『月刊俳句界』5月号の特集は『小説になった俳人たち』である。俳人を主人公にした松本清張、藤沢周平、司馬遼太郎、田辺聖子、城山三郎らの小説が見開き2ページで紹介してある。多少、小説の題材になった俳人たちに肩入れした書評といったところだ。ちょうど10人の俳人(10作の小説)が紹介されている。これで全部ではないだろうが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などが入っているから、代表的なものは網羅していると思う。
西鶴や芭蕉、一茶など、歴史上の人物で、フィクション化しやすい人物を除けば、近・現代俳人を主人公にした小説は決して多くないだろう。だいたい俳人に限らず、文学者で波瀾万丈の人生を送った人など少ないのである。興味のある方は小説をお読みになることをお薦めするが、それよりふと気になったことがある。〝小説になった俳人たち〟ではなく、〝小説家になった俳人たち〟という特集は組めるのだろうか。
正岡子規は『ホトトギス』を舞台に俳句の活動をし、短歌の方は根岸短歌会を作って歌人たちを指導した。そのかたわら、文章会を開いて小説の勉強会も開いていた。俳句、短歌、小説の三つのジャンルに足をかけていたわけだが、子規死後にそれが花開くことになった。根岸短歌会の伊藤左千夫は『野菊の墓』を書いて、当時のベストセラーになった。『野菊の墓』ほどではないが、長塚節の『土』もそれなりの評価を得た。子規門の歌人からは小説家が出たのである。
しかし彼らより前から小説を書いていて、一時は小説家になることを本気で目指した高浜虚子は、ついに小説では代表作を書けなかった。虚子は大正2年(1913年)にきっぱりと小説をやめて俳壇に復帰することを宣言した。表向きは河東碧梧桐の新傾向俳句に対抗するためだが、小説家としての自己の能力に見切りをつけたということだろう。一説には漱石門から芥川龍之介が出たことがそのきっかけになったのだと言う。芥川の小説を読んで、自分の時代は終わったと感じたとも伝えられる。
そんな古い話を、と思われるだろうが、平安短歌(和歌)は物語文学の母体になった。紫式部の『源氏物語』は、登場人物の心情が和歌になって表現されていて、いわゆる小説の地の文章はその散文的解説だと言えないことはない。式部は古すぎるかもしれないが、室生犀星や岡本かの子など、歌人で作家になった文学者は多い。短歌は情念の文学だと言われることがあるが、俳句よりも作家の自我意識を表現しやすいのである。逆に言えば、俳句形式に慣れてしまった作家には、小説が書きにくい傾向があると思う。
貝寄風(かいよせ)に乗りて帰郷の船迅し
麦の道今も坂なす駆け下りる
中村草田男
『月刊俳句界』5月号では『鉄道で行く!初夏の名句めぐりの旅』という特集も組まれている。子規つながりということで、松山で詠まれた草田男の句を二句引用した。特に名句・秀句というわけではないが、手慣れた句である。一句目は『帰郷の船迅し』に何を取り合わせるのかがポイントである。『貝寄風(かいよせ)』を思いついたところでこの句は完結している。二句目は『麦の道今も坂なす』をどう受けるかが問題だ。『駆け下りる』は麦の穂が実って頭を垂れていることからの連想だろう。これを『駆け上がる』にすると、述志の句になる。しかしたいていの俳人はそんなことをして自分の首を絞めたりしない。現実世界をなぞるように視線を移動させ、素直に言葉を取り合わせて一句一句を完結させていく。
ものすごく簡単に言えば、俳句で作家の思想を表現しようとすれば(述志)、それは俳句形式を溢れてしまう。たとえば『麦の道今も坂なす駆け上がる』にすれば、どこに向かって、何を求めて駆け上がるのかが問われる。それを表現しようとすれば、連作や句集単位で俳句をまとめなくてはならなくなるだろう。それよりも、取り合わせによる言語的衝撃で心情を表現する方が俳句形式にはふさわしい。『貝寄風』は耳慣れない言葉だが、耳慣れない言葉で、なおかつ貝を浜辺に寄せる風という意味があるから下の句が生きる。草田男は、貝が浜辺に打ち寄せられるように、故郷へと惹き付けられているということだ。
一本のマッチをすれば湖は霧 富澤赤黄男
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司
*
ラグビーの頬傷ほてる海見ては 寺山修司
ラクビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに 寺山修司
『月刊俳句界』では『魅惑の俳人』という連載が掲載されており、5月号は寺山修司である。記事の中から、寺山が俳句から本歌取り(と言っておく)して創作した短歌作品二首を抜粋した。俳句に比べて短歌の方が、より強い物語性を秘めていることがわかるだろう。『身捨つるほどの祖国はありや』と『自由をすでに怖じぬわれらに』は強引に俳句に接続されたとも読めるが、下の七七が上の五七五の説明になっている。ここから『祖国とはなにか』、『自由とはなにか』といった観念的主題を導き出すのはたやすい。
寺山修司については別の機会に論じることもあるだろうから、ここでは簡単に触れるだけにしておくが、〝青春詩人〟としての作品評価を別にすれば、彼の先駆性は、剽窃ギリギリの本歌取りにあったと思う。難しい言葉が好きな人向けに言い直すと、ポストモダン的な引用の問題を先取りしていた。世界を根っこのないリゾーム状の記号集合体として認識すれば、あらゆる言葉は相関的であり、言葉単体としても観念としてもなんらオリジナリティを持たない。鮮やかに、軽やかに、記号集合体である世界から言葉を組み合わせるのが、ポストモダン的な文学作法だと言うこともできる。
しかし寺山の方法は中途半端だった。彼は自在に引用し、本歌取りしたが、どこかで表現の〝本質〟に囚われていた。それは恐山でも母でもよかった。だがなにか〝本質〟らしきものを設定しなければ、創作というものの落としどころを見つけ出せなかった作家だった。そのあやふやな本質設定が寺山文学をいわくありげななものに見せており、同時に底の浅いものにしている。まったく本質を措定しなかったなら、寺山は二十一世紀を先取りした詩人になれたかもしれない。
勘の良い詩人だったが、寺山の方法は最後まで俳句的だった。要するに取り合わせであり、事件の衝撃に寄りかかっている。短歌が『祖国』や『自由』という観念的主題を必要とすることに敏感に気づく感性を持っていたが、そこから物語を敷衍することはなく、あくまで言語的な観念的主題として扱った。俳句の取り合わせは多かれ少なかれ言語的衝撃に寄りかかっているが、それを最後まで手放さなかったのである。寺山は劇作家で映画作家でもあるが、彼の作品はすべてがオムニバスだと言っていい。言葉と映像を使い、次々に衝撃を与え、その衝撃の大きさによって次のシーンを導き出している。骨の髄まで俳句作家だったと言えるだろう。
文学のジャンルというものは一つの肉体である。肉体は絶対に経験を超えられない。そして文学の肉体の檻は精神をも縛る。俳人の皆さんが、自分たちには関係のないジャンルとして小説を楽しくお読みになるのもいいだろう。しかし、駄作でも、失敗作でもいいから小説をお書きになってみてもいいのではないかと思う。そうすれば、俳人がいかに俳句形式という肉体に縛られ閉ざされている存在であるかということが、それこそ〝肉体の痛み〟として理解できるのではないかと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■