ボリュームのある座談会「現代短歌史と私たち」が掲載されています。穂村弘さんがコーディネートで大森静佳さん川野里子さん永井祐さん東直子さん水原紫苑さんが参加しておられます。現在の歌壇の中堅スター勢揃いといったところです。座談会の後に「「現代短歌史の起点」を考えるための資料」が添付されています。「モダニズム短歌特集」初出「短歌研究」1951年8月号と「戦後派の言葉」塚本邦雄1951年10月号です。座談会のテーマ②に「「現在位置を溯っていくと歴史はどう見えるか。→「『現代短歌』は塚本邦雄から始まった」になるのか。」」が設定されているのでそのための補助資料です。
コーディネートの穂村さんが冒頭で「今日はオンライン形式で六人いますから、「討議」をするというより、まずは自分が語りたいところを熱く語ってもらえればよいのではと思います」と発言されている通り塚本さんから現代短歌が始まったという共同宣言のようなものはありません。女性歌人の皆さんは先達では葛原妙子さんや山中智恵子さん馬場あき子さんらに影響を受けたと話しておられます。
川野 塚本と葛原では、全然歌作りが違うと思うんです。やはり葛原は自分の身体の感覚とか生活の現実に根っこが生えていて、そこからはるかな高みまで抽象していく。「天に近きレストランなればぽきぽきとわが折りて食べるは雁の足ならめ」(『朱靈』)なんて歌がありますが、これなどは本当に現実そのもののように見えながら、生き物としての人間と雁という存在を感じさせます。
塚本は暗喩の庭というのか、箱庭を作るみたいに現実を組み立て直すんですよね。「敗戦記念日のホテル・マヤ部屋部屋の水道管に熱湯とほる」(『裝飾樂句』)などを見ても、日本の敗戦の意味や実感が別の舞台に組み立て直される。その組み立て直す過程に、歪みやら、おかしさやら、ひずみやらというものをデフォルメしていくというような、レゴブロックを組み立てるみたいにもう一回現実を組み立て直す。そのことが凄い批評になってゆく。
川野さんは「だから名詞がとても多い歌作りになっていると思う」とも発言なさっています。塚本短歌が「レゴブロックを組み立てるみたいにもう一回現実を組み立て直す」ような特徴があるのはその通りですね。
ジェンダーのせいと言えばそうなりますが男性歌人には社会の中での私を詠う歌が多く女性歌人に根源的生命力を詠う歌が多かったのは確かだと思います。意図的にそのラインを選択した歌人もいらっしゃる。ただ男性女性という性別に関わらず戦後短歌にはモダニズムの時代がありました。川野さんが引用した葛原さんの歌で言えば「天に近きレストラン」や「雁の足」ですね。食べることは根源的生命力を想起させますがなぜレストランは天に近くて現実には料理として出されることのない雁の足なのか。モダニズム的発想と言っていいと思います。
モダニズムが文学運動としてあった代表的な国は日本とアメリカです。エズラ・パウンドはヨーロッパに渡ってから三年目(一九一一年)に自作の詩『カンツオーニ』を当時の前衛雑誌「イングリッシュ・レビュー」編集長だったフォード・マックス・へファーに朗読して聞かせました。へファーはパウンドの古めかしい英語のスタイルに驚いて「床の上を馬鹿みたいに笑って転げ回った」。パウンドは〝野蛮な国〟アメリカからヨーロッパにやって来た。彼の詩はヨーロッパのそれに比べて恐ろしく古く遅れていたのでした。
それと同じようなことが日本文学でも起こっています。ヨーロッパの芸術の中心地はパリ。十九世紀末から二十世紀初頭がその全盛期です。印象派を手始めにダダイズムが興りシュルレアリスムが生まれそれがあっという間に世界に拡がってゆきました。第二次世界大戦の戦乱を嫌ってマルセル・デュシャンがニューヨークに移住してニューヨーク・ダダが生まれたことはよく知られています。
モダニズムと言いますがその根幹はダダとシュルレアリスムです。これが二十世紀芸術の基盤となりました。ダダは言うまでも既存芸術(アンシャンレジューム)の破壊です。シュルレアリスムは破壊からの復興と位置付けることができます。現実(レアル)の上位審級にある超現実(シュルレアル)によって芸術はもちろん世界(社会)全体をより良きものに替えてゆこうという芸術運動でした。
ではモダニズムはどう位置付けられるのか。日本やアメリカのような芸術後進国の文化運動です。単純化して言えばパリ発祥の前衛芸術を必死になって受け入れた文化運動だと言えます。モダンは言うまでもなく現代の意味です。つまりモダニズムとは〝現代化〟ということになる。世界最先端の文化動向を取り入れそれに並び追い越せという性急な運動がモダニズムだったと言うことができます。言うまでもなくパリにはモダニズムという概念はありません。最先端でしたから。
このモダニズム運動が起こったのは日本では大正末から昭和初期にかけてです。一つのメルクマールは大正十五年(一九二六年)の西脇順三郎のイギリス留学からの帰国です。慶應大学文学部教授に就任した西脇はシュルレアリスムの紹介者になります。もちろんこれは文学史的な節目というやつで西脇帰国以前からダダやシュルレアリスムは紹介されていました。新し物好きの日本人は早速その模倣に取りかかった。高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』は大正十二年(一九二三年)刊で中原中也らもダダに強い興味を持ったことが知られています。西脇の帰国は本格的なシュルレアリスムの紹介の始まりということです。
多くの詩人たちがモダニズム(ダダとシュルレアリスムの混淆体ですがその総称としてモダニズムとします)に影響を受けました。自由詩での影響はよく知られていますので省きますが俳句では山口誓子と日野草城がその端緒です。新興俳句の俳人たちも大きな括りで言えばモダニストだったと言えます。表面だけなぞった作品も数多く書かれましたがこの時期のモダニズムが一九五〇年代から七〇年代にかけての戦後前衛文学の基礎になったのは言うまでもありません。
短歌では戦前では前川佐美雄や斎藤史らがモダニズム短歌の代表といったところでしょうか。しかし自由詩や俳句がモダニズムの移入と同時に発した社会批判意識は薄い。短歌界の内部では従来の歌と大きく違うと評価できるでしょうが俯瞰して見ると断絶線と呼べるほどのインパクトはないように思います。俳人詩人は次々治安維持法違反で検挙されましたが歌人では渡辺順三がわずかな例外といったところではないでしょうか。それを考えるとダダ的破壊とシュルレアリスム的再構築それに社会批判を兼ね備えたモダニズムは塚本の登場をもって始まったと言っていいかもしれません。
今号の討議の補助資料にあるようにそれは昭和二十六年(一九五一年)頃ですね。遅いと言わざるを得ないと思います。また大岡信―塚本邦雄論争にあるようにこれも俯瞰すればそれは「調べ」の破壊あるいは放棄を伴っていた面があるのも確かなように思われます。ただいずれにせよここから短歌のモダン(現代)が始まったのでしょうね。
水原 塚本さんや山中さんにはぎりぎりでいてほしかったなあ。ここでちっぽけな自分を顧みて言うのも愚かだけど、もう自分自身はぐずぐずなのよ(笑)。それを、ここにいるみなさんやいろんな人たちが、自分のアンチテーゼになって、ずっと自分を鼓舞してくれると同時に打ちのめしてくれて、なんとかやっています。でも、本当の理想は、ギリシャ悲劇の主人公みたいに、人間の孤独な誇りで残酷な神々に立ち向かって斃れることなの(笑)。だから葛原さんは緩んだっ言っても理想に近いですね。
水原紫苑さんのやたらと構えの大きな歌に驚きちょっと違和感を覚えていましたが今回の討議での発言を読んでなんとなくわかった気がします。水原さんは正統なモダニストかもしれませんね。
高嶋秋穂
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