今号は「現代短歌評論賞」受賞作発表号で竹内亮さんの「仮想的な歌と脳社会――二〇二〇年代の短歌」が受賞なさいました。雑誌は雑誌ごとにカラーがあっていいわけですが竹内さんの評論を読むと短歌研究誌がニューウェーブ短歌に相当肩入れしていることがわかります。もちろん歌壇全体に広く目配りしておられますがニューウェーブ短歌の実作者と愛好者の牙城だと感じます。率直な感想です。では竹内さんはどんな論を展開しておられるのでしょうか。
東京が燃え上がるって思ったのは遠い夜空にそれを見たのは
瀬口真司「パーチ」
(「ねむらない樹」一〇号、二〇二三年)
溺れる胸が真珠のように痛んでも息をして、作戦の神様
(同)
月光が京浜間の工場を照らす 仮想の領土を割って
(同)
*
数字しかわからくなった恋人に好きだよと囁いたなら4
青松輝『4』(ナナロク社、二〇二三年)
竹内さんは瀬口さんと青松さんの歌について「瀬口や青松はあえて読みようのない「わからない」歌を作っているのではないか。そこでは読みの「射程距離」がそもそも想定されておらず、「わからない」こと自体が志向されている。そのようにして作られた「わからない」歌が読者に受け入れられているようにも思われるのである」と批評しておられます。
なるほど確かにわからない歌です。でも「あえて読みようのない「わからない」歌」として作られそれが読者に受け入れられている」んですね。その読者層は歌人全体から見れば少数かもしれませんが。
神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください
木下龍也『オールアラウンドユー』(ナナロク社、二〇二二年)
0時 この街は線路という細い背骨じゃ立てず雪に埋もれる
(同)
終わりだけ記念日となる戦争が馬鹿だからまた始まっちまう
(同)
国土交通省へ行く国土交通省がまだ知らない交通手段で
(同)
ひとつめの扉を閉じているような祖母の運転免許返納
(同)
竹内さんの木下龍也さんの歌に対する批評は次のようなもの。
木下の特徴は明快さである。瀬口、青松との対比でいえば「わかる歌」ということになる。歌会に出された場合には読みが分かれることは少ないだろう。
*
木下の歌が言葉の意味のレベルでも詩的なポイントについても明快であるのは、読者に理解する努力をさせないというコピーの方法に沿うものだ。
*
これに従うと、木下の歌は「わかる歌」ではあるが、そこでいう「わかる」の意味は、「読者が既に無意識に知っていることを言語化したもの」ということになる。
んん? こうなるとマジでわからない。木下さんの歌が「コピーの方法に沿うものだ」というのはちょっと無理筋ではなかろうか。なるほど端的でキャッチーなコピーは「読者が既に無意識に知っていることを言語化したもの」でしょう。しかし木下さんの歌は傑作コピーのようにスッと感覚的に了解できるものではない。なんで「木下の特徴は明快さである。瀬口、青松との対比でいえば「わかる歌」ということになる」と言えるのか。まったくわからない。
(前略)椛沢(知世)の連作「ノウゼンカズラ」には、
犬の骨を犬のようにしゃぶりたいと妹の骨にも思うだろう
(椛沢知世「ノウゼンカズラ」)
割ったあとの卵の殻のみぎひだり 妹の笑窪のみぎひだり
(同)
のような歌がある。「犬の骨」と「妹の骨」、そして「卵の殻(のくぼみ)」にそれぞれ同質性をみると思われる歌である。この同質性は仮想的なものとみることもできるが、併せてそこには主体の強い不安を感じる。そして、このような不安の強い歌は、「人工的」ではないのではないだろうか。「生の不安」は操作できないからであるように思う。わたしはこのような歌に「仮想的な歌」における「実感」の生成のひとつの方向性をみる。
竹内さんは椛沢知世さんの歌を最も高く評価しておられます。論の運びに説得力があるかどうかは別として椛沢さんの歌に「「仮想的な歌」における「実感」の生成のひとつの方向性」があると感じているからです。これだけでは分かりにくいですよね。
短歌の現状は、社会の抗しがたい「脳化」を反映して仮想的なものが志向されているが、そのなかで、短歌は、実感(その一例として「不安」)を「注意深く探り当てる忍耐力」を発揮する契機としての意義を有しているのである。
竹内さんの評論の結末で結論です。「脳化」はAIなどの人工知能やリアルなサイバー空間のことです。要はコンピュータとネット普及による膨大で質の高い情報が短歌表現を現実と対応しない「仮想的」なものにしている。しかし短歌はもちろん人間にとって最もプリミティブで切実なのは「実感」です。それを椛沢さんの歌が従来とは異なる方法で取り戻し表現しているのではないかというのが結論ということになります。竹内さんが主張したいことはわからなくはない。要は現代世界に対応した従来とは違う感情の表現方法があるはずだということでしょうね。
ただ竹内さんの評論がいわゆるニューウェーブ短歌業界以外でも通用するとは思えません。まず論の前提として現代的な二〇二〇年代の短歌は確実に存在するという認識(結論)がある。その裏付け(論証)となる歌の読解は基本現実対応の評釈。短歌のアイデンティティは定型短詩の私性表現なのですから当然です。ほぼ修辞(言語実験)だけで構成される極端な現代詩のようなわけにはいかない。しかしどの歌も意図的に一義的な日常的意味伝達を拒否しているので評釈は多様になる。その中から結論に合致した評釈を選び強調するのは恣意。説得力に欠ける。二〇二〇年代の「仮想的な歌」は捉えにくい現代世界の鏡像として作られた意図的「わからない」歌だというくらいの論証しかできないのでは。詩の技法としては現実に即しながら現実的文脈を脱線・脱臼させた一昔二昔前のねじめ正一や鈴木志郎康の現代詩みたい。短歌では目新しいんでしょうけど。うーん。
高嶋秋穂
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■