小さな会場だった。たどり着くのに目印にした隣りの蕎麦屋は、成城学園前駅の近辺では知られた老舗らしい。よく見かける店名で、あちこち暖簾分けしている一号店のようだ。通り過ぎるカップルが看板を指差して「無敵!」と言ったのが聞こえて、開演までの時間つぶしに入ってみた。知らない会場を訪ねるのには、こういう愉しみがある。引き戸を開けると年配の客でいっぱいだったが、あちこちの席から手招きを受けた。遠慮していると、「勝手に相席になるのがこの店の決まり」と声がかかる。なんといい町、いい店か。見ると催し物のポスターなどもあり、公演の関係者が使う店でもあるのだろう。
隣りの会場もカフェ、飲食店ではあった。公演中に2杯のドリンクを頼む決まり、逆に言えば2杯のドリンクを飲む間、公演を観るということだ。もちろんバックグラウンドとしてではなく、おしゃべりなどせずに眺めているわけだが。というのも登場してきたドラァグクイーン、エスムラルダが、いわばカフェで一緒になった小母さんよろしく、ずーっとしゃべってくれているので。そして、そこにいるのは小母さんと言ったら怒られてしまう、わたしの観た回では女優サラ・ベルナールである、という設えだ。
サラ・ベルナール小母さんの昔語りを聞くのに、わたしたちは相槌すら打つ必要はなくて、相手はピアニストの谷川賢作が務める。彼が芝居へのチャレンジに苦労している、と悩みを打ち明ける自己言及的なくだりに笑いが起きる。自己言及。そう、この公演における「自己」とは、わたしたちに近しい谷川賢作なのである。
小さな会場に、お蕎麦を食べて時間をつぶすほど早く着いたので、わたしは席を好きに選ぶことができた。座ったのはカウンターの側で、飲み物を置くこともできたし、谷川賢作の背中の真後ろだった。わたしはほとんど初めて谷川賢作の指の動きを間近で見続けることができて、そして気づいた。その谷川賢作の「自己」とは。谷川賢作のピアノ、音楽とは何かを自己言及的に問い続ける音楽そのものなのだ。考えてみれば当たり前のことだが。
そう、わたしたちは音楽のためにここにいて、音楽によってこの席に縛られているのだ。その音楽とは何ものかを問うているのが、この舞台である。ここへきて、なぜサラ・ベルナールなのか、なぜ(別日には)マレーネ・デートリッヒなのかが明らかになる。それはいずれも、わたしたちでない者だからだ。ドラァグクイーンという存在もここでは、自分でない者の意だ。目を惹く異形の存在、他者の物語は、自己を注意深く回避した騙し絵であり、考え抜かれた目眩しだ。
だからここでのサラ・ベルナールことエスムラルダの歌は、音楽であることを拒否し、「歌」という姿をなぞろうとする。いわばヴィジュアルな歌であろうとする。逆説的にわたしたちに音楽の存在を知らしめ、囁き続けるのは谷川賢作のピアノである。この構造に気づかないかぎり、公演は異和として展開し続ける。
物語と言葉、音楽がぶつかり、クライマックスをかたち作る瞬間はふいにやってくる。素晴らしい声の持ち主だったサラ・ベルナールが飲食店で朗読をせがまれ、そこにあったメニューを読み上げる、という逸話の場面だ。プロットを横取りするように、谷川賢作のピアノは盛り上がり、料理の名前を叫びながら、その音楽は興奮の極みに至る。わたしたちがそれを堪能しきる直前、それはサラ・ベルナールことエスムラルダに、当然のことなから制止される。これは対決なのだ。他者と自己の、そして騙し絵と音楽との。
メニューを読み上げること。そこには芝居と日常、料理のイマージュと声とのアマルガムがあり、唯一の特異点を形成する瞬間かもしれない。わたしは毎夜、イギリスの有名シェフであるゴードン・ラムジーが経営の傾いた飲食店をコンサルするFoxの番組をYouTubeで観る。くそまずい料理を狂ったように罵るラムジーの声を聞きながら眠りにつくのだが、なぜそんなことになるかというと、ゴードン・ラムジーの声が好ましく、バカみたいに品数の多いメニュー(まずくなるのはたいていそのせい)を読み上げる声が、それはそれは音楽的だからである。そこに込められたシェフの怒りも侮蔑も困惑も、呆れ顔すら包含して音楽はある。
そう、すべてを包含して音楽はある。芝居も、目を惹くドレスも、その空間、2杯のドリンク、口から出るあらゆるセリフ、口に入るあらゆる料理、そしてその名。それらが構成する騙し絵に小さな穴が空いていて、そこから音楽はずっと聴こえている。
小原眞紀子
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の評論集 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■