「当時者性と批評性」という一筋縄ではいかない特集が組まれています。短歌は作家の現実(体験)を謡うものなのかはたまたフィクションも可能なのかという問題とも繋がりますね。これについては作家の内面を際立たせるためならフィクションは許容できるというのが大方の歌人の意見だと思います。
寺山修司に「子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯をのこせり」があります。映画『田園に死す』でも使われた歌なのでシナリオに沿った作品だとも言えますがお母様がご存命だったのは事実です。ただ寺山の中には母殺しの欲望と共に母子相姦を匂わせるような倒錯した感情もありました。それは生前からよく知られていたので寺山の母殺しを文字通り受け取る人はいませんでした。
しかしこれがなんの予備知識もない作家だったらどうでしょう。現実に父母が存命でも歌の中で亡くなったと書けば読者はそれを事実として信じます。だいぶ前にそういった連作が新人賞を受賞して議論になったこともありましたね。この場合悲しいという絶唱を詠んでいれば多くの読者は嫌悪感を抱くでしょうね。その反対にどうしようもない憎悪が表現されていればある程度まで読者は納得するでしょう。フィクションを使うとしても作家の現実の反映としての逆転でなければ歌としてなかなか受け入れ難いのではないでしょうか。
同じ時刻に、自分の機転で全校生徒を救った教師を私は知っている。しかしその人は自分を誇ることをせず、世間から表彰されることもない。きわどいところで生き残る側に残ったことを、よく知っているからだ。他方、犠牲になった子を持つ親からは、いかんともしがたい悔しさを、訴訟という手段に訴える人も出てくる。しかし訴訟は、たとえ勝訴したとしても犠牲を賠償金として換算されて終了し、その後に大きな空白が残る。このようなやり方でなく、つまり恨みを晴らすために〈悪人〉を設定するのではなく、むしろ善悪の範疇を超えて、なおかつ犠牲者を生かす在り方はないのか、この問いをこそ私は負い続けてきた。
佐藤通雅「論考 当時者性/非当時者性 そのやうな問いかけを宥さないこと」
佐藤通雅さんは東日本大震災の被災者のお一人です。「第一の当事者は、犠牲になった二万人の人にほかならなかった」と書いておられるので被災者ですが佐藤さんはご自身をいわば第二の当事者として位置付けておられます。この場合「せめて(第一の)当事者の悔しさの分も、代弁しておきたい」という感情(作歌動機)を抱くのは当然だと思います。
また佐藤さんは生徒七十四人と教員十名が犠牲になった大川小学校の惨事についても触れておられます。この惨事は裁判となり学校側に不備があったとして宮城市と県に約十四億三千六百万円の支払いを命じる判決が確定しました。この裁判について佐藤さんは「恨みを晴らすために〈悪人〉を設定するのではなく、むしろ善悪の範疇を超えて、なおかつ犠牲者を生かす在り方はないのか」と問いかけておられます。一瞬の判断が生死を分けたことを知っている当事者にしか書けない文章です。
佐藤さんが指摘しておられるのは〝当事者〟が置かれた厳しい現実です。あらゆる社会問題は複雑です。SNSで当局や関係者を批判するのは簡単ですが一歩足を踏み入れれば問題解決までにほとんど人間の一生分の時間が必要になることが多い。水俣でもLGBTでもそれは同じです。どっぷり問題に関われば綺麗事ではなくなる。裏切り抜け駆け金銭欲・政治欲など人間のあらゆる欲望や感情を見せつけられることになる。弱者やマイノリティの戦いでも必ず弱者の王が現れてそれを利用しようとする。純粋な社会運動など存在しないのです。当事者の厳しさとはそういうことでもあります。
もちろん当事者以外問題について発言できないわけではありません。しかしその線引きと内容が問題になります。
いわゆる時事詠を批評するときに、当事者は関係するか。
といえば、まったく関係がない。ある出来事の当事者の提出した短歌作品が、当事者である、というそれだけでその作品が優れているわけがない。
提出した作品が、ただの決意表明だったり、ニュースの見出しのようであったり、スローガンだったり、類型的であったりしたならば、〈作者〉が当事者だろうが何だろうが、それはその程度の作品ということだ。
時事詠であろうが何だろうが、その作品が優れているか、そうでないか、をジャッジする基準というものは存在する。しかし、その基準は、当時者性ではなく別の基準だ。
では、別の基準とはなんだろう。と、いうことをここから先、短歌技法面にもっぱら注目しながら議論してみよう。
桑原憂太郎「論考 読みと批評 臨場感、アイロニー、比喩」
桑原さんが論じておられるのは時事詠です。事件の当事者以外でも地震や戦争が起これば歌人は盛んに時事詠を詠んでいます。そのいわば文学的優劣の基準を書いておられる。実際桑原さんは優れた時事詠の特徴を「臨場感、アイロニー、比喩」の三つのポイントにまとめ例歌を挙げて解説しておられる。
ただ論旨は明快なのですが「当時者性と批評性」という問題設定からズレてしまったような気がしますね。当事者でなくても時事詠は詠めます。優れた時事詠になることもある。しかしそれは作家に的確な批評性があって初めて可能になる。短歌技法を前提にすると作家の批評性を追い切れないのではないでしょうか。例歌を読みましたが申し訳ないのですが「臨場感、アイロニー、比喩」の短歌技法によって秀歌になっているとは思えなかった。もっと言えば秀歌と言える歌なのかなとも思いました。あまり説得力がない。ちょっと時事詠に対する姿勢が甘いのでは。
海ぎはにいつしかパレスチナ人を追ひやりて塀に囲へりイスラエル巧妙
閉じ込められしハマスの若者の鬱屈はイスラエルへの攻撃となる
仕掛けしはハマスなれどもその後のイスラエルの反撃 執拗
容赦なく砲弾続くガザ市内 被弾と飢ゑに人ら追い詰め
エクソダス、シオニズム、はたキブツ 夢ありし言葉の現実は苦し
沢口芙美「15首+小論 エクソダス」より
特集には歌人の方の実作と小論も掲載されています。沢口芙美さんが詠んでおられるのは今も続いているガザ紛争です。日本人の多くがパレスチナに対して同情的です。イスラエルが圧倒的軍事力を持っているのは明らかだからです。ガザ紛争の時事詠は単純に「弱い者イジメをするな」という歌が多い。しかしその優劣を短歌技法で論じることはできません。何よりも作家の批評性の高さが問題になる。そしてこの批評性の高さは作家が部外者であるにせよ問題をどれだけ自分自身のそれとして引き受けられるかにかかっています。
エルサレムを中心とするパレスチナの地は神に最も近く最も遠い土地です。ユダ王国の時代からこの土地では血みどろの戦いが繰り広げられてきました。ユダヤ国家はイスラエル建国まで存在しませんでしたが少し近いところで言えば十字軍の侵攻によって中世に約二〇〇年間キリスト教のエルサレム王国がありました。しかしその後あっさり消滅した。ユダヤのシオニストたちはそんな歴史を骨身に染みて知っています。ガザ紛争はイスラエルの生存権を賭けた戦いです。
一方のパレスチナとアラブ人はたった八十年しか歴史のないイスラエル国家が吹けば飛ぶようなものだということを知っています。神の目が少し動くのに百年二百年かかってもなんの不思議もないのです。彼らはそれをじっと待っている。
時事詠はなかなか厳しい。問題によってはわたしはこう思うこう感じるの短歌の器で表現するのは難しいのではないでしょうか。
高嶋秋穂
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■