今号には「俳句と短歌」の特集が組まれていて、坪内稔典さんが面白いエッセイ風評論を書いておられる。「最近、とっても面白い意見に出会った。詩歌では家が建たないよ、という石坂洋次郎の意見である」という書き出しである。
今ではあまり読まれていないようだが、石坂洋次郎は『青い山脈』などで一世を風靡した戦後の大流行作家である。坪内さんが引用なさっている『老いらくの記』には石坂は奥さんを亡くしたが三階建ての家に住み、家事は住み込みの若い女中と家政婦がしてくれているとあるそうだ。週に二、三回は長女がやってきて会計などの事務処理をしてお小遣いをくれる。それらの費用はすべて旧著の印税から出ている。悠々自適の老年である。
で、石坂さんで思い出すのは葛西善蔵との交流である。石坂は葛西と同郷で小説家志望だったので慶応大学に進学するとすぐに憧れの先輩作家・葛西を訪ねた。ところが葛西は傍若無人で、泥酔して確か「お前の金玉を握らせろ」などと石坂に迫ったようである。葛西が娘まで生ませた東京の愛人と大喧嘩して「お前なんか田舎から女房子どもを呼び寄せて追い出してやる」と啖呵を切って青森に帰った際には、長逗留していた旅館の代金を石坂に立て替えさせたりもしている。もちろん葛西がどうしようもない男であることは妻の実家にバレており、義母は「この男に娘を預けたら売り飛ばして呑んでしまう」と面罵したようだ。妻の実家にもいられずやむなく旅館に逗留することになったが金がない。当時青森から慶応大学に進学した石坂さんはボンボンだったんですな。
うっかり無頼派私小説作家に関わってしまった石坂さんは気の毒だが、どーも葛西さん、石坂のモダンボーイぶりというかハイカラぶりが気に入らず、面白半分にからかった節がある。風土特有の何かがあるのかどうか知らないが、青森の作家には一種独特の癖のようなものがある。乱暴な言い方をすれば田舎者なのに都会派を気取る。そのくせ土着性を手放そうとしない。寺山修司や太宰治を思い浮かべてもらうとなんとなくそのあたりの感覚が伝わるかもしれない。シティーボーイで大嘘つきで私小説作家で土着派という、普通は並列しないような資質を文学で表現したのが寺山や太宰である。
ただ石坂さんには土着性は薄く、その分、言いにくいが小説に深みがない。通り一辺倒の表層的美しさが安吾や泰淳らの混乱を極めた戦後文学を嫌う読者に大受けしたわけだ。それはそれで文学というか小説の役割なのだが、日本独自の小説は私の地獄を描く私小説だとしばしば言われる。それはまったくその通りで私小説という形態は外国文学には見当たらない。葛西は生活人としてはダメダメだったが誇り高い日本の私小説作家だった。先頃お亡くなりになった西村賢太さんは藤澤淸造文学をこよなく愛したが、極私的大正私小説作家のトップに立つのが葛西善蔵である。石坂文学よりも葛西文学の方が息が長いだろうことは間違いない。
石坂が流行作家として何不自由ない生活を送ることになったのに対して、葛西は赤貧洗うが如しだった。葛西は戦前の作家だが、戦後文学は戦前の抑圧から解放された社会全体のパワーで空前の好景気に沸いた。しかし小説家だからといって裕福になれたわけではない。もちろん今と比べればちょっとした大衆作家でも文筆で飯が食えた時代ではある。ただそれも過去の話ですなぁ。今では小説家も大変である。直木賞はまだしも芥川賞を受賞した純文学作家で文筆で生計を立てている作家は数えるほどしかいない。大学の先生になるかどこかの文学館の館長さんにおさまるくらいしか文学で生活できる道はないと言えるほどだ。朝日毎日読売の投稿欄選者となれば俳壇双六のアガリでなんとか短歌・俳句で飯が食える歌人・俳人とあまり変わらなくなっている。
坪内さんは鷗外・漱石という近代小説の二大作家――というか近・現代小説の基礎を作った作家の短歌・俳句についてお書きになっているわけだが、「鷗外は短歌を、漱石は俳句を出世間的な小天地として愛したのだ」という一文で文章を止めておられる。これもまたその通りなのだがバックグラウンドを探らなければ表層的な受け止め方で終わってしまう。
かく単に自活自営の立場に立つて見渡した世の中は悉く敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友もある意味に於て敵であるし、妻子もある意味に於て敵である。さう思ふ自分さへ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れても已め得ぬ戦ひを持続しながら、煢然として独り其間に老ゆるものは、見惨と評するより外に評しやうがない。
夏目漱石『思ひ出す事など』
松山から熊本の教師時代に漱石は俳句創作に熱中した。子規がまだ生きていて指導してくれたからでもあった。しかしイギリス留学中に子規が亡くなり『猫』で小説家デビューするとあまり俳句を書かなくなった。漱石が再び俳句、それに少年時代に熱中した漢詩に戻ってくるのは修善寺の大患中のことである。『思ひ出す事など』は修善寺の大患を漱石自らが綴ったエッセイだが、意識を取り戻してから十日後に布団に仰向けに寝たまま書いたのが「秋の江に打ち込む杭の響きかな」の句だったと回想している。平明な写生句で病室の外から杭を打つ音が聞こえたようだ。
漱石の現実認識というか、小説家としての人間の生の認識は苛烈である。「朋友もある意味に於て敵であるし、妻子もある意味に於て敵である」と身も蓋もないことを書いている。それだけでなく「さう思ふ自分さへ日に何度となく自分の敵になりつつある」と言い募る。漱石という作家の場合、これはほぼまじりけのない本音であり怠けがちな自分を叱咤激励して小説を量産し続けた。小説家としての漱石の実働期間はわずか十二年である。確かに漱石は漢詩や俳句を「出世間的な小天地として愛した」が、それが苛烈な現実からの、逃避では亡く超脱方法だったことを理解しないと意味を成さない。気軽な息抜きではなかった。
作家には抜き難くもって生まれた資質がある。小説家には小説家の資質があり歌人俳人にもそれぞれ資質があるということだ。漱石を筆頭として小説家の俳句は文人俳句と呼ばれるが、単に余技として俳句を詠んだ小説家と巧拙は別として、本業の小説に資する形で俳句を詠んだ作家とに分かれる。漱石や鷗外(短歌や自由詩[新体詩]が多いが)は後者のタイプである。詩と小説が底辺で繋がっている。
木蓮や死装束のととのはず
五月雨へ声放ちけり大烏
かにかくに朽つる卒塔婆や花卍
*
人の香の恋しき朝は雨ながらむづとつかみぬ野薊の棘
五月待つ闇の奥処を思ひつつ置く甕棺の湿りほどよき
そのかみの殯の宮をはすかひに白旗の烈わが夢の列
秦夕美
特集には俳人による俳句と短歌の実作も掲載されている。秦夕美さんの作品はさすがだ。この俳人の作品には突き放したような冷たさがある。しかし艶っぽい。ある光景が見えてくる句でもある。短歌は内面描写のようだが本質的には子規派張りの写生歌だ。遠くから死と死後の生を客観描写している。俳人としての骨格がしっかりしていないとこういった短歌は書けないでしょうね。
岡野隆
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