まだ七月上旬なのにむちゃくちゃ暑い。昼間外に出ると殺気を感じるほどの陽射しの強さだ。子どもの頃もこんなに暑かったかなー。いや昔より確実に暑くなっている。雨もじゃんじゃん降ってそのあとカンカン照りになるせいか、仕事場のある団地の植物の成長がやたらと早い。そのうち団地の建物が植物に埋もれてしまうんじゃなかろか。日本は熱帯雨林化してますなぁ。
夏といえば一昔前は怪談の季節だった。しかし除霊などのテレビ番組が霊感商法を助長するという理由で下火になったのだとか。宗教法人への過度な寄進も問題になっている。古来仏教でもユダヤ・キリスト・イスラーム教でも寄進(喜捨)を奨励しているが、それが特定の人や集団の利潤目的(商売)じゃないのかと疑われると社会問題になるわけだ。ただテレビは自主規制だがYouTubeなどでは相変わらず怪談話が盛んである。現代人の多くは幽霊など信じちゃいないがエンタメ怪談話は Welcomeなんでしょうね。
幽霊や怪異現象を一番信じていないのは骨董好きだと思う。よく物に昔の所有者の念が残っていて祟りをなすといった話があるが、そんなこと言っていたら骨董など買えやしない。
もうだいぶ前だが古瀬戸の壺を買ったことがある。底に穴が空いていてセメントで埋められていた。元は骨壺ということである。地中に埋めると水が溜まるので底に穴を開けるのである。ちょっと珍しいタイプの古瀬戸でこんな壺を骨壺にするなんてずいぶん粋な人だったんだねと思って花入れにして飾っていた。
ある日骨董屋が家に遊びに来て手に取るなり「ツルヤマサン、これはいけません」と言った。ちょっと体調が悪かったとか贋作を掴んだ理由はいくらでもあげられるがそんなこと言ってもしょうがない。骨董の真贋は原則白黒二つしかない。実に誠にほんまに不覚である。小林秀雄は青山二郎に持っていた赤絵大皿を贋作だと言われて「物がダメなら俺がダメなのだ」と思い詰めたと書いているが気持ちはよくわかる。「あそ、あげる」と言うと「じゃ三千円で」と律儀に買い取ってくれた。「物に罪はない、贋作を掴んだあんたが悪い」というのが骨董屋の信条である。贋作には贋作の値段があるということ。もちろん微妙なケースもある。
この骨董屋の店に遊びに行ったら立派な桐箱に入った仏像を仕入れていた。張り紙に「興福寺千体仏」と書いてあった。滅多に実物にお目にかかれないので「マジっすか」と言うと「興福寺じゃないですが、平安から鎌倉初期はありそうです」と箱から出して見せてくれた。お香らしきいい匂いがした。
骨董屋は「ずいぶん大事にされてきたようです」と言って手を合わせると、仏像を手に取りくるんと回した。
「ほら、ここの腕のところ、補修されてるでしょ」
「あーそうだねぇ」
「腕のいいプロ仏師の補修です。頼むと何十万かかかります」
「へー」
「顔も一枚皮を剥いてるみたいです。頭にも大きな補修があります。わかります?」
虫眼鏡を使い目をこらしてようやく見えてくる古い直しである。虫食いまで再現していた。
「値段はいくらなの?」
「補修がなければ二百万でもいいんですが、この状態なら八十万ってところです」
「立派な箱代や補修代はカウントされないの?」
「基本、されません」
「へー」
美しいとか古そうだとかキレイと思う前に、骨董では冷酷無慈悲に真贋を見極める必要がある。もし最近作られた悪意の贋作なら幽霊話が紛れ込んでくる余地すらない。
怪談『皿屋敷』の主人公お菊さんは奉公していた家の十枚揃いの家宝の皿を一枚割った粗相で中指を切り落とされ、井戸に身投げして死んでしまう。それ以来井戸の中から「一つ、二つ・・・」という声が聞こえるようになったという怪談話だが、お菊さんが割ったのは時代的に鍋島色絵皿だったのではないかという説がある。十枚揃なら中皿だが拝領品の優品だったろう。今なら一枚三百万くらいする。直しがあっても五十万か。お菊さんが井戸の中でまだ皿を抱えているとわかったら、「どうですそろそろお手放しになりませんか」と骨董屋が手土産持って訪ねて行きそうだ。
たまに骨董屋で居合わせたお客さんと話しをすることがある。たいていはどこどこでこんな珍しい物を見た、いくらだったという話題で霊とか怪異現象の話しをする人には出会ったことがない。ほどんどの骨董は生産地や製作時代がわからないので類品から推測するしかない。もどかしい思いをすることも多々ある。うんと昔の所有者と話しができてそれがわかるなら、ちょっと不謹慎だが霊感があって幽霊が見えるのも悪くないかもしれない。
高八・四、台二・一×一・一センチ
同 側面
同 裏面
台座正面 銘記 「開皇七年(五八七年)二月十九」
台座右面 銘記 「両(?)/(一文字不明)合門大(?)」
台座裏面 銘記 「小造(二文字不明)/一區」
さて今回は中国は隋時代に作られた小金銅仏である。金銅仏というからには金メッキされていて金色でなければならないのだが、これは火中していてメッキが落ちてしまっている。火ぶくれの痕もある。ただし台座に銘文が刻んであるので制作年を特定できる。
向かって左側の足が一本欠けてしまっているので銘記は完全ではない。読めない字もある。台座正面には「開皇七年二月十九」とある。欠けた足には「父母供養」などの文字があったのではないか。こういった小金銅仏の銘にはたいてい「父母供養」とか「衆生供養」の文字が刻まれている。
台座右側面は「両(?)/(一文字不明)合門大(?)」らしく、個人造主か集団の名前が刻まれていたのではなかろうか。左面は文字がなく裏は「小造(二文字不明)/一區」のようで制作者の仏師の名前かもしれない。ちゃんと読める(推測できる)方がいらしたら是非教えていただきたい。
この小金銅仏を買ったのはもう二十五年くらい前の骨董初心者の頃である。今よりずっと夢見がちで、古い皿をひっくり返すと裏に「日本」と書いてあるんじゃないかとバカなことを考えていた。うろ覚えだがヴィクトル・セガレンの小説『ルネ・レイス』に〝北京の名は紫禁城の地下道の濡れた壁に刻まれている〟という記述があったように思う。彼と同じで古い物から日本の起源を特定できるかもしれないと夢想していたのだった。もちろん不可能だ。ただ物書きだから文字フェチで、今でも箱や物そのものに文字や年号があると惹きつけられてしまう。
隋の開皇七年は西暦五八七年である。隋は後漢以来の統一帝国だがわずか三十八年で滅びてしまった。隋の後に興ったのが唐でこちらは二百九十年の長きに渡って続く大帝国となった。同時代では世界最大の帝国で絢爛豪華な文化を誇った。中国史で隋は唐の引き立て役といった感じで影が薄い。が、日本ではとても有名だ。
日本が初めて中国と国交を結んだのは隋である。聖徳太子が隋に小野妹子を派遣した際(六〇七年)の国書の書き出しが「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」だったのは有名だ。この国書の文言に時の隋王・煬帝は激怒した。蛮夷の島国小国の倭王が中国皇帝にしか許されない「天子」を名乗ったからである。煬帝に叱られてから日本では国王の称号を「天皇」に改めた。
日本ではおおむね聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(五九三年)から藤原京に遷都した持統天皇八年(六九四年)までの約百年を飛鳥時代と呼び前時代の古墳時代と区別する。なぜかと言うと飛鳥時代になって初めて日本は本格的漢字文化(文字文化)になったからである。文字は流入していたが古墳時代までの日本は無文字文化だった。
小金銅仏の銘記にある開皇は隋の初代皇帝・文帝の元号である。日本は蘇我馬子と物部守屋が権力闘争をしていた古墳時代末期に当たる。最初の遣隋使は六〇〇年に派遣されたが第二回の小野妹子派遣も日本側には記録がない。後の日本の正史『日本書紀』にも記されておらず中国の『隋書』などが頼りである。古墳時代までの日本の動向は中国の史書を参照するか、口承で伝えられ後に『日本書紀』や『古事記』にまとめられた内容を信じるしかない。
『日本書紀』によると日本に仏教が伝来したのは欽明天皇十三年(五五二年)。まだ和暦(元号)のない時代である。ただし異論もあり現在では五三八年説が有力。日本に仏教をもたらしたのは朝鮮の百済王とされる。この時代、朝鮮半島は百済、新羅、加羅が割拠して争う三国時代だった。新羅に統一される六七六年まで続いたが新羅に押されっぱなしだった百済はしばしば日本(倭国)に救援を求めた。百済滅亡前後には多くの貴族(知識人)が渡来して帰化人となり朝廷に寄与した。古墳時代から飛鳥時代初期が日本と朝鮮半島が最も密に交流した時期である。
日本では「天平の甍」(奈良時代、七一〇年から八四年)と夢想しただけでも遠い目になってしまう。霞の彼方にぼやけてよくわからない古代なのだ。その感覚で言うと小金銅仏に刻まれた開皇七年(五八七年)はえらく古い。しかしこれは日本中心に考えた場合のことである。
中国では前漢の紀元前九一年に最初の史書、司馬遷『史記』が成立している。漢字の発生はさらに古く紀元前一三〇〇年頃から使われていた。『日本書紀』は七二〇年成立なので史書だけ比べても日本は中国よりずっと遅れていた。開皇七年は古いは古いが中国ではびっくりするほどではない。このあたりが骨董(古美術)の奥深いところというか恐ろしいところである。
【参考図版】如来坐像
一躯 片岩 パキスタン・ガンダーラ 高七七・三センチ クシャーン朝 二~三世紀 東京国立博物館蔵
仏教の教義や流派について書くとややこしくなるので今回は金銅仏の歴史をざっと概観しておきましょう。仏教の開祖は言うまでもなく釈迦(中国語表記)で北インドの人だった。紀元前六世紀頃の人と言われるがその没後から釈迦が説いた教えが図像化され始めた。パキスタン、アフガニスタン、北インドに数多く残るいわゆるガンダーラ仏である。東京国立博物館内の東洋館一、二階には初期石造仏(ガンダーラ仏)がたくさん展示されている。『如来坐像』はその一つだが見ての通りお顔は彫りの深い西洋人風である。着物や身体の表現は具象的でギリシャ彫刻の影響を受けている。ガンダーラ仏には天使やヘラクレスも登場する。このガンダーラ仏が中国金銅仏の起源になった。
【参考図版】金銅菩薩立像
西晋~五胡十六国時代 四世紀初頭 伝陜西省三原県出土 重要文化財 高三三・六センチ 藤井斉成会有隣館蔵
仏教は中央アジアのシルクロード経由で中国に流入した。敦煌遺跡などが有名である。流入初期は巨大石仏も作られたがじょじょに金銅仏が多くなってゆく。石に次いで耐久性が高くて比較的軽く、持ち運びが容易で量産しやすいからだろう。
中国で本格的に金銅仏が作られ始めたのは秦、前漢、後漢に次ぐ五胡十六国時代(おおむね三〇四~四三九年)である。五胡十六国時代にはその名の通り多くの民族・部族が覇権を争った。中国は多民族・多言語国家だからその統一のために仏教が活用されたようだ。ローマが巨大帝国統治のためにキリスト教を国教としたのと同じである。『金銅菩薩立像』は初期五胡十六国時代の作。だいぶ中国化されているがまだエキゾチックな西方ガンダーラ仏の面影が残る。
【参考図版】金銅如来像
北魏時代 五世紀 重要文化財 高一六センチ 個人蔵
五胡十六国時代に次ぐのが北魏時代である(四三九~五三四年)。鮮卑族の拓跋氏が河北を統一したのだった。この時代が中国最初の仏教隆盛期である。台座付きの金銅仏は五胡十六国時代にも作られていたが北魏時代に本格化する。仏像の表現もすっかり中国風になっている。光背は別に作られ取り付けられている。全体的に精緻な作りでこの様式が簡素化されサイズも小さくなり、今回紹介した隋仏のような造形になっていったことがわかるだろう。
【参考図版】金銅如来像
唐時代 七世紀後半 高十一センチ 東京国立博物館蔵
時代は大きく飛んで唐時代の金銅仏である。北魏から随時代にかけて造形はどんどん簡素化されていったが唐時代も同様である。大きさも十一センチと小さい。しかし隋の金銅仏と比べるとお顔や身体つきがふっくらしている。唐時代全般の特徴で焼物なども内側から膨れ上がるように丸みを帯びるようになる。版図が大きく拡がり首都長安は西方ペルシャ商人らも頻繁に行き来する国際都市になっていた。そんな開放的な社会情勢が物の形になって表れている。
仏像は現代まで綿々と造られている。ただ中国仏像史では唐時代が一つの区切りになる。仏教は北インドが本場で東アジアでは中国中心だった。が、唐時代以降、中国ではじょじょに衰退し儒教が仏教に取って代わる。インドもそうで今ではマジョリティはヒンドゥー教徒だ。つまり中国仏像史を仏教全盛期に区切れば隋代仏像は後期に属する。
何も知らなければ今回紹介した小金銅仏に刻まれた文字などは謎めいて見える。しかし意味はありそこから造られた意図がはっきりわかる。実際僕が持っている隋の小金銅仏は銘文があるのでちょっと珍しいがもの凄く貴重な物ではない。こういったことはほとんどの骨董について言える。物をたどればどこまでも人間の営みが続いている。謎があるとすればたいていはまだ解明されていないだけのことである。
もちろんこれは考古的に物を見た場合の話である。考古的知識を援用しなければ物の真贋すら判別できない。しかし物が造られた理由、つまり人間の精神史をたどればまた別の解釈が可能になる。その理由によっては拡大解釈(夢想)も可能だ。
仏陀没後の仏像(ガンダーラ仏)にはその生涯を描き事蹟を顕彰するものが多かった。それがじょじょに教えそのものの図像化に変わってゆく。仏陀その人とするか、その教えの中核である阿弥陀仏を教主とするかは別として矛盾と混乱に満ちた現世からの救済を願うイコンとしての仏像が造られるようになった。
初期の金銅仏は制作するのが難しく費用もかかり、また仏教という新しい教義流入の熱気に満ちていたので巨大なものが多い。国家的事業や高位高官の発願でなければ制作できなかった。銘文に「衆生救済」が多いのはそのためである。多くの人々の願いを代表して国家や貴人が仏像を制作したのだった。時代が下り金銅仏の制作が比較的容易になると個人造主の小金銅仏が多くなる。銘文にも「父母供養」などの文字が増える。上流階級の人々が個人や家族で礼拝するための念持仏として制作したのだった。
とはいえ小金銅仏でも制作には相当な費用がかかった。中でも人々を捉えた仏教の教えは死後の生だった。身近な人々の死を悼み死後に極楽浄土で転生することを願って小金銅仏(念持仏)は造られた。その費用はいわゆる喜捨である。近親者の死を悼む気持ちが現世の富を進んでたくさん供出する行為に赴かせたのである。そういう意味では古い小金銅仏には造主の念がこもっている。そんなことは信じなくても仏像は人々の敬虔な心持ちで造られている。宗教心が薄くても粗末に扱ってはいけないのは当然である。
僕は仏教徒である。実家の宗派は浄土真宗だが僕自身の心性は禅宗に近い。死後の生も生きたままの救済も信じていない。ごく簡単に言えばどうしようもない人間的妄念、妄執を抱えたままそれを相対化する(できる)のが救済(悟り)だと考えている。禅の高僧によればそれは一瞬である。生きた人間は悟りの境地に安住できない。ただ死の恐怖も含めて生を一瞬相対化して眺められるだけだ。そのために禅の高僧は自身の妄念・妄執を極めよと説く。恐らくその通りなのだろう。
隋の小金銅仏は机の上にちょこんと乗っている。一本足が欠けているのでひっくり返らないよう漆塗りの台座を作って大切にしている。パソコン横だからいつも目に入る。ただ仏像に向かって祈ることはない。僕は文字を書き本を出すという妄執から逃れられない。夢見る年頃はとっくに過ぎたからそれに対してもう何の期待もない。ただ妄執がある。しかし本は物質だがその本体である文字は本質的に形を持たない。だからしっかりとした色と形のある絵画や古美術に惹かれる。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2023 / 07 / 17 17枚)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の評論集 ■
■ 小金銅仏関連の本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■