今号には大特集「俳句の原点を見つめ直す モノに託す極意」が組まれている。俳句の基本は写生、つまり現実世界の描写であり、人間動植物無機物の様々な側面(静態・動態)の取合せである。モノの取合せが俳句の基本になっているわけだ。もちろん観念用語・概念を取り入れるのも不可能ではないが、たいていは失敗する。少なくともたまに使ってみるくらいの飛び道具にしかならない。基本はあくまでモノの取合せになるというか、ならざるを得ない。
もちろんモノとモノを取り合わせただけで優れた俳句になるわけではない。取合せ以上の何かが必要となるのは言うまでもない。しかしこの何かが厄介で、このプラスアルファ要素になった時点で初めて俳人の力が試されると言っていいくらいだ。季語や切れ字、それにモノの取合せ方法には一定のセオリーがあり教えることも学ぶこともできる。が、プラスアルファ要素は教えられない。俳人それぞれが生涯に渡って追い求めることになる。
角谷昌子さんの連載「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」第四回は今井杏太郎である。昭和三年(一九二八年)生まれで平成二十四年(二〇一二年)に八十四歳でお亡くなりになった。本業は精神科医。職業が必ずしもその文学表現に影響を与えるとは限らないが、杏太郎の場合はちょっとうがって考えたくなる。素直と言えば素直な俳句なのだが現実そのままを取り合わせているわけではない。比較的プラスアルファ要素が見えやすい俳人である。
春の川おもしろさうに流れけり 第一句集『麥稈帽子』(S61・富士見書房)
炎天の平たき町を通りけり
俳句は五七五の短い表現だから、モノを詰め込むのが基本的手法になる。単純化して言えば漢字多用になるんですな。古典的なところで言えば芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」は「古池蛙飛水音」と表記してもなんとなく意味は通じる。虚子「去年今年貫く棒の如きもの」も「去年今年貫棒如」でぼんやり意味はわかる。逆に言えば平仮名を効果的に使った俳句は作家性を示唆していることが多い。
杏太郎の「炎天の平たき町を通りけり」は漢字表記だけの「炎天平町通」でも――「平町」という地名なのか「平たき町」なのかは別として――意味は通じる。しかし「春の川おもしろさうに流れけり」は「おもしろさうに」の平仮名表記である。これは誰が見ても意図的だ。「春の川」というほのぼのとした季感を受けて平仮名になったとは言えないだろう。
馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ 第二句集『麥稈帽子』(H4・角川書店)
ものの芽を見しより二重瞼かな 第三句集『海鳴り星』(H12・花神社)
杏太郎俳句は〝流れ〟の中にある言葉を強く感じさせる。もちろんそれを実景を前提とした時間描写の写生俳句と捉えることはできる。しかしそれでは面白くない。杏太郎俳句の特徴を捉えたことにもならないだろう。「ものの芽を見しより二重瞼かな」は一種の述志の句として捉えていいと思う。現実を見ている(写生している)俳句であるのは確かだ。ただそれが杏太郎の精神のフィルターを通した二重映し(二重瞼)になっているから独特の表現が生まれる。
涼しさやむかしは水に影ありぬ 第四句集『海の岬』(H17・角川書店)
「涼しさやむかしは水に影ありぬ」は杏太郎の代表句の一つであり名句だと思う。「むかし」という平仮名表現が効いているのは言うまでもない。俳句は室町以降に盤石になった禅的精神風土の中で盤石の表現になっていったわけだが、それと対比されるのは平仮名表記の平安王朝和歌である。
評釈的に解釈してもこの句の意味(意義)はあまり明確にならない。「涼しさや」とあるからには水は流れているのだろう。せせらぎと言っていいと思う。ではせせらぎに影があるのかないのかと言えば、あるともないとも言える。水自体は透明だがせせらぎは川底に影を作るからだ。しかし句の表現は「むかしは水に影ありぬ」―「今は影がない」である。単純だが「むかし」の平仮名表記が失われた影を遠い遠い昔のものにしている。俳句による短歌表現の相対化である。この句の表現世界は日本の古い精神基層に届いていると言っていい。
よく知られているように杏太郎は「呟けば俳句」を提唱した。では俳句即人生になった俳人かと言えばそうではない。生涯句集は五冊で決して多作ではなかった。いっけん素直な俳句に見えるが必ず芯を外しているようなところがある。いわばスカした句が多い。ただその空振り――空を切るような俳句――が言葉では捉え難い〝空〟あるいは〝空気感〟を表現している。
素直に俳句を作り始めれば、現実世界を客観描写してモノを取合せ、それを季語中心にまとめるようになるのは自然の成り行きである。ただそんな俳句基本技法を駆使する前に作家がその精神のフィルターを表現の一段上に被せることがある。杏太郎の言葉の生み出し方には彼の精神のフィルターがかかっている。それを「呟き」と表現したわけだが真っ当に、素直に言葉を繰り出さないという意味でもある。
西へ行く道を歩いてゐれば雪 第五句集『風の吹くころ』(H21・ふらんす堂)
目が覚めてゐていつまでも桜の夜
「西へ行く道を歩いてゐれば雪」のように、杏太郎句には何かの途中であることを感じさせる句が多い。俳句の名句は芭蕉が日本各地に句碑を遺したように、決定打を感じさせるものがほとんどだ。多くの俳人もそういったドンピシャな決定打の俳句(名句)を詠もうとする。しかしそういった決定打を杏太郎は嫌う。
「目が覚めてゐていつまでも桜の夜」も評釈し難い句だ。一番正しい解釈はこの作家は目を閉じるつもりがない、ということだろう。醒めた目で、あるいは見開いた目で現実を見つめ続ければ世界は荒涼としたものに映るはずである。しかしそれが「桜の夜」と受けられる。比喩的な言い方になるが目を閉じずに現実を見つめ続ければ表現が幻視にまで到るということである。
杏太郎のような、句作の前に作家の精神フィルターを設ける方法が良いのか悪いのかは一概には言えない。それをやれば間違いなく句の数は減るだろう。多作が難しくなる。しかし折々の現実を摘まんで句を多作するよりも読者の印象に残る句を書き残せる可能性は上がるだろう。
岡野隆
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