今号の巻頭は尾崎左永子さんの「生死雑感」です。
心といふものの透明度自づから客観しつつ老年となる
「いやンなるほど生きる」と易者に言はれしがまこと嫌ンなりつつまだ生きてゐる
尾崎左永子「生死雑感」
ここ数年ずっと尾崎さんは自らの死を予感した歌を詠んでおられます。ほとんどそれしか詠んでいないと言ってもいいくらいです。不謹慎のそしりを受けそうですが〝死にそうで死なない〟自己を詠っておられる。しかしそれは短歌のある本質に届いていると思います。短歌とは死にそうで死なない人間の表現かもしれません。
確実にわが到るべき死の刻を日ごと思へど実感のなし
同
こういった表現が短歌の本質を表しているのではないでしょうか。
昔、男、わずらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのうけふとは思はざりしを
『伊勢物語』第百二十五
業平物語とも呼ばれた『伊勢物語』第百二十五、最終段です。男は〝ああ死ぬんだな〟と思いますが〝人間はいつか死ぬとは聞いていたが昨日今日死ぬとは思わなかった〟と歌に詠みました。尾崎さんは『源氏物語』を始めとする古典に造詣が深いですがその技法ではなく本質的思想を的確に我が物としておられる。
日本の古典詩には短歌と俳句があり俳句は短歌から派生したわけですがその表現の質は大きく違います。俳句の不動の原点は芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」です。極論を言えば俳句はこの句から三百年以上まったく変わっていません。純客観風景描写という捉え方が主流ですがある不動の原点を抑えた表現です。そして俳句の場合この不動の原点は死の世界に近い。
これに対して短歌は徹底的に人間の生の世界に属します。短歌が私性の表現であるのは間違いありません。子規は客観短歌を提唱したと言われますが詳細に読めばそれは間違いです。彼は短歌の理屈を排除したのであり主観を排した純客観短歌が可能だと考えていたわけではない。短歌から人間の感情を排することはできないとも言っています。
この短歌の私性の表現は逆説的ですが自己を相対化すればするほど切実な表現になってゆくところがあります。短歌的絶唱と呼ばれるものはそういうものだと思います。尾崎さんの歌にはそんな自己の生の〝客観視〟が鮮やかに表現されています。
明けて行く丘の稜線こまやかに木々の梢は秩序を保つ
尾崎左永子「生死雑感」
感情を交えないいわゆる客観短歌ですが名歌だと思います。自己を徹底して客観視するということは自己よりも大いなる〝秩序〟を意識しそれに沿うことにほかなりません。それが矛盾と混乱にまみれた人間の生を統御する原理です。恋愛でも生活苦でも追い詰められた自己が持て余すほどの自我意識に押しつぶされそうになる極限でふと自己を客観視することがある。その際に歌を統御するのがこの秩序原理だと思います。
東京K病院
芽吹きまでまだまだ遠い目黒川沿ひに集へり わかれのために
家族四人+秘書まで従へて幸せだねと母は微笑む
新世紀最初の二月 小雪までちらつくなんて出来すぎでせう
父なきわれら兄弟ふたりにはとことん重い死の床でした。
小佐野彈「目黒川-銀河一族Ⅶ」
小佐野彈さんは最も注目すべき若手歌人のお一人です。この方は貴種です。様々な意味で。ただ小佐野さんの貴種である最大の所以は貴種であることを静かに受け入れまったく気負いがないところでしょうね。
小説家としても知られます。多くの若手歌人が短歌というより歌壇に視線が集中しているのに対して彼はそれを相対化できている気配がある。なぜそれが大事なのか。歌壇などくだらないからです。歌壇内出世などバカバカしくて反吐が出るほどくだらない。歌壇内を意識している限り優れた歌人にはなれません。
小説家としては今ひとつプロットの立て方に難がありフィクションなのか私小説なのか腰が定まらないところがありますが粘って書き続ければこの方が久しぶりに短歌の枠を超えて小説界でも活躍する可能性は大です。それが重要なのか? 重要です。思いきり短歌を相対化できるからです。残酷なまでに相対化できるからです。短歌を世界そのものだと考える感受性は貧しい。もっと言えば短歌に限らず詩の世界は本来的に貧しいものです。そんな絶望を抱えずにはしゃいでいる詩人は信用できない。
母はいま母にはあらず ひとり娘のチャコちゃんとして泣き崩れをり
まるで父のごとき顔して手を握り「しつかりせよ」と言ひくる男
家族つてなんなのだらう 斎場の隅に異物として父がゐる
同
祖父の死を詠んだ「目黒川-銀河一族Ⅶ」は短歌的写生です。淡々と祖父の死とその周囲の人々を描写してゆきます。口語ではなく文語体が使用されていますがそれは過去を決定的な風景――つまりは言語的像として捉えるためにあると言っていいでしょうね。過去の出来事を現在から振り返って感情の高みにまで仕上げる絶唱の意図はありません。その意味で小佐野さんの短歌はその修辞に関わらず口語短歌の骨格を持っています。
国際興業・帝国ホテル・日本バス協会合同葬
真四角になりたる祖父を幾千の黒いつむじが取り巻く真昼
二〇〇一年二月十八日午前零時三十分を忘れず
声もなく膝から崩れ落ちゆきし母の姿を永久に忘れず
同
短歌にとって諦念と絶望はとても大事な要素だと思います。歌人の年齢に関わらずいち早くそれを感受し我が物とした作家が口語か文語か関わらず優れた歌を書き残してゆくでしょうね。
残酷な言い方をすれば詩人は老いれば必ず詩という表現に絶望する。間違いなく詩は作家に絶望を強います。なんびともそれから逃れることができない。なぜならその絶望は社会全体が詩に課したものだからです。そんな絶望の淵で〝にもかからわらず〟詩の表現に挑んでゆける詩人は一握りしかいません。はしゃいでいればそんな絶望から遠ざかる。キリギリスのように歌壇内ではしゃいでいて絶望を意識しない歌人はいずれ書けなくなる書かなくなるということです。嫌になるほど詩の世界で繰り返されてきた残酷です。詩の世界は死屍累々と言っていい。
小佐野さんは小佐野家の一員という意味で貴種でありマジョリティのヘテロ社会から外れているという意味で貴種でもあります。それがこの作家に諦念と絶望を与えた気配があります。そうだとすれば文学者としてはむしろそれは寿ぐべき出来事です。
高嶋秋穂
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