先月号の特集は「大特集 消えゆく梅雨?~環境問題と俳句」で今月号は「潜在意識と俳句」である。まぁ言っちゃ悪いが今こんな大問題を、論理的にであれ芸としてであれ面白おかしく、でもタメになるように書ける俳人はいないと断言できる。俳句と人間の意識構造について一度も考えたことがなく興味もない人に、一ヶ月やそこらでまともな原稿が書けるわけがない。なんでこんなムチャぶりをしたがるんだろうなぁと首を傾げて時評をスキップしようとしたのだが、特集巻頭の河合俊雄先生の文章はさすがだった。俳人は手っ取り早く俳句を書くための参考にならないから読まないでしょうけど。
この刊の特集は「潜在意識と俳句」であるそうだが、心理学のなかで潜在意識はどちらかというと認知心理学などで扱われている。
*
それに対して私の専門とするユング心理学などの心理療法や臨床心理学のコンテクストでは、むしろ「無意識」が問題にされる。
*
ユングは、個人の過去の体験に起因するような個人的無意識に対して、個人の体験を超えて文化的・歴史的に共有されている集団的無意識を重視した。その際には、イメージの象徴性が大きな意味を持つ。
*
それでは個人を超えた集団的無意識という考え方に基づいて俳句が理解できるかというと、そうではない。
河合俊雄「俳句とこころの古層」
潜在意識は顕在意識と対にされることが多い。顕在意識は簡単に言えばわたしたちが目覚めている時の意識である。しかしある瞬間に、切羽詰まった時やあまり思い出したくない過去を振り返ったときなどに潜在意識層から知識や記憶がフッと意識に上る。つまり潜在意識はわたしたちの意識の一部ということになる。
特集タイトルは「潜在意識と俳句」だが、当たり前だが俳句は意識的に書かれる。書く際には顕在意識だけでなく潜在意識もフル稼働させているのは言うまでもない。人間意識は顕在意識+潜在意識だと言えるので「潜在意識と俳句」というお題ではあまり意味がない。
じゃ、なんで「潜在意識と俳句」というお題になったのかを河合先生は推測して、それは多分、人間の「無意識」と俳句との関係を問いたかったのだろうと論を進めておられる。
河合先生が書いておられるように無意識には個人的無意識と集団的無意識がある。俳句は伝統文学(伝統芸)であり、ほとんどの俳人が五七五に季語の形式に右倣えする集団的文学である。では日本人あるいは日本文化の集団的無意識が俳句を生み出したのだろうか。
それについてはアプローチ方法によって結論が分かれるだろう。が、河合先生はひとまず「個人を超えた集団的無意識という考え方に基づいて俳句が理解できるかというと、そうではない」と論を導いておられる。俳句の理解という面に限ればその通りだろう。
西洋で生まれた心理療法は、どうしても人間主体を立てて、それがどのように現れて変化していくか、それがどのような対象を持つかを問題にする。(中略)
ところが日本の心理療法では、どうも主体というのははっきりとしないし、無意識も象徴体系によって理解できるものではない。それは弱点でもあるけれども、建設的な側面ももっている。日本では箱庭療法が非常にさかんである。西洋の心理学で考えると、箱庭療法での作品は、クライエントのこころを映し出したもので、そこで主体が表現している風景やそれぞれのアイテムを象徴的に解釈していくと意味が浮かび上がってくる。しかし日本での箱庭はそうはいかない。砂を盛り上げて作られた山、砂を掘って現れた青地による湖は自律的な自然の現れであり、そこに置かれた鹿や兎などのアイテムも、自律的な動物やイメージの現れである。ここには自然やものが自律的な魂を持って、そのままに現れてくる象徴化されていない「直接性」があり、それは実はわれわれのこころの古層に残っているものなのである(河合隼雄『夢とこころの古層』)。どうも象徴化以前のこころが、古層として残っているように感じられる。そしてそれは象徴性を超えて、いわば無から立ちあがってくるからこそ、身体疾患やターミナルケアの通常の心理療法の枠を超えた場合において、力を持ちうる。
このように日本で心理療法を行っていると感じられる、主体が消えたときに立ち現れる自然とものの魂やその直接性は、日本で生まれた俳句という芸術にも色濃く表れているように思われる。
同
河合先生の論は俳句を理解する上で大きな示唆に富んでいる。先生は「(西洋では無意識は)ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と言ったように、あくまでも言語的に捉えることができるし、象徴体系によって理解できるものである。芸術においても、西洋では作品は芸術家主体の表現になろう」と書いておられる。
しかし西洋的無意識の言語的・象徴体系的構造が日本人には見られない。その典型例が箱庭療法である。日本では箱庭を作らせてもそれを個人の無意識構造として読み解けない。河合先生は「どうも象徴化以前のこころが、古層として残っているように感じられる」と書いておられる。
ランダムだが自律性の高いモノとモノの取り合わせが俳句の根幹であるのは言うまでもない。先生が示唆されているように、このモノとモノの取り合わせは「象徴性を超えて、いわば無から立ちあがってくる」ものだと言っていい。人間主体が自律性の高いモノとモノの取り合わせ(箱庭)を作るのではなく、人間主体はどこまでも希薄になって「主体が消えたときに立ち現れる自然とものの魂やその直接性」が現れていると言った方がずっと理解しやすい。
もちろん俳句は短歌から派生した。短歌の初源は叙景だがそこに作家の自我意識が憑き、それを継続しながら徐々に作家主体の自我意識表現が強くなっていった。盛期王朝和歌を読めば短歌はわたしはこう思う、こう感じるの自我意識表現である。ただずっと「主体が消えたときに立ち現れる自然とものの魂やその直接性」を秘めていた。それが中世になって俳句として切り離された。乱暴だがそういう理解は可能である。
短歌が数百年かけて追い求めた自我意識表現は世界中の文学で認めることができる。その意味で表現内容中心に見れば短歌は世界文学である。が、俳句は日本独自の表現だ。ただ短歌は日本人の無意識に直結している。それがほぼ自我意識表現のないモノとモノの直接的取合せによる自律的表現世界=俳句の世界観を生み出した。またこの構造をさらにたどってゆけば日本語の発生問題にまで行き着くはずである。
こういった議論は手っ取り早く俳句を書きたい人たちには何の役にも立たない。ただ比喩的に言えば俳句は何をどうやろうと、どんなに足掻こうと「箱庭」に過ぎない。絶対に広い庭にはならない。またたいていの俳人は箱庭を弄り回すだけで満足して楽しく一生を終える。が、俳句はなぜ箱庭なのか、なぜ箱庭にしかならないのか、庭とは何か、どうしてそこに人が見あたらないのかと考え、絶望の末に自在になった者だけが優れた俳人と呼ばれるはずである。
俳句は簡単に詠めるが初心者段階を過ぎると途端に難解になる。たまさかの偶然で名句秀句が生まれる可能性は極めて低い。俳句は絶望的な延命の芸術だ。だが死にそうで絶対に死なない。百年に一度あるかないかだが、必ず俳句について底の底まで考え抜いた作家が現れるからである。
岡野隆
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■