能楽師の安田登さんが二号続けて能『定家』について書いておられます。能の中でもとても有名な曲です。そして奇妙な曲でもある。『定家』という題ですが定家は登場しないんですね。主人公(シテ)は式子内親王です。
定家は歌を指導する御子左家の当主(嫡子)として位の高い内親王に仕えていました。これは史実。しかし能『定家』はまったくのフィクションです。定家は内親王と親密な関係にあったということになり内親王没後も葛となってそのお墓に絡みつく。定家の妄執に苦しむ内親王がたまたま訪れたワキの旅僧に救いを求めるというのが物語の梗概です。恐らく能『定家』が出来た後に命名されたのでしょうが定家葛と呼ばれる木もあります。ちなみに毒があります。お能の世界では定家卿の評判はどうも芳しくありません。
能で共話が始まると、シテとワキとの境界はだんだん曖昧になります。どちらがどちらかわからなくなる。ふたりの謡う謡も「コトバ」という節のないものから、節のあるもの(歌)に変わる。歌は韻文です。散文の世界の住人であるワキが、シテのいる韻文の世界に引きずり込まれていくのです。(中略)
地謡「今降るも宿は昔の時雨にて
宿は昔の時雨にて。
心澄みにしその人の。
あはれを知るも夢の世の。
実に定めなや定家の。
軒端の夕時雨。
古きに帰る涙かな。
庭も籬もそれとなく。
荒れのみ増さる叢の。
露の宿りもかれがれに
物すごき夕べなりけり
もの凄き夕べなりけり。
掛詞がたくさんあって現代語にするのは難しい文章ですが、声に出してゆっくり読むと、さまざまな情景が浮かびます。
いま降る時雨や、いま雨宿りするこの宿は「過去の時雨」、「過去の宿」。それは夢の世の景物です。夢の世の「定め」なき「定家」ゆかりの時雨の亭の軒端に夕時雨が降ると、「降る」が「古き」に掛り、時はさらに過去(古き)に引き戻される。すると眼前に定家の面影がふと立ち現れ、夕時雨を眺めつつ涙を流している。それを見ると、シテもワキも自然に涙がこぼれる。(中略)
最初は対立していたシテとワキが、共話によって時が共有されはじめると、お互いの深層に入り込んでいって、互いの共通のところまで入っていく。最後は個人すら超えてしまって自然、風景に繋がってしまう。それが能の手法です。
安田登「能楽師の勝手がたり10 偽りのなき世なりけり」
『定家』は夢幻能の一つです。最も能らしい夢うつつの世界に幽鬼が現れる出し物ですね。安田さんは夢現の境地に至ると「「コトバ」という節のないものから、節のあるもの(歌)に変わる。散文の世界の住人であるワキが、シテのいる韻文の世界に引きずり込まれていくのです」と書いておられますが見事な夢幻能の解説です。また自他の境が失われる境地に至ると「最後は個人すら超えてしまって自然、風景に繋がってしまう」。和歌(短歌)にも通じる境地です。
シテ「今は玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば。
地謡「忍ぶる事の弱るなる。
心の秋の花薄。
穂に出でそめし契りとて
またかれがれの仲となりて。
シテ「昔は物を。思はざりし。
地謡「後の心ぞ。はてしもなき。
謡には当然内親王の代表歌の一つ「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶことのよわりもぞする」が現れます。それが権中納言敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」に繋がってゆく。詩歌集というか引用の織物になっているわけです。
言うまでもなく「玉の緒よ」は『百人一首』八十九番で「逢ひ見ての」は四十三番です。『定家』の作者は世阿弥の娘婿の金春禅竹。南北朝時代後期の人ですね。
『百人一首』が定家撰の『百人秀歌』から三首を削除し(『百人秀歌』は定家撰の百首に定家自作一首の一〇一首)末尾に後鳥羽院と順徳院の二首を加えて成立したのはほぼ間違いありません。誰によって『百人秀歌』が改編され『百人一首』というより定家が小倉山荘で撰んだという伝説を持つ『小倉百人一首』が成立したのかはわかっていません。ただ文書に『小倉百人一首』が登場するのは南北朝時代初期です。僧侶で歌人だった頓阿の『水蛙眼目』に「嵯峨の山荘の障子に、上古以来歌仙百人の似せ絵を書きて、各一首の歌をかきそへられたる」とあるのが初出と言われます。
「嵯峨の山荘」つまり別荘の小倉山荘で定家が『百人一首』を撰び障子に百人の歌人の似せ絵と歌を書いて(描いて)貼ったというのは伝説に過ぎません。しかしこれが江戸期に入って『小倉百人一首』加留多になって爆発的に流行したわけです。頓阿は応安五年(一三七二年)没で禅竹は文明二年(一四七〇年)没ですから禅竹の時代にはすでに『小倉百人一首』が成立していたことがうかがわれます。
舞い終わった式子内親王は、ふたたび「おもなの舞の有様やな」と謡う。地謡も同じ謡を続ける。舞の前から合計三度も恥ずかしがっている。
それは自分の容貌の変化もあったのです。
若かった頃、月のように美しかった私の顔。しかし、いまは曇ってしまった。繊月のようだった(桂)黛も涙に落ちてしまった。私自身も落ちぶれて、この世から露と消えた。そのあとも定家葛に這い纏われ、葛城の女神のような醜い姿になってしまった。小町を思い出しますね。(中略)
すると、一度はほどけたと見えた定家葛がまた彼女の墓に這い纏わり、元のように墓の姿を隠してしまうのです。
救いのない終わり方です。
他の能では成仏への道が示されますが、能『定家』では式子内親王は永遠に繰り返される苦しみの中に再び引き戻されてしまうのです。
安田登「能楽師の勝手がたり11 夢かとよ 闇の現の」
だいぶはしょりましたが能『定家』の終わりは安田さんが書いておられる通りです。定家は「定家葛」としてしか現れない。そしてこの曲には救いがない。「式子内親王は永遠に繰り返される苦しみの中に再び引き戻されてしまう」。
安田さんは「他の能では成仏への道が示されます」と書いておられますがそれが仮初めのものでしかないのは言うまでもありません。能楽は茶の湯と並んで武士が生み出し庇護した数少ない文化(芸能)です。江戸時代になると人間の自我意識が強くなり感情表現が複雑になりますが武士の基本に「死ぬのも仕事」が据えられていたのは言うまでもありません。
源平争乱で昨日まで栄耀栄華を極めていた貴族武士たちが無惨に殺されていったのを目の当たりにした人々はもはや頭から浄土極楽を信じなくなりました。南北朝は夜討ち裏切りの時代です。そんな時代に成立した能楽は平安期までの濃密な古代的心性と近世以降はっきりするこの世を無と捉える禅的無常観の中間で成立しています。
能楽が告げているのはこの世には簡単な成仏などない浄土などないということです。たとえ能の最後で成仏が示されたとしても次の上演では相変わらず幽鬼が現れて怨み辛みをかき口説く。それを当時の高位の武士たちが見つめてはらはらと涙を流していた。考えてみれば実に奇妙な光景です。ただそんな時代的心性が露骨なまでに表現されたのが『定家』という出し物だったように思います。
定家は王朝短歌の掉尾に現れそれを締めくくった歌人だったと言って過言ではありません。彼は平安王朝短歌を封じ込めた。それが定家葛となって現れているように思います。
禅竹が『定家』を書いた時代には王朝短歌世界は遠い過去になっていました。しかしそこには微かにすでに失われてしまった歌がある。能楽の中では「「「コトバ」という節のないものから、節のあるもの(歌)に変わる」。そしてそれは個の妄執を超えて「自然、風景に繋がってしまう」。
能『定家』は能楽としてだけでなく短歌の歴史や定家という存在を考えるためにも非常に重要な作品です。
高嶋秋穂
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