歌人で「明星研究会」会員の松平盟子さんが鷗外の翻訳小説「埋木」が同時代の作家たちに与えた影響を詳細に論じておられます。文豪と呼ばれる割には鷗外はその全体像がきちんと論じられていない作家の一人です。作家ならおわかりだと思いますが気力体力が衰える晩年に力を注ぐ仕事はその作家にとって最重要のものです。鷗外の場合は史伝ですね。しかし鷗外史伝を論じその意義を明らかにした人はいません。たいてい歴史小説を書いた作家ということになっています。それに加えてせいぜい『舞姫』で近代小説の先駆けを為したというくらいでしょうか。
では代表作と見做されている鷗外の歴史小説はどんな意義を持っていたのか。明治大正昭和の新聞や雑誌を読んだことのある方はおわかりと思いますがいつの時代でも時代小説は人気です。今では忘れられた作家たちが手を替え品を替え面白い時代小説を書いていました。そういった作家たちは人気作家――いわゆる売れっ子大衆作家であり鷗外歴史小説より遙かによく読まれていた。しかし時間が経つにつれ砂浜が波で洗われ石が残るように鷗外歴史小説が高く評価されるようになったのでした。
鷗外は歴史小説でありその他の大衆小説は時代小説です。現代でも変わりませんが時代小説は過去の時代を舞台に現代では様々な制約によって表現しにくい愛や倫理をストレートに書き綴った小説です。日本ではSF小説が今ひとつ盛んではありませんがそれは時代小説があるからだと言われます。近未来を設定しなくても作家が書きたい理念は時代小説でいくらでも表現できるからです。
鷗外の歴史小説が時代小説と違う点は各時代の逃れがたい社会フレームを前提にしていることです。現代でも江戸封建社会でも社会の締め付けは非常に厳しい。人間は必ず強い社会的抑圧の下に生きています。鷗外はそんな社会的抑圧を積極的に引き受けなおかつそこでほんのわずかな愛や倫理を貫く人々を描きました。それは高い普遍性を持ちます。鷗外歴史小説は丁髷を結い着物を着た現代人が活躍する時代劇ではない。史伝がより歴史に即して普遍性を求める著作だったのは言うまでもありません。
また鷗外作品を初期から通読すればこの作家が小説家を目指した作家ではないことがはっきりわかります。鷗外には『於母影』などの訳詩集があり戯曲も書いています。点と線を結ぶように考えてゆけば鷗外が理想とした作品は恐らくゲーテ『ファウスト』です。綜合文学ですね。『ファウスト』は詩であり物語であり演劇です。時代的制約や資質から『ファウスト』的作品は実現しませんでしたが詩と演劇と小説と史伝を書いた鷗外を専門小説家と呼ぶことはできません。彼は〝文学作家〟であり複数のジャンルでその思想や感性を表現しました。
さて松平さんの評論は「埋木」を含む鷗外の翻訳小説集『水沫集』が刊行された明治二十五年(一八九二年)から与謝野鉄幹が『うもれ木』を刊行した三十五年(一九〇三年)までの約十年間の文学動向を論じておられます。紅露時代であり子規の時代でもありますが『水沫集』所収のオシップ・シュビン作「埋木」翻訳の影響をたどっておられます。
鷗外は「めさまし草」の新作合評欄「三人冗語」で「たけくらべ」を激賞した。「文學界」の友人からそれを聞いた一葉は日記に「今文だんの神よといふ鷗外が言葉」を書き記す。「奇跡の十四か月」を後押しし、彼女が原稿料を手にする喜びを味わう契機をなしたのは鷗外によるところが大きかった。
その一葉に「うもれ木」という初期の小説がある。「都之花」誌上で明治二十五年十一月、十二月に発表されたこの小説は、時あたかも鷗外が「埋木」訳連載を「志からみ草紙」で終えた直後に活字化されたもので、漢字とひらがなの差こそあれ、読者がタイトルへと注意喚起されることを半ば予期し半ば期待した一葉の企みであったように感じられる。
松平盟子「三つの〈うもれ木〉を巡る三人の人生」
鷗外はドイツから帰国直後の明治二十三年(一八九〇年)から二十四年(九一年)に『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』の文語体小説三部作を発表しました。文語体三部作の文体は変態文語体と呼ばれます。言文一致体の必要性は意識されていましたが保守的な鷗外はそれに必ずしも賛成ではなかった。従来的文語体と口語体を折衷した文体を試したのでした。国語改良でも同様の折衷案を提唱しています。
一葉の『たけくらべ』連載が終了したのは明治二十九年(一八九六年)です。鷗外文語体三部作から五年後ですが鷗外はいまだ「文だんの神」だった。また鷗外が訳した小説の多くがドイツ浪漫主義作品でした。短期間ですがそれが広く文学界に影響を与えた時代があった。与謝野鉄幹・晶子の「明星」や島崎藤村・北村透谷ら「文學界」などは日本浪漫主義と呼ばれます。一葉が「文學界」同人と交流があったのはよく知られています。
鉄幹の「埋木」は四編から成りすべて書簡の体裁をとる。それも女性が男性に宛てた書き方で、一つは「木村鷹太郎様」の小見出しが付いている。(中略)木村だけでなく「明星」に関わる詩人、画家らが次々と実名で登場し「晶子様へ申あげ候」といった記述まである。東京の地名からパリの観劇の話題やイギリスのラファエル前派にまで話は及び、冗漫ではあるが鉄幹が幅広く情報を得ていることが察せられ文学と芸術の現在を把握する者のさりげない風を装う。
同
明治三十五年(一九〇三年)刊の鉄幹『うもれ木』は詩歌文集で「小説、美術、短歌、新体詩」をまとめたものである。松平さんは「タイトルを『うもれ木』としたのはそこに明白は意図があったと私は考える。鷗外、一葉、鉄幹をつなぐ〈うもれ木ライン〉とでも呼ぶべき芸術家の人生を描く一連のイメージの系譜を鉄幹は求めていたのではないか」と書いておられます。しかしそれは実現しなかったとも論じておられる。鉄幹は四十一年(〇八年)の「明星」終刊後は〝埋木〟のように文壇で逼塞してゆくことになります。
鉄幹第一作品集は『東西南北』です。彼は最初から全方位的に新たな文学を模索していた。情報受容能力は非常に高かった。それが白秋や杢太郎などの若い作家を惹きつけました。『うもれ木』も全方位的作品集です。しかし文学的な核――確信は案外脆かった。白秋らの「明星」離反は必然だったと言えるでしょうね。若手作家たちは鉄幹を見切った。
それと同じようなことが鷗外にも起きていました。鷗外は文語体三部作で鮮烈なデビューを飾りましたが約二十年後の明治四十二年(一九〇九年)に「半日」で再デビューするまでほとんど小説を書いていません。時間稼ぎのように評論を書き翻訳の仕事をしていた。
彼は文語体三部作の名声に惑わされることなく文学の行方を見つめていた。敏感に文語体小説に危うさを感じ取っていた。「半日」は自然主義言文一致体小説です。それにより鷗外は文語体小説時代の作家の中で唯一明治四十年代以降の言文一致体時代に生き残った。
文学の世界では短期間に様々なことが起こります。松平さんが書いておられるように鷗外「埋木」から鉄幹が『うもれ木』に至る約十年は浪漫主義時代でした。しかし大局に立てば日本近・現代文学の土台は明治三十八年(一九〇五年)初出の漱石「吾輩は猫である」と翌三十九年(〇六年)刊の島崎藤村『破戒』から始まります。短歌では「明星」から子規派への推移があり自由詩の土台が出来上がるのは白秋弟子の朔太郎による『月に吠える』(大正六年[一九一七年])からです。文学の歴史は短期と長期両方の視点で見る必要がありますね。
高嶋秋穂
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