歌壇時評で真中朋久さんが「郵便はどうなるのか」を書いておられます。
さてこの十月から郵便料金が値上げされる。人件費も物価も高騰していることを思えば、やむを得ない面はある。諸外国との比較を示されればそんなものかとも思うが、これから先、どうなってゆくのだろうか。(中略)不便になっても料金が上がるとなれば、郵便の利用が、いっきに電子的な手段に雪崩れてゆくのか。多くはまだ葉書で受け付けている新聞投稿などは、郵便事業にそれなりに貢献していると思うが、葉書料金の値上げによって投稿が減るのか、投稿者が自分自身で厳選してレベルが上がるのか、あるいはまたメールやウエブの投稿を受け入れるようになって、質的な変化が進むのか。
真中朋久「郵便はどうなるのか」
まったく真中さんが書いておられる通りですね。年末を前に郵便料金が葉書63円から85円に封書は84円から110円に値上げされただけでなく土日配達も休止というより廃止になりました。これでさらに年賀状を出す人が減るだろうなぁ。
小泉首相時代に郵政民営化があり政治に疎いわたくしなどはなんのこっちゃという感じで見ておりましたがきっと良い方向に進むんだろうと好意的に捉えていました。でもどうやら逆ですね。郵政民営化のせいだけではないと思いますが郵便局の郵便制度は廃止にならないにせよこれからも料金が上がりサービスは低下しそうです。
それに代わるのは言うまでもなくメールやデータ共有です。真中さんによると短歌・俳句の新聞投稿欄はまだ葉書で受け付けているそうですがいずれメール併用からメールのみに変わってゆくでしょうね。小説文芸誌の新人賞はほんの数誌を除いてすでにメール応募のみになっています。葉書・封書に限らずいわゆる生原稿のやり取りが廃れてゆくのは世の中全体の変化から見て必然です。
じゃあそれによってどういう変化が起こるのか。葉書や生原稿で新人賞を応募していた時代はそれを整理するスタッフが必要でした。けっこうな手間です。でもメールになっても手間は変わらない。添付ファイルなどを整理するスタッフが必要です。要は整理スタッフの仕事の質が変わるだけで原稿整理にかかる時間はほぼ変化なし。パソコン一台でできる仕事なので葉書を積み上げるより楽かも。テレワークで安価な外注も可能になります。ただし応募時に厳密な応募要項を決めておかないとてんでバラバラのスタイルで応募してくるので整理に手間がかかる。応募スタイルを決めそれに合っていない原稿は容赦なく受け付け不可とするしかない。
メール活用はいいとしてそれによって原稿の質が下がるんじゃないかという懸念があります。これはそうだともそうではないとも言えます。新人賞を賞品懸賞のように捉えている人はいつだって一定数います。そういう人は郵便だろうとメールだろうとおざなりの原稿を送ってきます。投稿欄にせよ新人賞にせよ募集側が求めているのは本気の作家だけですから原稿の質低下を懸念する必要はないと思います。応募姿勢はもちろん原稿をチラッと読んだだけでも応募者が本気かどうかはすぐにわかる。それは手書きだろうとメールだろうと変わらない。
ただしメール全盛時代になると手書きの葉書や手紙時代にはあった情報の欠落が生じるのもまた確かなことです。
三月二十四日風雪を冒してとほく多珂郡に行く乃ちよめる
歌并短歌
物部の真弓の山の、尾の上には人さはに据ゑ。谷邊には人さはに据
ゑ。巌根裂く音のみ聞きし。諏訪村の梅さきけりと。とほ人の吾に
告らせば。燃ゆる火の焔なす心。包めども包みもかねて。をとつ日
の雨降る日の。きその日の雪降る日の。今日までにけならべ降れど。
時經なば散りか過ぎむと。行く惱み吾そは追へる。とほき多賀路を。
短歌
雪降りて寒くはあれど梅の花散らまく惜しみ出でゝ來にけり
多賀路はもいや遠にあれば行かまくのたゞには行かず時經ぬるかも
長塚節(明治三十五年[一九〇二年]作)
真中さんは時評冒頭で長塚節の長歌と短歌を取り上げておられます。明治三十五年(一九〇二年)三月二十四日に茨城県日立市の諏訪梅林を訪れたのを機に作られた作品です。
真中さんはこの長塚作品を考証しておられます。まず節はどうやって諏訪梅林に行ったのか。鉄道なのか徒歩なのか。また長歌に「諏訪村の梅さきけりと。とほ人の吾に/告らせば。」とありますが梅が咲いたと報せたのは誰なのか。さらに「三月二十四日風雪を冒してとほく多珂郡に行く」とあるのは出発日なのか到着日なのか。それらを節の書簡集などを活用して考証しておられる。
詳しくは実際に真中さんの歌壇時評を読んでいただければと思いますが節の時代の郵便事情は今より俊敏でした。真中さんの考証では節が「とほ人」に梅が咲いたかどうかを問い合わせて返事があるまで最長でも五日ほどです。もっと短かったかもしれません。メールがなく電話が普及していない時代だからこそ郵便産業は盛んで郵便配送も俊敏だった。
しかし現代のメールはデジタルデータですから葉書や手紙のように物理的に残りにくい。大量に送受信するメール全てを自分のパソコンに保存している人は少ないと思います。またパソコンは最長でも10年ほどで買い換えが必要になります。それを機にメールデータを整理する人も多い。クラウドにしても契約が切れればデータは失われる。つまり葉書・手紙が主流だった時代より私信は残りにくい。
これは研究者にとってはとても不便なことでしょうね。大作家はもちろんマイナー作家についても研究する人はいます。従来は葉書・手紙がその人の人生の機微を知るためのうってつけの資料でした。しかし今後はそれが残りにくいと考えなければなりません。
翻って創作者にとってはどうでしょう。私信が残りにくいことを残念がる人もいれば喜ぶ人もいるでしょうね。私信はその人にとって黒歴史にもなりかねない。失われて結構と考える人も多いと思います。またメールという形でも自分の私信が残って欲しいと思っている作家はちょっとショッテルかもしれない。死後に全集が出て漱石や鷗外や子規のように書簡集が編まれるだろうと考えている人はメールを全部保存しておいたらよろし。
いずれにせよこういった流れは世の中全体の大潮流に対応しています。わたしたちは日々大量の情報に接しています。情報を受け入れ取捨選択し続けている。その中で文学時代主義に陥るのはどうなのかなという疑問はある。個人的にはメールなどの私信は切り捨てていいのではないかと思います。
文学者はもはや社会におけるオピニオンリーダーではありません。あるジャンルの専門家であり専門家である以上は素人には及びもつかない知見と創作能力を持っていなければ作家として社会的に認知されない。それは今後益々進む。私信などの枝葉を刈り取って優れた作品だけが残ればいいという考え方もアリです。
高嶋秋穂
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