蜷川式胤著『観古図説(陶器之部)』(復刻版)
僕はだいぶ前から柏木貨一郎と蜷川式胤について調べている。調べるといってもヒマにまかせて関連本を読み、まれに市場に出る彼らが関係した骨董を買っているだけだ。また彼らへの興味はジャポニズムが入り口ではなかった。ちょうど今奈良国立博物館で開催されている正倉院の御物絡みである。
値段はともかく日本の骨董で一番格が高いのは正倉院御物である。なにせ聖武天皇七回忌の天平勝宝八歳(七五六年)に光明皇太后が天皇遺愛品を東大寺盧舎那仏に献納なさったのが始まりである。発掘品ならいくらでももっと古いものがあるが、一二〇〇年以上に渡って大事に守り伝えられてきた宝物は世界中探しても正倉院御物しかない。所蔵された年代と伝来がはっきりしていてしかも今に至るまで天皇家の所有である。
ただ一二〇〇年は恐ろしく長い。かなりの宝物が流失あるいは経年劣化で消失している。また正倉院はめったに開封されなかったので御物が残った。長い江戸時代に限っても開封は元禄六年(一六九三年)と天保二年(一八三一年)の二回だけである。次の開封は明治五年(一八七二年)。欧米に倣って博物館(美術館)を設立するための特別開封調査だった。町田久成と蜷川式胤、内田正雄、柏木貨一郎が調査を行い画家の高橋由一と写真家の横山松三郎らが同行した。干支にちなんで壬申検査と呼ばれる。
江戸幕府と明治政府の違いはあるが時の政権による調査なので開封の際には目録(宝物リスト)が作られた。それを見ると天保検査と壬申検査の間にどの御物が流出したのかがわかる。そしてその一部が明治の大コレクター益田鈍翁の所有になったと推測される。ではいつ、誰によって御物は流出したのか。開封されなかった期間に流出したとは考えにくい。これはまあとても書きにくいが、柏木さんと蜷川さんが御物流出に関わった可能性が高い。
その理由は別の機会に書くが、この明治五年の御物流出事件はとっても日本的で面白い。鈍翁の手に渡った正倉院御物と覚しき宝物は九州国立博物館が買い上げ収蔵品になったが、館長は国会で盗品ではないのかという質問を受けて「いつの時代にか東大寺から流出した品物である」と言っている。光明皇太后は聖武天皇遺愛品を正倉院と東大寺の二箇所に献納なさったからである。また宮内庁は御物流出について「日本臣民が天皇家所有物を盗むことはあり得ない」という公式見解のようだ。
つまり検査目録を比較すれば天保二年に封印されてから明治五年に目録が作られた間にいくつかの御物がなくなっている。が、文字通り消えたのでありどこに行ったのかわからない。目録に書かれている御物に似た品が市場に現れても写真などが残っているわけではないのでそれは東大寺から流出した物である。宮内庁見解に従えば正倉院御物はオフィシャルには明治五年に一点も外部に流出していない。
これはこれで良いというか、そうなるだろうなーと思う。御物は天皇家所有なので流出はとても繊細な話題だ。ただなかなか触れにくい問題に突っ込んでゆくのも文学の仕事の一つである。また僕は古美術好きの先達として柏木さんと蜷川さんを心から尊敬している。美術官吏として優れた仕事をなさったのはもちろんコレクターとしても一流だった。
以前桃山時代くらいに作られた蒔絵箱に入った柏木さん旧蔵品五十点くらいを見たことがある。彼くらい古美術を愛しその価値を知っていた人はいないと痛感した。柏木さんは骨董好きの神のようだと本気で思っている。学者さんも宮内庁も正倉院御物流出はないという立場なのだから柏木さんと蜷川さんはあくまで東京国立博物館の基礎を作った偉大な美術官吏である。オフィシャルには御物流出事件に関してお二人は潔白。想像をたくましくすればの妄想は怪しげな骨董業界と文学者に任せてもらえれば良い。
柏木さんはまとまった著作がなくわずかな文書資料と彼が残したコレクションからその事蹟を辿るしかない。蜷川さんは文筆家でもあり生前に図録集『観古図説』を刊行し死後に日記『奈良の筋道』などが刊行されている。ただし二人とも実生活については書き残しておらずその人となりを文章から知ることはできない。また彼らについて参考になる研究はとても少ない。
柏木さんについては山口昌男先生の『日本近代における経営者と美術コレクションの成立――益田孝と柏木貨一郎』がとても参考になった(さすが山口先生)。しかし蜷川さんに関してはピンとくる研究書が見あたらなかった。ところが半年ほど前にある人から今井祐子さんの『陶芸のジャポニズム』が蜷川さんについて詳細に論じていると聞いた。さっそく寝る前に布団の上でふにふに読んでみた。御物流出事件についてはまったく触れられていないがとても参考になった。蜷川さんの公的業績について蒙を啓かれたのでありました。
蜷川さんの図録集『観古図説』は復刻版が出ていて古書でもバカ高いが基本図書だから無理して買って読んでいた。ところが復刻されるほどこの本の何が重要なのかぜんぜんわからなかった。それが今井さんの『陶芸のジャポニズム』を読んで初めてわかった。『陶芸のジャポニズム』は付録を含めると七五〇ページ近い本で内容も多岐に渡る。が、焦点は蜷川とモースの関係である。
蜷川式胤著『観古図説(陶器之部)』(復刻版)
巻一 【上古土器】、巻二 【上古土器など】【地方窯】、巻三 【地方窯】、巻四 【京焼】、巻五 【京焼】【地方窯】、巻六 【地方窯】、巻七 【京焼】【地方窯】
明治九年(一八七六年)から十年(七七年)刊行 画・亀井至一、彩色・川端玉章、解説・蜷川式胤 昭和四十八年(一九七三年)歴史図書社復刻 限定三〇〇部
蜷川家は物部守屋を始祖とする名家で元は宮道を名乗っていた。平安時代に現・富山県富山市蜷川(蜷が多く棲む川があったことから付いた地名)に荘園を持っていたので蜷川姓を名乗るようになった。その後全国に分家したが式胤は京都蜷川家第二十三代当主である。東寺と繋がりが深く武士だが公家と近しい家柄だった。
式胤は御一新後に明治政府に出仕し、制度取調御用掛から外務省に移り明治四年(一八七二年)に文部省博物局御用を兼務した。すぐに内務省博物館係出仕となって町田久成らと壬申検査を行った。天保六年(一八三五年)生まれ明治十五年(八二年)没、享年四十八歳(数え年)。当時のことなので若死にとは言えないが壮年での死だった。なお柏木貨一郎は天保十二年(四一年)生まれ明治三十一年(九八年)没、享年五十八歳(同)。柏木家は幕府小普請方で江戸後期を代表する漢詩人の一人、柏木如亭と縁戚である。二人とも美術系官吏を辞した後は古物を研究しそのかたわら自宅で骨董品の売買を行った。
『観古図説』は亀井至一が絵を描き川端玉章が彩色している。二人とも明治を代表する画家だ。印刷は石版で亀井が手がけた。明治九年(一八七六年)から十年(七七年)という時期を考えれば最新技術を使ったカラー和綴本だった。蜷川は東京自邸内の工房「楽工舎」に私費で石版印刷機を購入して『観古図説』を印刷製本したようだ。第七巻まで刊行されたが八巻以降の刊行も考えていたようある。また『観古図説(陶器之部)』のほかに『観古図説(城郭之部)』を編集していたことも知られている(死後刊)。蜷川がコレラに罹って急死しなければ様々なジャンルの『観古図説』が刊行されていた可能性がある。
内容は各巻冒頭に蜷川による収録陶器の概説がありその後に彩色図版が掲載されている。図にも蜷川の解説が付されていることがある。大変な労作なのだが現代人の目(陶磁器の知識)から見れば物足りない。明治初年代ということを考えれば致し方ないが明らかな間違いや恣意的記述もある。しかしこの『観古図説(陶器之部)』は海外の文人やコレクターに大きな影響を与えた。
復刻版『観古図説(陶器之部)』には『観古図説 解題』の小冊子が付いていて巻頭の「復刊刊行の辞」に「当時、この図録は日本人よりもむしろ外国人に歓迎されて、盛んにヨーロッパ諸国に輸出された。このため原本をわが国で見ることは極めて稀なことである。従って本書は特にフランスで評判となり、中でもかの有名なジョルジュ・クレマンソウ(フランスのジャーナリスト・政治家で首相を二期務めた。親日家として知られ茶道で使われる香合のコレクションで有名。現在はカナダのモントリオール美術館所蔵)は本書を通じて式胤の業績を高く評価し、後にこの名声が逆に日本に伝えられたものである。またアメリカ人モルスは『日本陶磁目録』という名著を著し、わが国の陶工及び陶器研究に指導的役割を果したが、この蔭には彼が式胤に師事し、日本陶器の見方や研究法を学んだ賜物であった。まさに蜷川式胤によって日本陶器が世界に紹介されたというべきであろう」と書かれている。
以前読んだ時には蜷川さんの業績顕彰のための復刻本だから、だいぶ評価を盛っているんだろうと思った。とりたてて新しい知見を得られなかったからである。しかしこの本は実際とても重要な役割を果たした。
日本の焼物研究が本格化したのは遅くようやく昭和初期になってからである。小野賢一郎編『陶器全集』全三十冊(昭和六年[三一年]~十二年[三七年])、小野著『陶器大辞典』全六巻(九年[一九三四年]~十一年[三六年])、それに加藤唐九郎著『新撰陶器辞典』(十二年)が嚆矢である。それまでも陶磁器関連の本はあったが制作年代や窯別の〝体系的陶磁本〟が作られたのはこの時が初めてである。その後急速に陶磁学は発達したが考えてみるとずいぶん遅い。日本では陶磁器は趣味の領域、つまりずっと骨董として扱われてきたのだった。
僕は未見だが小野編『陶器全集』には『観古図説(陶器之部)』第一巻から四巻が収録されているようだ。小野は蜷川の『観古図説(陶器之部)』が日本陶磁研究の端緒だと考えていた。また小野や唐九郎の陶磁本は欧米の研究成果の逆輸入だった。
今井さんの『陶芸のジャポニズム』によると『観古図説(陶器之部)』は当時東京築地居留地にあったドイツ系総合商社アーレンス商会からヨーロッパに輸出された。アーレンス商会は当初武器を輸入していたが明治政府が安定すると染料や薬品、機械などを輸入し日本の美術工芸品を輸出するなどありとあらゆる商品を扱っていた。
アーレンス商会はたまさか『観古図説(陶器之部)』を輸出したわけではない。蜷川の依頼によるものだった。蜷川はフランス語に堪能で『観古図説(陶器之部)』に仏文解説を付けて輸出した(訳者は蜷川ではなく貴族院議員まで務めた官僚・平山威信のようである)。またフランス各地に所蔵されているが国立美術史研究書図書館所蔵本はヴィクトル・セガレンの勧めで購入した可能性があるのだという。さすがセガレン、勘がいい。
『観古図説(陶器之部)』仏文解説は蜷川の概説を忠実に訳したもののようである。たいしたことは書かれていないはずだがこの仏文解説を手がかりにフランスで急速に日本文化の理解が進んだ。前述のルイ・ゴンスの講演が代表的である。ヨーロッパの物を整理分析して綜合的に認識把握する博物学の伝統が、ほんのわずかな手がかりを得て日本の陶磁、ひいては日本文化のより深い理解に進んだのだ。蜷川の『観古図説(陶器之部)』は文章でもジャポニズムに貢献している。
一方明治初期の日本には多くのアメリカ人が来航した。地政学的に言うと大西洋はヨーロッパのものであり太平洋は現在に至るまで実質的にアメリカの支配下にある。新興国アメリカはヨーロッパ列強との衝突を避け広大な太平洋の支配に乗り出したのだった。後にそれが日本とアメリカの間で太平洋の支配権と中国市場の利権を巡る太平洋戦争を引き起こすわけだ。それはともかく十九世紀末のアメリカは日本との貿易に積極的で日本もアメリカを通じて先進技術や文化の多くを移入した。
明治初期に来日した代表的アメリカの文化人にエドワード・S・モース(一八三八年[天保八年]~一九二五年[大正十四年])、アーネスト・フェノロサ(一八五三年[嘉永六年]~一九〇八年[明治四十一年])、ウィリアム・スタージ・ビゲロー(一八五〇年[嘉永三年]~一九二六年[大正十五年/昭和元年])らがいる。彼らは日本の文人たちと密に交流した。
中国と異なり日本の文化は庶民文化だった。特に江戸後期から幕末がそうである。幕府御用達絵師の狩野派よりも民間の浮世絵や琳派などが今では高く評価されていることからもそれがわかる。新し物好き(舶来物好き)の日本人の性行もあって彼らは比較的簡単に当時のインテリ文人たちと交流できた。
モースとフェノロサは東京大学のいわゆるお雇い外国人教師だった。フェノロサは美学専門で岡倉天心と親交を結び東京美術学校(現・東京藝術大学)設立に尽力した。法隆寺を訪れ天心とともに夢殿の秘仏・救世観音像を開帳させたことでも知られる。ビゲローは資産家で浮世絵コレクター。ボストン美術館は世界有数の浮世絵コレクションで知られるがその約六〇パーセントがビゲロー・コレクションである。
モースの専門は動物学でダーウィニストだった。日本には腕足類(二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物)の研究のために来日したが日本政府に嘱望されて東京大学で進化論に基づく動物学を講じることになった。三度来日しているが初来日の際に東京大森で大森貝塚を発見し発掘したことはよく知られている。モースは日本考古学の祖である。
モースが陶器に興味を持ったのは散歩の途中で彼の研究対象である貝の形をした陶器を見つけたことに始まる。陶器に夢中になったモースを日本の友人が蜷川に紹介した。蜷川邸は日本人だけでなく古物好きの外国人も集う文化サロンであり、古物の売買や交換会も行われていた。現代では東京美術倶楽部などで盛んに骨董の交換会が開催されているがその始まりは蜷川や柏木らの古物好きの私的な集まりである。
日本滞在中にモースは蜷川邸に通い彼から直接陶磁器についてのレクチャーを受けた。蜷川と交流したのはわずか四年ほどだがその死後も陶磁器についての研究を続けた。モースにとって『観古図説(陶器之部)』が文字通り日本陶磁の教科書だった。モースは生涯約五千点の陶磁器を集め晩年にボストン美術館に売却したが、その中核は『観古図説(陶器之部)』に掲載された蜷川コレクション(モースは〝蜷川タイプ〟と呼んでいた)である。
モースの長年の陶磁研究の成果は『日本陶器目録』にまとめられた。自らのコレクションを制作地、窯、作家別に細かく分類した本である。モースは最も忠実な蜷川の弟子だったわけだがその著書『日本陶器目録』が日本に紹介されて昭和初期の小野賢一郎や加藤唐九郎の体系的陶磁本を生み出した。蜷川からモースに受け継がれた陶磁学が日本陶磁学の礎になったのである。
ただ大森貝塚の発見者として有名だが、モースが陶磁学者でもあることを知っている日本人は少ない。それはなぜなのか。身も蓋もないことを言えばモースが精魂傾けて集めた陶磁器がそれほど価値あるものではなかったからである。美術コレクターとしては岡倉天心の盟友だったフェノロサ、来日期間は短かったが的確にいわゆる名品を集めたビゲローの方が遙かに優れた審美眼の持ち主だった。僕はボストン美術館所蔵のモースコレクションをざっと見たが彼が生きた時代に作られた陶磁器を蒐集し、それを一生懸命分類したという印象が強い。特に京焼に引っ張られすぎている。ただコレクションの質は別としてモースの業績は高く評価できる。
モースは「彼(蜷川)は、日本人は外国人ほど専門的な収集はしないと言ったが、私の見聞から判断しても、日本人は外国人に比べて系統的、科学的でなく、一般に事物の時代と場所について好奇心も持たず、また正確さを重んじない」と書いている。これは今に至るまでまったくその通りである。
日本の陶磁器愛はたいていの場合趣味であり骨董遊びに属する。確かに明治時代頃までと比べれば陶磁に関する知識は飛躍的に増えた。が、熱心な陶磁好き(骨董好き)でもその知識は半端だ。図録は眺めるためのグラビア本であり解説まで読んで知識を得ようとする人は少ない。相も変わらず次は何を買おうかと考えている。
異文化接触(衝突)はどちらかが相手を完全に飲み込んでしまわなければ相互的なものになる。日本が受けた影響は欧米人から芸術を体系的に捉える思考方法を学んだことである。モースの方法の厳密さは蜷川の比ではない。
ただ制作時代や生産地については体系的に分析整理されるようになったが、作られた時代全体を俯瞰して位置付ける研究は少ない。当たり前だが制作当時の陶磁はほとんどが商品であり道具だった。巨大な社会システムのパーツに過ぎなかった。しかし研究に熱が入ると陶磁中心に世界が廻ってしまう。これは陶磁以外の学問でも指摘できる。日本人は比較文化学が不得意だと言えるかもしれない。
また研究だけでは美術の本質に近づけない。優れた審美眼が必要だ。学者として優秀なだけでは足りないのである。高い金を出して物を買って贋作を掴み、眠れないほど口惜しい経験をした人でなければ真贋鑑定の目を養うのは難しい。身銭を切って痛みを知る必要がある。真贋は古物研究の初歩だがそれすらわからなければ研究はある段階で行き詰まる。それでも集めた物がモースコレクションのような質になってしまうこともある。優れた審美眼は教えられず生来のものだからだ。研究者と審美家両方が揃わないと美術研究は進まない。そこが美術の難しいところである。
僕は骨董好きだからそっち側から書くと、単に古物好きなだけでなくそれについて書く骨董エッセイは情報化社会になってその質が大きく変わると思う。目利きは「これ目利きして」という使い方をするように単に真贋判定能力を指す場合が多かった。それがいつの頃からか古美術の達人というイメージが付随するようになった。しかし情報化時代が進めば真贋判定能力は相対化されるだろう。解像度の高い写真と動画をネットにアップしてそれこそ目利きが寄ってたかって検討すればあっという間に結果は出る。古美術は徹底したデータベース世界である。情報ツールの使い方によっては古美術ほどコンピュータ技術と相性のいい世界はない。
新しい美を〝発見〟するのも難しくなるだろう。まだ誰も見たことがない物に美を発見できたのはせいぜい白洲正子や青山二郎らの昭和中期くらいまでである。情報不足だからそれが可能だった。しかし今や世界中探しても未知はほどんどない。詩人だから小説家、美術家だから特権的感受性を持っていて新しい美を発見できるわけではない。誰にとっても情報は等価である。では書き物として残っている領域はなにか。
日本人のジャポニズムの受け止め方は日本美術(文化)が欧米に認められたことを無邪気に喜ぶものが多い。異様なまでに欧米の反応を気にしている。漱石はロンドン留学中に日英同盟(明治三十五年[一九〇二年])が結ばれた際に大喜びする日本人の様子を知って「あたかも貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん」と書いたがそれとあまり変わらない。相変わらず日本人の文化発信力(日本文化とは何かを論理的に説明して発信する能力)は低い。
サザビーズやクリスティーズなどの世界市場で最も高く評価される東洋美術は皇帝周辺で作られた中国美術である。完璧な形、線、色などが世界標準の美である。もし長次郎の無一物がサザビーズで売りに出ても最上の中国陶の価格を超えることはないだろう。日本美術が劣っているからではない。世界標準の美と日本的美には決定的に異なる面がある。
茶道は取合せであり中心がない。道具類の調和が最も重視される。それは各道具にも適用されるが絵画などよりも陶磁器がその特長をハッキリ表している。
日本人が最も珍重する陶磁器は〝作為のない作品〟である。しかし人間が作る以上、作品から作為を完全排除するのは難しい。特に近代以降に作家性が求められるようになってからはそうである。作家が自己主張すればするほど作品は作為的になってしまう。
ここからは日本文化最大の逆説である。作家が強烈な自我意識を前提として作為のない作品を作ろうとすれば、作為を限界まで押し進めるしかない。作為が臨界点に達すれば作品は無作為的になることがある。これは俳句などの日本伝統文学でも同じである。永田耕衣はしばしば「大愚耕衣」と自称したが飛びきり頭のいい作家が意識的に愚かになるから優れた俳句が生まれる。たいていの俳句が下らないのは頭の悪い俳人が中途半端な自我意識(作為)を無意識的に表現しようとするからである。
本阿弥光悦作の茶碗や織部陶は作為が無作為領域にまで突き抜けた典型的作品だが、アロン・サイスさんなどは外からの視線でそれを直観把握している。サイスさんの作品が好ましいのは作為だらけなのに作為を感じさせないからである。サイスさんの作品が知られるようになってからその作風を真似る陶芸家が現れたが単に作為が目立つ悪作ばかりだった。要は日本人なのに日本文化の本質を理解していない。日本が完全に欧米に追いついてしまった現代に必要なのは日本側からの文化発信能力だろう。骨董エッセイも文学である。文学の役割は極論を言えば日本文化を表現することにある。
『伊万里錦手写し皿』
イギリス メイソンズ社 色絵磁器 十九世紀末から二〇世紀初頭 直径二十三・五センチ
ちょっと小難しい話になったので最後に気楽なジャポニズム系作品を紹介します。『伊万里錦手写し皿』はイギリスのメイソンズ社の作品。創業は一七九六年(寛政八年)だが陶磁器を作り始めたのは一八一三年(文化十年)からである。
イギリスは島国ということもあってヨーロッパ大陸と距離を置きたがる。磁器生産に乗り出したのも大陸より遅いが長い間磁器を作るためには牛の骨の灰が必要だと信じていた(それだけでは磁器は作れない)。そのため磁器を今でも〝bone china〟と呼ぶ。牛の骨の灰はマクベスの魔女が鍋に入れてかき混ぜる魔法の粉かな。わたしらは大陸とはちょっと違うということですね。
メイソンズ社は一時期パッと見には本歌の伊万里かなという作品を数多く作った。ただし染付部分は銅版転写のようで色だけ手作業で乗せているようだ。産業革命の本家イギリスらしい。こういった作品はジャポネズリーと呼ばれる。日本製品の真似っこくらいの意味である。できるだけ忠実に伊万里の絵を写しているが珍しいからそうしただけでイギリスで日本文化は滲透しなかった。いわゆる雰囲気としての日本趣味である。
『本阿弥光悦・俵屋宗達下絵「鶴図下絵和歌歌巻」を装飾に使ったブリキの箱』
オランダ ブリキ製 十九世紀末から二〇世紀初頭 縦十三・九×横二十六・九×高二十・七センチ(最大値)
同 蓋の裏の文字
In deze doos mogen uitsluitend “GLIM” artikelen bewaard worden.
オランダ製のブリキの箱はさらにジャポネズリーで単に珍しいからこんな物が作られたのだろう。使われている絵は本阿弥光悦書・俵屋宗達下絵「鶴図下絵和歌歌巻」を適当に変えたもののようだ。それにしてもなぜ光悦・宗達合作の絵なんでしょうね。
蓋の裏には「In deze doos mogen uitsluitend “glim” artikelen bewaard worden.」と書かれている。Google様の日蘭自動翻訳にかけたら「このボックスには〝光沢のある〟アイテムのみを保管できます」と出た。なんのこっちゃ。推測すると、どうも靴磨きの道具類を入れておくための箱のようだ。制作年代は推定だが、保存状態が悪かったとはいえ百年くらい経たないとこういうたたずまいにはならない。
これを最初に買った靴磨き職人(ということにしておきます)は「へー珍しい」と惹かれたのだろう。しかし道具として毎日使えばすぐにそんなことは忘れてしまう。もっと便利な道具(箱)ができればそれに乗り換える。いつしかしまい込まれほとんどは捨てられる運命だ。しかし物は用途を失って初めて物本来が持つ面白さが露わになるのである。(了)
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2023 / 10 / 17 25枚)
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