第六十四回短歌研究新人賞発表号で塚田千束さんが受賞なさいました。昭和六十二年(一九八七年)生まれでご職業は医師です。短歌研究新人賞は「未発表の新作短歌三十首」という応募規定です。塚田さんはすでに結社誌「まひる野賞」を受賞され第三十一回歌壇賞と第八回現代短歌社賞の候補になっておられますがテーマや書き方が一貫している三十首を詠むことができるのが新人賞の必要要件ということでしょうね。
先生と呼ばれるたびにさび付いた胸に一枚白衣を羽織る
ホーローの容器に蒸し鶏ねむらせて死とはだれかを横たえること
「訓練です」押さず走らず隣人と手をつなぐこと「訓練です」よ
補液足す途端に表情よくなれり人は草木ににてくる葉月
いつか産むかもしれぬ子の泣き声をあまたひびかせ産科病棟
臨終を告げし言葉をきくひとも病室もすきとおる電話よ
ステートとPHSが首にからまって身動きできない吾の影揺れる
クロワッサンばさばさたべて白衣からうろこを落とすように立ち上がる
塚田千束「窓も天命」より
これらの歌は医師という職業の日常詠です。死に近い職場にいらっしゃるのでべたつきはありません。「補液足す途端に表情よくなれり人は草木ににてくる葉月」とあるように人間も草木も同じといった視線があります。冷たいわけではないでしょうね。生死に関しては人も動植物も同じです。有機体が活動を止め物質になる。そこを起点として人間存在を眺めると生死に関する感情は相対化されます。
われらみなさびしき島だ名を知らずたがいにひとみの灯をゆらしつつ
階下からコーヒーの匂いさびしくて結露激しき窓も天命
遠き空よぎり鳥みなうつくしく輪郭だけはただしく生きよ
夜のにおいまとわせコインランドリーはるかな墓標としてまばゆく
触れられぬ距離はまぶしく朝露にクモの巣きよくはりつめている
来世には遺跡のようによこたわりだれかに見つけてもらうのが夢
同
「われらみな」に詠われているように死と孤独は近しいものです。三十首には作家の日常生活上の葛藤も詠まれていますが孤独感が滲みます。「階下からコーヒーの匂いさびしくて結露激しき窓も天命」は表題作ですが人の営み(仕事)も「結露激しき窓」も与えられた「天命」を果たしている。古い言葉で言えば分を弁えていると言えるでしょうか。諦念が深いとも言えます。
なぜこういった醒めた歌なのかあるいはこれからもずっとこういった深い孤独の歌をずっと詠んでゆかれるのかどうかはわかりません。ただ歌はとても素直です。基本的に実景に即した写生。作家の生活に根ざしておりとても強いリアリティがある。ただ〝個〟の物語でもあるわけですから展開は必要になります。起点は「来世には遺跡のようによこたわりだれかに見つけてもらうのが夢」のような表現かもしれない。夢は十中八九破れるわけですから立ち上がらなければなりませんね。
ワイヤレスイヤホン、マスク、穴という穴を塞いだまま見てる夢
自民塔は自由と民主主義の塔 私は税を納めるつむじ
続いてはスポーツですとキャスターが言った瞬間消える犠牲者
天皇がいない日本も日本だと言い切れるかはふにふにだろう
申し訳ないのだけれどこの国は通されたからいるだけの部屋
原発について意見が私にはひとつもないがぼくには少し
番号で呼ばれたいとき、呼ばれたくないときに自在に操れたなら
遠藤健人「ふにふにだろう」より
次席はお二人です。遠藤健人さんは平成二年(一九九〇年)生まれ。連作は「ワイヤレスイヤホン、マスク、穴という穴を塞いだまま見てる夢」で始まりますがこれは反語でしょうね。現代の政治状況にも日本の歴史文化についても批判的な目をお持ちだと思います。
特に短歌という表現では天皇についての思考は微妙にならざるを得ません。短歌は常に天皇家と共にありました。それを除外してもいわゆる〝国体(精神的なものとしてであれ)〟として天皇制を捉えるのかどうかはなかなか難しい問題です。突き付けられれば日本人にとっては一つの試金石(精神的敷居)になりかねません。
遠藤さんの場合その答えが「天皇がいない日本も日本だと言い切れるかはふにふにだろう」ということになります。留保ということですね。そのアンビバレントな姿勢は「原発について意見が私にはひとつもないがぼくには少し」という表現からも読み取れます。公的な「私」としての意見はないけれども私的な「ぼく」にはある。だから「番号で呼ばれたいとき、呼ばれたくないときに自在に操れたなら」になる。番号でない時の私は覚悟を持って何かを発言(発信)しなければならない。
「ふにふにだろう」という少しスカしたタイトルがついていますが案外骨太な歌かもしれません。ただあえて言えばこの連作で新人賞を受賞しなくて良かったのではないでしょうか。過渡期の作という感じが漂います。作家であることの勇気をさらに持てば切り捨てるのであれ没入するのであれ自らの立ち位置がさらにハッキリした歌になると思います。
しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た
午すぎの静かな雨を通り抜け東急ストアでみかんを選ぶ
透明なボックスティッシュの膜を裂く余震のあとの騒ぐ心で
開かれて窓の格子に吊り下がるビニール傘が通路に光る
章の間に挟んだままのレシートの数日前の生活を読む
円柱が人の流れを分けている南北線の地下のホームは
嶋稟太郎「大きな窓のある部屋に」より
もうお一人の次席は嶋稟太郎さん。昭和六十三年(一九八八年)生まれで結社誌「未来」所属です。冒頭六首です。大変申し訳ないのですがだいぶ手垢がついてしまった表現だと思います。基本淡々とした外界写生なのですが中心にいるのは〝私〟。しかし〝虚の私〟です。外界を表現しなければ私が存在しないといった感じの希薄さなのですが逆説的にある種傲慢な私の存在を感じさせます。
ただ「手垢がついた表現」といったのはこのような私の表現方法が時代にピタリと合っているからです。私はもうどうしていいのかわからない。思想的にも文学表現においてもそうです。決定打が見つからない。あるいは打開点が見あたらない。もしかしてそんなものないのかもしれない。でも人間存在そんなに大人しくありません。特に作家と呼ばれる人種はそうです。
止めていた音楽をまた始めから長い時間が経ってから聴く
予定より早く会議を終わらせて大きな部屋にわたしは残る
長生きをしたいと思う目を閉じて開くそれだけの祈りのあとは
同
この三首あたりが連作の正念場でしょうね。永遠のように時間は流れますが私は残っている。何かから取り残されている。無為に思われるような時の流れの中でなぜ「長生きをしたいと思」い祈るのか。ストレートに言えば死を待ち望んでいるか現状からの脱出(超出)を目論んでいるのかいずれかでしょうね。もちろんどちらとも言えません。
次席というのは決して悪いことではありません。正賞を受賞するより選択の幅が残されているとも言えます。
嶋さんの場合安定した書き方をなさっています。だいぶ書き方(書法)が固まっているとも言えます。詩の表現では書法と表現内容は一体です。ある書き方を選択するとある表現内容に限定される。変えてもいい頃合いかもしれません。この淡々とした写生詠で虚であるはずの私の心情がほとんど揺れない動揺しないからです。それではいずれ限界が来る。私の心は揺れなければならない。そのために書き方を変えてもいいのかもしれません。
どの歌誌の新人賞を読んでも少しずつ潮目が変わっていますね。特に正賞の選び方にそれが表れていると思います。こうやって揺り戻しながら表現史は変わってゆくわけです。
高嶋秋穂
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