評価の絶対性の追求と同時に、消極的な評価も必要だということです。
中原氏のこうした柔軟な姿勢は、句会という「場」をはるかに越えて、結社はもとより俳壇という広範なコミュニティに至るまで、広く説得力のある審美眼だと思います。そうした氏の評価基準は、初句会のような「困難な場」でこそ威力を発揮するといえるでしょう。引き続いて氏は、初句会で特選に選んだ一句を採り上げ、その面白さを説明します。
人間をワニは見上げてお元日 山口優夢
所謂、従来の元日の淑気など微塵もない。旧派からは眉を顰められそう。(中略)どちらにしてもワニには人間を見上げるという習慣“日常”がある。人間にとって“ハレ”の元日であっても、ワニにはまったく関係のない“元日”という着眼。有り得ない景ではないのに非凡ということだ。
「初・・」であれ「・・・始」であれ、日常生活における行為や風景そのものは、新年だからといって普段と変わるわけではありません。そうした修飾詞は人間の気紛れな心情によって付けられたに過ぎないのです。新年における「ハレ」という観念自体が、人間中心主義の最たるものなのです。そうした人間固有の叙情は、俳句に技巧的な「巧さ」ばかりを際立たせ、「自然」という無作為な対象をより矮小化して見せることとなります。新年の季語が、紋切型のテクスト量産を助長するようなイメージで捉えられがちなのは、新年詠=「ハレ」という固定した叙情によってもたらされたものです。中原氏は結びで、「要は“ハレ”に囚われない柔軟な“平常心”あるのみ、と申し上げたい」と断言していますが、初学者にもわかりやすい表現ながら、俳壇の主流を占める伝統墨守的な俳句が、過去の叙情(=ハレ)に囚われて、自分という主体の都合からしか物を見ず、対象の本質にまで認識が届かないことを批判している、と読むことができます。
この山口優夢氏の新年詠は、中原氏が「有り得ない景ではないのに非凡」と、最上級の評価を与えていますが、犬でも蛇でも猿でもなく「ワニ」というところが才能の凄みでしょうか。その昔「カラスの勝手でしょ」というコピーが流行りましたが、人間以外の「動物」たるもの、その行動は本能によってあらかじめインプットされた神経反応であり、それを人間は、己の感情を一方的に動物へ委譲するという、叙情の代替行為をしているに過ぎないのです。そんなことは一度でも犬を散歩へ連れて行けば気がつくことですが、当たり前過ぎるせいか、作品化の衝動へと至らないのが実情です。そこをあえて山口氏が作品化し得たのは、それが犬ではなくワニだったことによるものと思われます。中原氏が想像するように、「たとえば場所は勝手に伊豆熱川のワニ園」での体験だとしても、ワニに見上げられた山口氏が、自らを「人間」と抽象化し得たことで、作者の主体が作品世界から矮小化され、「人間対ワニ」という構図が立ち上がることとなりました。こうなればあとは新年の季語を待つだけです。「お元日」の「お」は、山口氏の手練の賜物といえるでしょう。
今号には、「新年 新鋭作家競詠10句」と題する、若手俳人による新年詠が掲載されていますが、ここにも山口氏が登場します。『寝息』と題する10句は、御自身の結婚をモチーフに詠んだもので、10句全てが甲乙つけがたいなかで、末尾を飾る表題句が醸し出している余韻には、山口氏のしたたかな戦略が感じられます。
初明り夫婦の寝息誰か聞く
取り立てて説明しなければ分らないような句ではありません。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」といいますが、「夫婦の寝息」も似たようなものでしょう。問題があるとすれば「誰か聞く」ですが、夜が明けたら夫婦の寝室に聞き耳を立てる人がいたでは、のぞき趣味のサイコスリラーになってしまいます。たとえばこの「誰か」を、神のような不可知の存在と読んではどうでしょう。モダニスト詩人の西脇順三郎に「天気」と題された短詩があります。
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
戦前に刊行された第1詩集『Ambarvalia』の巻頭に置かれた一篇です。ささやきと寝息では異なりますが、前者が主体的な行為であるのに対し、後者は不随意な行動として主体の意志はあらかじめ失われています。この主体の喪失こそ、俳句が立ち上がる境目なのです。山口氏は自身の結婚という人生のターニングポイントを題材にして、俳句と日常との境界を見据えようとしています。個人的な出来事を素材にしているわけですから、ともすれば作者の叙情の押し売りになりがちです。そうした俳句的な危険に対し、充分なコントロールの元に作品を立ち上げている山口氏は、なかなかにしたたかな俳人といえるでしょう。
披露宴のビデオ反芻して妻は
最後から2番目の無季句を引用しました。「保守派」からも「改革派」からも「ざけんな」と一喝されそうな句ですが、ラス前の一句として緻密な計算を感じさせます。「反芻して妻は」というレトリックに戯画性を滲ませ、「牛になる」と思わず繋げたいように読者を誘導します。この句の「落し」が効いているので、次に来る最終句の「初明り」がより神秘性を放ち、「寝息」の余韻がいや増すことになるのです。このように山口氏の特質は、無邪気な偶然性に身を任せる素振りで、そのじつ巧妙な企図のもとに言葉の制御が行われていることにあります。逆に言えば、相手に余計な気を使わせないように、自らの気遣いを隠しているのです。そのテクストからは、俳諧士という昔かたぎな呼称が立ち昇ってきます。そうした点が師匠の中原道夫ゆずりといえるのかもしれません。
この「新鋭作家競詠」に登場する若手俳人10人ですが、昭和60年生まれの山口氏を最年少に、上は昭和44年生まれの関悦史氏まで、20代から40代の幅広い年齢層から選ばれています。彼らが新年の季語をどう使いこなしているのか、いくつか目にとまった句を抜き出してみましょう。
初空や真白き言葉立たせたし 相子智恵
初夢のあとアボガドの種まんまる 神野紗希
初夢はかの事故のなき世に一人 関悦史
パプリカの赤を包丁始かな 西山ゆりこ
先に引用した中原氏の文章を多少アレンジすると、新年という「大半が変哲もない日常の景」を眼前に、「仕立て変わればという条件付き」で詠むことで、そうした形骸化した日常の呪縛を断ち切ろうとするのが、いうなれば新年詠の生き残り策といえるでしょうか。つまり、あえて形骸化した日常と向き合い、それをどう仕立て直すか、その「仕立て」にこそ、新鋭ならではの新鮮な腕の見せ所があるといえるでしょう。引用した句は、いずれも「仕立て」に工夫が凝らされています。「初空」に横たわる真白き雲なら当たり前の仕立てですが、そこに「真白き言葉」を立たせることで俳句のメタファーを作り出します。「真白き」という単純な叙景を、自己言及の入れ子構造に仕立て直すことで、背景である「初空」と作者の分身である「俳句」とを同時に永遠化しようとします。「初夢のあと」で、「アボガドの種」の「まんまる」さに囚われてしまう作者は、初夢の中でどんなに歪んだ「まんまる」と出合ってしまったのか、という「謎」に読者は興味を掻き立てられます。一見「日常」の「ハレ」を描きながらも、そこに潜む裏返しの陥穽ともいうべき「謎」に、知らず知らず自己没入させられてしまう「仕立て」の見事さに感心します。また、「パプリカの赤」と「包丁始」の取り合わせも、アボガドと同様に日常性の踏み外しを狙った仕立て直しといえるでしょう。が、「包丁始」の季語によって、「赤」は「血」の暗喩と受け取られかねません。狙ったとしたら即物的なあまり逆効果なのが残念です。
「かの事故」とは、「プルトニウム」、「東日本」、「線量計」といった前後の句の言葉から推測するに、震災による福島第一原発事故と思われます。もちろんこの一句だけを読んだとしても、2013年2月の時点で「かの事故」といえば、中央道のトンネル崩落事故でもなければ、中国でおきた橋崩落事故でもなく、例の原発事故の「はず」です。しかし、もし50年後にこの句と出会ったとしたらどうでしょう。そのときに「かの事故」の「かの」は、間違いなく福島第一原発として認識され得るでしょうか。つまり、「かの事故」ということばとその指示対象とが、忘却という形骸化を免れ得る保障はどこにあるのでしょうか。もう一歩突っ込んで考えるに、日常をモチーフとする俳句が、テクストとして日常の形骸化から抜け出す道はどこにあるのでしょうか。
「かの事故」=原発事故がなかったもう一つの世界にいる自分という夢は、「かの事故」が日常のなかで原発事故を指すかどうかに関係なくフィクションです。しかしこのフィクションは、作者の無意識が作り出した世界ではありません。そこには非現実という世界に対する作者の願望がうかがえます。「初夢」という季語が「動かない」ためには、このフィクショナルな世界に自身の願望を託す必要があるからです。うかがえるといったのは、作者がそうした主体としての願望を俳句の奥深くに隠そうとしているからです。「世に一人」というぶっきらぼうな結びには、「かの事故」の不在と引き換えに、ノーマンズランドと化した己の心象風景に向き合う、最後の観察者としての強い自意識が隠されています。
仕立て直しというと技巧的な印象を受けますが、中原氏は認識のことをいっています。新鋭の皆さんの世界認識は、どれも充分に個性的といえます。彼らにとって新年の季語は、大方すでにフィクションです。フィクションという方法は、形骸化したリアルを仕立て直し、世界を活性化する効果はあるでしょうが、作者という主体が世界の中心にならざるを得ないため、個性という自意識に陥ると俳句の本質から遠ざかります。俳句であるためには、ひたすら俳句形式に身を委ねる覚悟とともに、構築された世界から自意識が消えてなくなるまで、俳句世界に君臨する自分という主体を抹消するまで、自ら俳句自動生成マシーンと化して作句し続けることが必要です。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■