今号の「短歌研究」特集は水原紫苑 責任編集「女性が作る短歌研究」です。全292ページのうち特集ページが209ページを占めます。編集を特定作家に委ねるのは思い切った方針ですがとてもいいことです。女性歌人たちの歌と評論が並び男性歌人は黒瀬珂瀾さんだけかな。水原さんが登場しておられるのは「巻頭提言」と対談と新作短歌だけですが209ページすべて水原さんの作品・評論・対談でもよかったかなとも思います。
編集作業は水もので要は作家次第です。もちろん優れた作家が生まれるには湧き立つような社会状況がバックグラウンドに必要です。塚本や岡井が登場してきた時代の編集作業が楽だったのは間違いありません。そういった沸騰の時代に比べると現代は明らかに文学受難の時代です。編集者は優れた作家が出現するのを待っているほかないわけです。編集マジックと言われるものもなきにしもあらずですが駒が少なければ思い切った手は打てません。
文学不振の時代ですがそれでも各ジャンルにスター作家はいらっしゃるわけで水原さんはそのお一人です。水原さん責任編集というのは短歌あるいは文学を巡る水原さんの問題意識を多くの作家たちと共有しようという意図だと思います。この方向性には二つの選択肢があるわけで水原さんに共感・反発する主な作家を集めるという方針と自身でありとあらゆる問題点を明らかにするという方針です。前者は総花的で華やかにはなりますが拡散して問題点がぼやけやすい。後者はそれなら単行本でいいんじゃないかとなります。
どちらがいいとは一概に言えないわけですが雑誌は雑だから特定作家の編集号が成立したりもします。200ページ全部一人で埋めるのはどんな作家だって躊躇します。でも水原さんにはそういう力業の強行突破が似合っているかなとちょっと思ったわけです。
これは女性とジェンダーを中心とする短歌の特集号です。ジェンダーという概念自体いまだ流動的ですし、女性と男性という二元論では切れないグラデーションの世界だと私は考えています。そこでさまざまなジェンダーの作家に執筆や座談会の参加をお願いしました。
ジェンダーについて私が最も痛切に思うのはたとえばギリシャ詩人のサッフォーのことです。プラトンが十番目のムーサ、すなわち学問・芸術の女神と呼んだサッフォーですが、不幸にもその作品の全貌を今日知ることはできません。
そしてダンテが『神曲』の地獄篇で、ホメロスから先導者ウェルギリウスを含む五人の古代の詩人を挙げて、続く六番目が自分だと名乗った時、その五人はすべて男性で、そこにサッフォーの名はなかったのです。
単に女性による女性号という狭い意識ではなく、このように抑圧されて来た豊かなエクリチュールを取り戻すことがこれからのジェンダーと言葉の課題ではないでしょうか。
すでに多くの作家たちがそこに目覚めて言葉を発しています。この特集号がその歩みを進めるものであるように願っています。
水原紫苑「巻頭提言」
特集号の意図は「巻頭提言」に明確です。水原さんは女性文学が抑圧されており「このように抑圧されて来た豊かなエクリチュールを取り戻すことがこれからのジェンダーと言葉の課題ではないでしょうか」と書いておられます。
これについては言うことがありません。そうなさったらいいと思います。世の中まだまだ男社会で女性たちは抑圧されています。しかし見方を変えれば文学の世界に女性的な「豊かなエクリチュール」は満ちていますと思います。
文学書の読者は圧倒的に女性が多い。思春期の男の子の部屋と女の子の部屋をたくさん見ればわかります。男の子でも文学好きはいますがたいていは作家志望ですね。つまり社会的栄達のための文学という側面を男の子からは取り除きにくい。楽しみで文学を読むのは圧倒的に女性が多いですがその中から作家が生まれてきている気配です。もちろん例外をあげてゆけばきりがない。ジェンダー概念が多様なのと同じです。
男の子が理屈っぽく文壇詩壇といったヒエラルキー社会を作りたがるのは文学の理解能力が劣っているからだと思います。理屈で理解しなければ頭に入ってこないんですね。だから何もかも知りつくしたような偉そうな顔をしている。でも女性でそんな理屈を必要としている作家は少ないでしょう。男の子たちが悪戦苦闘している間にスルリと修羅場を抜けて読者と直接結びついてしまう。どちらが強いのかと言えば結局読者を抱えている作家ですね。
フランスと並んで日本は実質的に女性的エクリチュールの国だと思います。日本文学の絶対的基礎で短歌と物語が融合した金字塔は『源氏物語』で紫式部は女性でした。あんなに優れた小説は今に至るまで稀です。また『古今』「仮名序」「真名序」の杓子定規な頭でっかちと比べると『源氏』の〝文学的豊かさ=実〟は際立っています。『古今』中盤までの季別和歌は杓子定規が多い。最も優れているのは後半に追いやられた恋歌と雑歌ですね。歌人が男でも恋歌の中心は女性です。
僕は文学は本質的に女性性に立脚していると思います。つまり生物学的に女性の方が文学者として有利です。ただ生物学上の男に女性性がないわけではなく女性に男性性がないわけではない。男は内面に女性性を飼うべきで女性は内面に男性性を飼うべきです。またその発揮の仕方は作家それぞれに違っていていい。
たいした能力もないのに男が偉そーにしてんじゃねぇよという思いを抱くならそれをひっくり返せばよろしい。ただたいていの男性作家は女性フォビアですから強硬に迫られると「どうぞどうぞ」と席を明け渡して拍子抜けするかもしれません。仮想敵は自分の中にあるものです。現実世界で本当に手強く粘り強い敵が存在するとすればそれは理念ではなく利権を守りたい人たちだけでしょうね。そしてたいていの場合現実世界に根付いた利権を持っていてそれを守りたいのは組織です。でも組織のトップに成り代わって組織を潰すのは難しい。男性(性)思考が囚われやすい陥穽です。
馬場 (前略)もし短歌の本質を挙げるとすればそれは調べ以外ない。この「瞬間的にして総体的」だというのは、たとえば、寂しいとか、悲しいとか、ほのぼのとか、夢ばかりとか、そういうような言葉というのは手擦れしているけれども、同時にそれは一瞬にして総体であるんです。ここでまた強く説得されました。(中略)
当時、第二芸術論で短歌をなんとか改革しなきゃいけないとなった後に、高見順さんが「『小説は二流だ』と言って自殺した人がいる。だけど短歌は、二流とか三流とかいうそんなものから外れている。もしそんなにだめな短歌を日本文学史から引き算したら『源氏物語』は成立するのかどうか」、「実は古代から大動脈のように日本文学を縦に通ってきた道筋が短歌ではなかったか」というようなことを言ってくださった。それがすごく腑に落ちたんです。
対談 馬場あき子と水原紫苑「歌と芸」(司会=村上湛)
唐突ですが僕は馬場あき子さんを心から尊敬しています。馬場さんが塚本岡井その他短歌史上の綺羅星のような歌人たちに比肩するような歌を書き残しておられるかどうかはぜんぜん眼中にありません。この方の思想総体とでも呼ぶしかない存在格を全面的に支持し信頼しています。今年で94歲とご高齢ですがもし馬場さんがいなくなってしまったら短歌界は大きく変わってしまうんじゃないかと恐れています。水原さんがんばって。
馬場さんは「もし短歌の本質を挙げるとすればそれは調べ以外ない」とおっしゃっていますがこれは絶対的に正しい。また高見順の言葉を援用して「古代から大動脈のように日本文学を縦に通ってきた道筋が短歌」だというのも正しいです。短歌はすべての日本文学の母胎でありそれは明治維新で日本が中国から欧米に文化的規範を大転換した後も変わっていません。
ただ馬場さんは水原さんの「でも、能は男の役者が女を演じて芸を極める芸能じゃないです。その物すごい残酷さを女として感じませんか。私は女として怒りを覚えるんですよ」といった言葉を対談のテーマになったすれっからし〝芸〟でひらりひらりとかわしておられます。芸はすれっからしの域に達しなければ芸じゃありませんよね。
人間の世界はどこまでいっても抑圧と無縁ではありません。抑圧がなければ文学の主題はほとんどなくなってしまうと言ってもいいほどです。文学者のアポリアは社会活動家のように抑圧を取り除くのではなくそれを糧にして何を表現するのかです。馬場文学の場合は「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とふふふと笑って抑圧を換骨奪胎する方途のように思います。見方によっては真正面対立よりも手強い。
天皇の氣配あやしき水無月の草叢に立つ亡靈は誰そ
たまものはぶだうなりしをれもんとぞおもほゆるまで靑年を戀ふ
花の木に隣り合ひたる電柱のかなしみをもて荒野へゆかむ
日本語の滅ぶとも短歌滅ぶとも宇宙眩暈の色や紫
流れ星とよばれたること限りなき幸ひとして大氣圏に入る
可憐なる翼龍を知るはつなつや説かばさびしき韻律のこと
久々に船の汽笛聞こゆるは月の美しからぬ夜半なり
ハーモニカ今も吹くらむ子どもたち胸に迫れる光年の戀
時計ももたず過ぎゆく日日のしろき花しらほねならむ光り光る光れ
水原紫苑 作品五十首「片足立ちのたましひ」より
水原さんの短歌は構えが大きくて力強いですね。稀有の作家です。
高嶋秋穂
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