樋口恭介さんの「BV-47」は昨今のコロナ禍に題材を取った近未来小説である。二十一世紀中頃から後半の設定のようだ。都市は自然とハイテク(高層ビルなども含めて)が融合された形で緻密に管理されている。しかし突如として「BV-47」と名づけられた病気が流行る。人間の肺の中に文字通り睡蓮に似た美しい花が咲くのだ。その花は呼吸を圧迫し人々は苦しむ。高熱に浮かされて幻想も見る。ほとんどが地球を俯瞰するような高い視点から美しい睡蓮でいっぱいの地上が見える幻想だ。
またこの病気はすぐに死につながる病ではない。宿主が死んでしまえば花が枯れるわけで、人間を生かさず殺さずといった苦しみの状態に置く。主人公は私だが、四歳の娘が病に倒れ次いで妻が倒れる。医者に連れて行っても治療法はない。しかし私は娘と妻を救いたい。私は自分の直観に従って行動し娘を富士の樹海に連れてゆく。娘は即座に苦しみから解放されて歩き出した。呼吸も苦しくないという。私は車に富士の樹海の土を積んで家に持ち帰りそれを床などに敷いた。ホームセンターで腐葉土などを買い込み家の中を植物で満たした。それにより――肺の中の花は消え去らないが――娘と妻は治癒した。私の家族は最初のBV-47発症者であり最初のBV-47治癒者になったというのが小説の梗概である。
森は生きている。
私たちはそこでたしかに息づいている。
文はそうして書き出されている。
当然ながら、これはフィクションではない。これは実際に私の身に起きた、ノンフィクションの文である。
ここに書かれた文のすべては事実であり、ここにあるできごとのすべては、ほとんどそのまま起きた。
もちろんすべてが幻であるという可能性も否めない。それでも私は多くのことを覚えている。私が忘れてしまっていることはほとんどない。
少なくとも、私が忘れてしまっていることについて、思い出せることはまったくない。
書かれた季節は夏であり、文の中では春から始まる。
春に降り始めた雪は、今なお降り止むことはない。
樋口恭介「BV-47」
「BV-47」の書き出しである。この小説は杓子定規に言えば「実際に私の身に起きた、ノンフィクションの文」ではない。コロナを題材としたフィクションである。なぜそれがノンフィクションなのかと言えば「すべてが幻であるという可能性も否めない」上に「私が忘れてしまっていることについて、思い出せることはまったくない」からである。
つまり作家は書かれた事柄、書かれた文字、書かれた小説だけが事実(ノンフィクション)だと捉えている。だから冒頭に「文はそうして書き出されている」という自己言及的記述が現れる。通常の意味でストーリーを追う小説――いわゆる大衆小説ではなく純文学だということだ。
ただし〝純文学とは何か?〟は定義しにくい。しかつめらしく深刻そうで、読んでもちっとも面白くない小説が純文学だという通念が蔓延しているが、もちろんそんな定義には納まらない。漱石や鷗外の秀作を読めば一目瞭然だが面白い小説でも純文学だと評価されている作品はいくらでもある。つまり純文学の定義は面白いか面白くないかに左右されない。
端的に言えば小説を純文学たらしめるのは作家の思想である。思想をコアとして登場人物が造形されそれに合った時空間が生み出される。純文学界で重視される文体はその表皮に過ぎない。思想・登場人物・時空間に応じた文体が選択されるだけのことだ。昨今の文体重視はむしろ危険だ。優れた純文学小説の外皮をなぞっているだけの作品を評価することになる。
思想・登場人物・時空間・文体の多重構造がしっかりしていれば小説は自ずから〝構造〟を持つことになる。後世から振り返って写実主義や自然主義など呼ばれることもある。たいていの優れた純文学は俗な現世を舞台にしており突拍子もない怪異も起こらない。にも関わらず「ああ面白かった」で本を閉じられず読み切れなかったというモヤモヤ感が残る。それは作品構造があるからである。小説の構造が書かれている内容以上の上位思想を喚起する。
逆に言えば作家の思想が明確ではない小説は純文学になりにくい。登場人物・時空間・文体を弄って純文学らしさを演出することになる。もちろんそんな試行が無駄であるわけではない。試行を重ねてコア(思想)が明確になればよい。文芸誌に前衛小説、実験小説が掲載される理由である。
私は学ぶ必要があった。私は、学ぶことで私たちの生活を守る必要があった。だから私は日々学んでいた。(中略)その頃にはもう、テレビを見る必要もインターネットで検索する必要もなかった。街を飛び交うドローンたちが、BV-47の最新情報を伝えて回っていた。(中略)世界中の多くの人々が、肺の中にできた、植物の芽や花に苦しみ始めていた。気づけば私たちは花粉に取り囲まれていた。(中略)それは、ぼんやりとした恐怖、幻影のような、幽霊のような、実在と非実存のあわいにある、曖昧な不安として、私たちに取り憑いていた。それは私たちの胸の奥深くに入り込み、私たちの認識すべて、私たちの思考のすべてをつかんで決して離そうとはしなかった。私たちは逃れることはできなかった。私たちは決してそれから逃れることはできなかった。どこにも、誰一人として。
私は検索する。私はブラウザからブラウザへ移動する。眼の外側で、そして内側で、情報は絶えず生み出されている。情報を生み出すプロセスそのものがまた、新たな情報を生み出している。私はそれらを追い続ける。追い続ける私を追い続ける。いままさに、ここでこのように、私ではない私がそうするように。
同
こういった箇所に作家の思想が表現されているだろう。私たち現代人は「曖昧な不安」に取り巻かれている。それは「花粉」のように現代社会を覆い飛び交っている。そして「私たちは決してそれから逃れること」ができない。では不安の正体はなんなのか。解消方法はあるのか。
それは決して捉えられない、得られないというのが作家の思想だ、「私」の存在は情報が交差する空虚な球体として認識されている。私は情報を追いかけそれを弁別し組み立てて一つの方向性を見出すのをやめてしまっている。「情報を生み出すプロセスそのものがまた、新たな情報を生み出」すのであり私という存在は情報に連動して更新される。「私はそれらを追い続ける。追い続ける私を追い続ける」。それは「私ではない私」の行為だ。
だから私が書いた文章が逆説的にノンフィクションになる。それがフィクションなのかノンフィクションなのかは本質的に問題ではない。すべての情報は等価であり世界を流通する。情報はどこかで必ずリアリティを持ち流通する。私の生み出した情報がその真偽を問わず私として流通する。私は私が発信した情報が世界を駆け巡ることによって私を漠然と認識する。人々を苦しめながらすぐに死なせてもくれないBV-47による肺の中の花は現代情報化社会の漠然とした不安の喩だと言っていいだろう。
もちろん富士の樹海の土で私の娘と妻が治癒するというプロットにも作家の思想が表現されている。しかしこの落とし所は弱いのではなかろうか。妄言多謝。
大篠夏彦
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