数多くの素晴らしい歌人を輩出してきた短歌研究新人賞の発表号です。ショージサキさんの「Lighthouse」が受賞なさいました。受賞作だけでなく候補作と最終選考通過作も掲載されています。佳作も掲載されていますね。歌人を目指す皆さんにはとても励みになると思います。
ただ受賞作だけでなく候補作と最終選考通過作を通読しても閉塞感のようなものが強いですねぇ。素朴な感想ですが明るい作品がほとんどない。現代はこんなに暗い時代なのかなぁとこれも素朴に思ってしまいました。短歌はこんなに暗い表現だったかなと首を傾げてしまったと言いますか。
美しいみずうみは水槽だった気づいた頃には匂いに慣れて
冬に咲く桜のような異端さを笑う雪しか降らない街は
無職だと地元で言えばクッキーの型にはめられ鬼のおやつに
ショージサキ「Lighthouse」より
受賞作のショージサキさんの作品は型から始まります。「美しいみずうみは水槽だった」「クッキーの型にはめられ」ですね。二首目の「冬に咲く」にしても「街」つまり社会からの疎外感の表現です。疎外された際に生じる寂しさや痛切な挫折感は短歌伝統の一つと言っていいですが「水」「雪」あるいは「クッキー」というまろやかさや甘さを想起させる単語が使われているのにザラザラとした印象です。抒情性が感じられない。
灯台はLighthouseと訳されて家というより空虚な箱で
連作真ん中あたりに置かれたこの歌が表題作です。一首だけ抜き取ればとてもいい歌だと思います。ただ前半部は修辞的に複雑な歌が多いのですが後半になるにつれストレートな表現になり質というか表情が少し変わってくる。
朝焼けのうつくしさより朝焼けを見に行く自意識ばかり気になる
貝殻はぱりんと割れて旅なんかなかったことになってしまうね
真っ暗は真っ暗なままだ 灯台なんてわたしはならなくてよい
行きだけの切符を買って 別にこれは覚悟じゃなくてただのきまぐれ
うーんこの表現はなんなんだろう。微かにドキリとさせられてしまう表現ではあるのですがそれは時に甘美に感じられる自虐ではなく社会に対する呪詛じゃないかと思えてしまうからのような気がします。
文学のしかも創作ですから論理的一貫性を求める必要はないわけですが灯台をLighthouseと表記したのはある種の明るい目印や目標の喩であるからでそれを「空虚な箱」と切り捨ててしまう表現の斬新さはわかるのですが「真っ暗は真っ暗なままだ 灯台なんてわたしはならなくてよい」はどう受けとったらいいのか。
船を導く明るい灯台が「空虚な箱」なら「灯台なんてわたしはならなくてよい」は社会批判なのかな。社会にはこっちだよこれが正しいよと光る灯台のようなものはあるけど最初から「真っ暗は真っ暗なままだ」からそれはまやかしなんだと。行き場のない「自意識」を表現した連作だとは感じますが。
〈短評〉
■「フェミニズム」とか「LGBTQ」といった言葉で括られる、その一歩手前の心情をすくい取っている。人間の生や多形倒錯的たゆたいに身をまかせ、「気まぐれ」でありつづけようとする覚悟に、筋が通っていると感じた。
(斉藤斎藤)
■新しい連作のスタイルとして注目した。まず、メタファーとしての〈旅〉によって三十首が連鎖している。「みずうみ」「防波堤」「旅人」「Lighthouse(灯台)」「小さい旅」「海」「貝殻」「切符」である。それをベースにモチーフとして現代のアプリケーション群「サブスク」「Facebook」「GPS」がある。私は、生々しい存在で「生殖」「種」「小さな死」「性欲」が歌われている。重層的な作品だが、歌は簡明(Lighthouse)で秀作が多い。今年の収穫だ。
(加藤治郎)
■海辺のふるさとを離れて作者は東京で暮らしている。「無職だと地元で言えばクッキーの型にはめられ鬼のおやつに」は地方都市の生き辛さを詠んでいる。結句「鬼のおやつに」まで言い切ったことで実感が出た。「灯台はLighthouseと訳されて家というより空虚な箱で」は従来の灯台のイメージにとらわれぬ認識が新鮮である。下句あるいは結句で独自性を出す歌が多いことも、作者の力量を示している。
(栗木京子)
選考委員の先生お三人の〈短評〉を読んでも申し訳ないのですがあまりピンと来なかった。主に短歌の新たな表現つまり修辞的新しさを評価なさっているようですが「Lighthouse」のような連作では意味表現内容の方が重要ではないのかなぁ。それとも「Lighthouse」連作に呪詛のような響きがあると感じてしまう僕の方が間違ってるのかなぁ。よくわかりません。
一行の誰にもさわれぬ詩になって透明なまま駅に立ちたい
雌伏という言葉に抗わずにいればわたしに沿って道がうまれる
わきまえているほど生きやすいらしく陽の差すところの蟻の行列
小松岬「しふくの時」より
無差別が無差別だってことなんて一度もないとみんな知ってる
手を洗う 俺はいいけど両親が病気になると収入が減る
このタオルケットがないと眠れない これも政治が悪いせいだろ
遠藤健人「ゆっくりでいい」より
片時も自傷をしない人がいないふつうの学校という場所は
生きたさと死にたくなさを区別する処方箋にて祈る帆掛け船
こっくりとフリーズドライの粥ほどく家族はいつまで家族だろうか
toron「ひらいて」より
めちゃくちゃに轢かれたあんぱん指さして人生みたいだねって笑う
何者にもなれないわたしだったから君だけ詰め込めた よかったな
呪いって誰かのために生きることだった 水溜まりを踏んだ靴
城崎無理「推し」より
なめらかな動作で開ける春の窓ひとつひとつがきれいな病気
いつかまたあなたと似てる人に会い生活するだけの東京
なめらかな動作で開ける冬の窓かなしき春の国で逢いましょう
篠原治哉「春の国で逢いましょう」より
新人賞候補作の皆さんの作品ですがうーん暗い。そしてどうも主体性が感じられない。追いつめられ押し込められ閉塞感でいっぱいなのですがそれは社会が悪いといったふうに読めてしまうところがある。うーんこれは修辞の問題じゃないと思うけどな。
短歌は社会が大きく変わる際のカナリヤのような表現でもありますから新人作家の皆さんが追いやられている閉塞感はリアルで切実なものなのでしょう。でも修辞の問題ではないと言ったのは修辞つまり作品としての強さを今ひとつ感じ取れないということでもあります。ふと思いついて呟いたような表現に見える。自分の表現に責任を持てるのかな。大げさな言い方ですけど。
時代錯誤的なことを言いますとすべての作品が口語短歌とそれ以降のニューウェーブの波の中にあります。そして口語短歌の始まりは俵万智さんと穂村弘さんでお二人の歌は幸福感に満ちていた。それまでの短歌が生の悲哀に傾きがちだったのをあっけらかんとしたまでの肯定感で歌った。その影響はもう影も形もないようです。うーんうーんこれはどういうことだろ。どうしたらいいんでしょうね。
高嶋秋穂
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