月光や漂う宇宙母(ぼ)あおむけに
天類や海に帰れば月日貝
『安井浩司『俳句と書』展』の墨書句は、安井さんの処女句集『青年経』から最新句集『空なる芭蕉』までのセレクトだが、各句集から均等に句が選ばれているわけではない。一番墨書点数が多いのは『空なる芭蕉』の13点で、次が『汝と我』の11点である。選ばれた句の数が多いからといって、ただちに安井さんがその句集を重視していることにはならないが、『空なる芭蕉』の墨書が多い理由は明らかである。最新句集だからである。
作家や画家といったジャンルを問わず、創作者にとって一番大事なのは最新作である。もっと言えば現在とりかかっている作品である。どの創作者にとってもそれは同じだが、問題は作品の質だ。もちろん作品は一作ごとに完結している。発表直後に高い評価を得ることもある。しかし作品史はまた別だ。作家の作品史は結局のところ最新作で計られる。最新作が迷走していれば過去作品の評価が揺らぐことも珍しくない。優れた作品は完璧に見えるが迷走作は隙だらけだ。その隙から過去作品が傑作に見えた理由が手に取るようにわかってしまう。作品を魅力的にしていた謎が失われてしまうのだ。
安井さんの『空なる芭蕉』はⅠからⅦの7章から構成されるが、第Ⅶ章は『天類抄』と名づけられている。その冒頭が『月光や漂う宇宙母(ぼ)あおむけに』で、最後の句、つまり句集の棹尾を飾る句が『天類や海に帰れば月日貝』である。一つの句集や章単位で、その冒頭と末尾の句を墨書にしたのはこれだけである。また安井さんは『天類や』を軸と色紙に書いている。それは『天類や』の句が安井さんの過去と未来を繋ぐ最前線だということを示しているだろう。この句の到達内容が安井さんの心の大きな部分を占めているのである。
冬銀河磁気の海老ども浮遊すや
秋雲にひそむ白猫尾を垂らし
渾円の天地のずれに住むからす
流雲やかけじくに在り宇宙山
星に吊る炊事道具へ鼠跳ね
燕舞う宙に初めの胎(はら)づくり
「天の高さは草のごとし」と語る墓
『天類抄』には天と宇宙のイメージが満ちている。安井さんには『密母集』という密教的母性を主題にした句集がある。『夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ』『はこべらや人は陰門(ひなと)にむかう旅』というように、『密母集』では万物生成母胎は女性性の喩で表現されていた。しかし『宇宙母』の輪郭は希薄で明透だ。『宇宙母』は『密母』から宗教的観念性を剥ぎ取った万物生成の母体だろう。それはほぼ純粋な抽象的創造母胎である。
単純化すれば人間の世界認識は天上界と地上界から構成される。存在以前(あるいは以後)の不可知で聖なる天上世界と、混乱し汚濁渦巻く現実の地上界である。『天類抄』ではこの天上界と地上界の境目がほとんどない。存在は天上界と地上界(現実界)を自在に行き交う。海老は磁気となって冬銀河を浮遊し、まん丸の天地(渾円)のあわいに鴉が住む。『天の高さは草のごとし』とあるように、天上界と地上界は等価なのである。存在は存在以前の天上界に戻り、天上界は地上界に転生する。それを何の観念も援用せず、極めて審美的に表現したところに『空なる芭蕉』の新たな表現地平があるだろう。
わたしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(中略)
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ また空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
(宮沢賢治『心象スケッチ 春と修羅』『序』冒頭部 大正13年[1924年])
作家の仕事を地方的特性でまとめてしまうのはいかにも乱暴だが、確かに〝東北力〟と呼ばれるものはあるように思う。自我意識を天上界と地上界の両方に遊ばせ、存在以前のモノに言葉を与えて独自の言語作品を作り上げるという意味で、安井さんと宮沢賢治の方法は意外なほど近い。賢治が『ひかりはたもち その電燈は失はれ』と書いているように、地上界の存在は天上界のそれの投影であり、地上界に存在しなくてもその源基は天上界にある。賢治は天上界と地上界が交錯する『有機交流電燈』である。
蟋蟀は月光童子の髪のなか
砂あらしエジプト十字となる人よ
夢野なら十字狐を枕とす
これらの句を賢治が読んだら狂喜するのではないかと思う。『蟋蟀』と『月光童子』の取り合わせはいかにも賢治好みだ。また賢治は『十字』という言葉をよく使った。銀河鉄道は銀河に沿って北十字から南十字へと走る。十字にキリスト教的な意味は希薄で、それは地上界と天上界の交錯の喩だと考えられる。賢治童話に『十字狐』が登場していても異和感はないだろう。
賢治は熱狂的な法華経信者で国柱会の信徒だった。国柱会は戦前の『八紘一宇』思想を生み出したことで知られる。『八紘一宇』などと言うとなにやらきな臭いが、それは密教的世界観を現実政治に援用したものだった。賢治も安井さんも政治的にはノンポリだが共に密教思想に深く親炙している。安井さんの作品やエセーを読む限り賢治に熱狂した痕跡はないが、『安井浩司『俳句と書』展』所載年譜の昭和17年(1942年、8歳)の項に、『羽後山中の秘境、岩見三内村にて一年間の疎開生活を送る。この時の「風の又三郎」的体験が、後の詩嚢の滋養となる』とある。賢治文学を愛したというよりも、賢治と同じ東北的な体験を共有したと言うべきだろう。
少し批判めいたことを書いておくと、『天類抄』が『月光や漂う宇宙母(ぼ)あおむけに』で始まり『天類や海に帰れば月日貝』で終わるのは、ちょっとできすぎのような気がする。美しすぎるのである。安井さんは『空なる芭蕉』を最後の句集にするつもりだったと聞いたことがあるので、あるいは〝まとめ〟の意識が働いたのかもしれない。しかし僕たちは完璧な作品に目を瞠るが、尽きない刺激を受けるのはむしろ目標が巨大過ぎて未完のまま終わった作品の方だ。安井さんは熾烈な作家さんだ。その来し方に忠実に、できれば草を掴んで倒れるような、あくまで前のめりの姿を見たいと思うのである。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■