今号は塚本邦雄賞の発表号です。現代短歌評論賞発表号でもあります。いずれも短歌研究誌主宰の賞です。塚本邦雄賞は山崎聡子さんの歌集『青い舌』が受賞で特別賞を島内景二さんが受賞なさいました。『文庫版 塚本邦雄全歌集』全八巻の企画・編纂の功績評価です。現代短歌評論賞は桑原憂太郎さんと髙良真実さんの受賞です。
君のべろが煙ったように白かったセブンティーンアイスクリーム前
砂鉄集めたことだってある手のひらであなたの子供時代を撫でる
西瓜食べ水瓜を食べわたくしが前世で濡らしてしまった床よ
生き直すという果てのない労働を思うあなたの髪を梳くとき
舌だしてわらう子供を夕暮に追いつかれないように隠した
あなたを抉る日がくるよすべり台の銀のむきだしの背中のうえに
死にむかう わたしたちって言いながらシロップ氷で口を汚して
子のくちに真珠はそだち私たち引き返せない護岸にいるね
にせものの車に乗ってほんものの子供とゆけり冬のゴーカート場
はじまりよ 子どもを胸に抱きながらサルビア燃える前世を捨てる
遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて
あざみ野の果ての暗渠よ夏服の記憶の祖母をそこに立たせる
授かって産むことのない夏をゆくブローティガンと黄のカーティガン
山崎聡子『青い舌』三十首抄 より
爽やかさを感じさせる歌です。「はじまりよ 子どもを胸に抱きながらサルビア燃える前世を捨てる」は秀歌だと思います。作家は子どもを産み育てることで前世と今世を予感しているようです。出産前と後では世界が変わったということでもあるでしょうね。基本は幸福感なのですがそこに不安が入り混じる。「舌だしてわらう子供を夕暮に追いつかれないように隠した」といった歌にそれが表れています。幼い子どももいずれすべての人間と同じように「すべり台の銀」が「あなたを抉る日がくる」。幸福の中に漠然としていますが底の見えない不安を感じている時期にしか生まれない歌でしょうね。
これはこれでとても優れた表現です。繰り返しますが完成度の高い表現です。ただ正直に言えばどこか弱いなと感じてしまうのです。まだまだ先のある作家さんですからどう変化なさってゆくのかわかりませんが生の喜びに微かな不安が入り混じる意味内容表現ではいまひとつ読み手に食い込んで来ないところがある。乱暴なことを言いますが読者はドツボに幸せかドツボに不幸かといった極的表現を求めてしまうところがあります。突飛な表現ならなんでもいいと言っているわけではありませんが上品すぎる。
この読者は歌壇内の同業者読者のことではありません。一般読者のことです。同業読者は微細な表現に敏感ですが一般読者はつまみ食いの美食家です。短歌以外にも楽しいコンテンツはいくらでもある。同業読者・一般読者両方を視野に入れなければならないのはもちろんですが最終的に作家が選ぶのは一般読者である必要があります。でないと業界内歌人で終わってしまう。歌壇内有名人になれればそれでいいという歌人もいらっしゃるでしょうけど。
一方、忘れ難いこれが散文であり、これは歌にはならないのかとも思ってしまう。しかし、歌集は《本》という一冊の表現であり、散文も含めての達成である。さらにいうなら、《と思う》が、全ての歌に響いているともいえる。
北村薫
新しい時代を生きる体と心。柔らかな日常の深みにある危うさや傷。子供という不気味な存在。世界は茫漠としていて、多様に怖いものなのだという意識。ちょっと感覚に頼りすぎるところもあるが、これらの表現において見るべきものがあった。
坂井修一
「短歌が実際のところなんなのか」「短歌が本当に自分に馴染んでいるのか」といったことは、この作者だけではなく、ほとんどの歌人が「わからない」し「自信がない」ものだろう。ただ、一首の歌が生まれる現場では、何か見えない力が作用して、結果的にそれしかないという形になっていることがある。
だが、『青い舌』にはそういう感触が薄い。書かれた後も、まだ歌が迷っているというか、奇妙に熱っぽい揺れが感じられるのだ。では、それは弱点なのか、というと、そうとも云えないところが面白い。
穂村弘
山崎聡子『青い舌』は他者や存在という生の深奥に素手で向かっている。その手つきは決して手馴れてもいないし、巧みでもない。話し合いでも述べたが、私はむしろそこを評価したい。
いわゆる言葉と心の相克にあって、生の暗さを見つめる主体の危うさが文体の危うさと拮抗して、作者の今でしかできない一冊の歌集を作り上げている。
主題としては母子関係が前面に見えるが、根本的な主題はあくまで実存である。
水原紫苑
選考委員の先生方の選評ですが基本的には皆さん同じようなことをおっしゃっています。修辞(テクニック)としてはそれほど上手くはないし斬新でもない。しかし揺れる実存表現に魅力がある。
水原紫苑さんの「生の暗さを見つめる主体の危うさが文体の危うさと拮抗して、作者の今でしかできない一冊の歌集を作り上げている」が一番的確な評でしょうね。ただ〝危うさ〟があるのは確か。もちろん作品集を出そうが賞をいただこうが作家は〝次〟で常に危機の断崖に立っているのですが。
以上、口語短歌による新しい表現技法として、1動詞の終止形、2終助詞、3モダリティ、の三つの用法をあげた。
これらの表現技法は、口語で発想した事柄を、短歌定型になじませようとあれこれ試行した結果、現在では、多くの歌人によって普通に使用されるにいたった技法である。そして、こうした表現の活用とともに口語短歌は進展したといえよう。
桑原憂太郎「口語短歌による表現技法の進展~三つの様式化」
現代短歌評論賞受賞作で桑原憂太郎さんは口語短歌の三つの表現様式を論じておられます。しかしうーんうーん「動詞の終止形」「終助詞」「モダリティ」はそんなに斬新なのかな。歌人たちはこれらの技法を強く意識して書いているんだろうか。新たな三つの表現様式があると論じて読者が「ほんとにそうだね」と納得してくれるのかな。
視線が恐ろしく内向きになっていると思います。最初から口語短歌を最大限に評価するのが目的でその斬新さや独自性を主張するために新たな表現様式を無理くり探し出している気配がある。口語短歌論はその多くが修辞論ですがレトリックがそんなに大事だとは思えない。内容面から論じてみてはどうでしょう。
申しわけないのですが意味表現内容から言えばほとんどの口語短歌はしょーもない。それを理論武装で補おうとしても無理。技法はなんのためにあるのか。現代世界に食い込む意味表現内容を持つ作品をさらに際立たせるための補助道具に過ぎません。歌壇内と口語短歌同業者に向けた評論のような気がするなぁ。
ここまでは意識的に短歌が「歌」として語られることには触れてこなかった。しかし、岡井隆が短歌に「ただ一人の人の顔」(中略)を見いだすように、あるいは三上春海が「短歌の歌声はまだここにある。」(中略)と指摘するように、短歌には話す身体を想像させる作用がある。同様の作用は散文にもあるのだろうが、どういうわけか散文ではそれが問題になることは少なく、対して短歌では、未だに大きな力を持っている。
したがって文語であっても、いや、むしろ文語は物質的な身体を連想させにくいゆえに、より純粋にそれが可能なのかもしれないが、短歌という装置は、創造の共同体における話し手としての身体を立ち上げることができる。想像された領域の身体を以て、歌人は国家に仕えることができる。とはいえ、近代のはじめから短歌はナショナリズムの臣であったと絶望するのとは違う。
茂吉は標準語を流暢に話すことができなかった。(後略)
髙良真実「はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る――短歌史における俗語革命の影」
髙良真実さんの評論もアプリオリな口語短歌擁護でありそれに可能な限り強い理論的バックボーンを与えるという目的で書かれています。しかし短歌表現の本質に迫ろうという姿勢があります。短歌は「歌」でありそれを失うことはない。
ただ髙良さんの評論の論旨はダッチロールしています。引用の箇所もそう。短歌が「歌」であることと「茂吉は標準語を流暢に話すことができなかった」ことは問題の審級が違う。これをやると柄谷行人のインチキ文芸評論のように他者の言葉を引用するたびに問題の審級が変わり(柄谷さんの場合は意図的にそうしていると思いますが)読んでいる間は面白いのですが読み終わって「はてなんの評論だったっけ」ということになってしまいます。「柄谷さんの評論は何度読んでもわからないからスゴイ」と書いていたおバカな批評家がいましたが何回読んでもわからないならそりゃ柄谷評論に問題があるんだよ。柄谷さんの場合は柄谷行人という特権的批評家のイメージが読者に残ってファンが増えればそれでいいんでしょうけど髙良さんはもそっと生真面目なようです。
引用に引っ張られて論旨が変わってしまう(問題の審級が変化してしまう)ことはよくあります。他者の言葉の引用は自分で考えれば簡単に導き出せるはずです。引用は自分の考えを権威で補強するためのものに過ぎないのですから。権威など無視してしまえば引用なしでも同じ論旨の評論は書けます。引用なしで自分で一から考えてお書きになった方が論旨が通ると思います。
ひじょーに書きにくいですが僕はかなり口語短歌(ニューウェーブ短歌)に食傷しています。もうとっくに飽和点を超えている。誰でも書ける簡単な表現ですから当面手っ取り早く歌人(創作者)になりたい人たちを惹きつけて賑わいは続くでしょうがすでに凋落が始まっている。ヤバイですね。お祭りはそろそろ終わりにした方がいいと思いますよ。
高嶋秋穂
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