『月刊俳句界』6月号の特集は『風狂の俳人たち』だが、ほかにも『現代俳句のフロンティア』、『名句集に名序文あり』などの特集が組まれている。それに今号は『第14回 俳句界評論賞発表』号で、該当作はなかったが佳作に選ばれた江連晴生氏の『現代詩を再生するのは俳句なのか?』が掲載されている。
江連氏の評論は詩人・清水昶の作品や評論を取り上げて、俳句と現代詩の関係を論じている。紆余曲折はあるが、現代詩の再生は広義の定型(俳句的文学)にあるとの結論に達している。現代詩がなぜ再生されねばならないのか、また現代詩とは何を指すのか、あるいはとりあえず現代詩と呼ばれるジャンルが瀕死の状態にあるのかどうか、正確なところを知らないのでなんともコメントしようがないが、面白いテーマなので、編集部で詩人の方に参加してもらって、もう少し議論を深めたらどうだろうと思う。
特集に戻ると、総論の『月刊俳句界とは』で書いたように、『俳句界』という雑誌には俳壇ジャーナリズムを作り出そうという姿勢はなく、俳句の世界を淡々と網羅している。従っていずれの特集も俳句(俳壇)入門といった趣である。メイン特集の『風狂の俳人たち』も型どおりの展開である。この特集で〝風狂〟について学ぶのではなく、特集で当たりをつけて、そこからは自分で学習してくださいといった意図だろうと思う。
簡単に言えば、〝風狂〟でまず思い浮かぶのは芭蕉である。特集巻頭の堀切実氏のエセーも芭蕉で始まっている。芭蕉が生きた元禄時代は、江戸時代最初の経済繁栄期である。それにともない、京都・大阪が中心だった〝西の文化〟が一気に東の江戸に流れ込んだ。お金の集まるところに文化が栄えるのは今も昔も同じなのである。芭蕉だけでなく、尾形光琳など、西の桃山文化を受け継ぐ文人たちが江戸に集った。
芭蕉の風狂とは、実社会ではなんの役にも立たない俳諧に全勢力を注ぎ込み、社会的無能者である俳諧師として生きることを指す。元禄時代は、芭蕉のような徒食の人を養えるほど充分に豊だったのである。もちろん芭蕉には、乞食(こつじき)は聖(ひじり)につながるという思想がある。芭蕉は俳句だけでなく、散文家としても一流だったが、その骨格は漢文にある。相当な教養人でなければ書けない、恐ろしく頭の高い文章を書いた人だった。また芭蕉の旅を放浪と呼ぶことはできない。それははっきりとした文学的目的を持った旅であり、芭蕉を庇護する素封家たちが各地にいた。芭蕉は西行に比肩する、あるいは西行を超える風狂詩人を目指した文学的野心家だったと言ってよい。
しかし明治以降の近代に入ると風狂の意味が違ってくる。乞食は聖という思想はどこかで共有しているが、近代俳人の風狂は、芭蕉のような高貴な乞食ではなく、社会的落伍者としての烙印を押された人たちを指すようになる。種田山頭火、尾崎放哉らがその代表だろう。特集では『風狂の俳人たち』のアンソロジーが組まれているが、石川桂郎、高橋鏡太郎などの社会的落伍者や、必ずしも文学とは結びつかない奇人変人が多い。作品よりも人生をドラマにした方が面白そうな俳人もいる。
もうだいぶ前のことだが、古本屋で高柳重信の評論集を買ったら、中に山頭火論が収録されていた。あいかわらず重信は頭がいいなと感じる評論だった。重信は山頭火の俳句が必ずと言っていいほど日記とペアで論じられると指摘している。要するに作品単体では弱いのだ。その理由を重信は、山頭火がなにものからも逃げ出した人だからだと結論付けていた。山頭火は仕事から逃げ、妻子供から逃げ、俳句形式からも逃げたのだ。従って山頭火の自由律は、後の世代に受け継がれるような思想を持っていない。要するに〝ぬるい〟。重信はそう書いていたと思う。放哉についても同様のことが言える。
世に山頭火・放哉ファンは多いから、重信の論を読んでも納得しない人もいるだろう。ただ僕は、重信の山頭火論を読んで、ああ、これで自分では山頭火論を書かなくてもいいなと思った。正岡子規のように芭蕉の奥の細道の旅路を辿り、その風狂の〝嘘〟を体験するのは俳句文学にとっては意味のあることだろう。しかし山頭火の足跡を辿るのは山頭火ファンの楽しみでしかないと思う。自由律を含め、俳句定型を大きく逸脱する作品を書くには高度な思想と技術が必要だ。思想のない〝前衛的〟俳句は、本物の生活破綻者になるか、奇特な伝記作者によってその人生の機微が解き明かされなければ、作品として自立しない。
好んで生活破綻者になりたい人などいないはずだから、ほとんどの俳人にとって風狂とは基本的に芭蕉のそれを指すだろう。そうするとそれは、豊かな社会の上澄み的仕事によって、いかに俳句文学の、日本文学の本質に迫れるかという設問になるはずである。『俳句界』の特集『風狂の俳人たち』は必要充分な内容だと思うので、ここから風狂の本質について考えるのも楽しいのではないかと思う。
なお今号の俳句では茨木和生の新作が面白かった。
月に浮き出て氷室の桜かな
白粥の米美しき薄暑かな
山を下り来たる日差に朴の花
川魚は干物に向かず青嵐
墾畑の出小屋も荒れてほととぎす
目を遠く雲に置きゐる羽抜鶏
五月蠅なす神に米塩怠らず
雨突いて愛宕の千日詣かな
稗蒔の担ひ売りなら買うて出よ
正統派伝統俳句の顔つきだが、この俳人の作品には清潔感がある。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■