今号では特集「俳句評論って難しい?」が組まれている。書くのが難しいのか読むのが難しいのか判然としない特集だが、どちらでもまあ同じことである。俳句批評は難しいといえば難しいし、えらく簡単といえば簡単。皆さんそんなことはわかっておられますね。どんなに批評の言葉を費やしても、俳句は最終的に五七五に季語、それプラス切れ字の三位一体でで落ち着くなら俳句批評は結局のところ簡単だ。俳人はすべからく俳句を書くことに憑かれているので、それなら七面倒くさい批評を読むよりも俳句アンチョコ本を開く方がずっとタメになる。
じゃあなぜ五七五なのか、なぜ季語が不可欠なのかと問い始めると問題は一気に複雑になる。これは解決されたことのないアポリアだ。しかし俳句創作には関係のない問題で、むしろ日本文化の根底に直結した大問題である。芭蕉以来俳人は四百年に渡ってこのアポリアを放置してきたのだから、これからも手つかずのままでしょうな。またこの超難関のアポリアを解くのは俳人ではないと思いますよ。そしてこのアポリアが解かれた時、読者になるのは俳人ではなく日本文化に興味のある一般読者でしょうな。俳人は第二芸術論等々と同じように「それがどーした」でせっせと俳句を書き続けるだけだろうなぁ。
右の趣旨に合致する書を一つ例示するとすれば、山本健吉著『現代俳句』がある。この書の俳句評価は絶対的と言って良いほどの安定したものであるが、それは山本健吉氏が俳句に対する明確な定義を有しているからである。氏は俳句について多くの評論を書いていて、俳句には「切れ字と季題という二つの約束」があることを指摘し、そのあとに「誤解のないように言って置くと、十七音は約束ではなく俳句の前庭である」と断じている(「俳諧についての十八章」)。したがって、この定義に反するものは俳句ではないのだ。また。「新興俳句が俳壇の懶惰の夢を打破ったことは事実だが、彼等の意図したものは一つとして本来の俳句ではなかったのである」(「挨拶と滑稽」)というように、右の定義に反するものはすべて氏の概念から除外されている。
大輪靖宏「俳句における評論とは何か」
双六の振り出しに戻るといった感じの文章だが、大輪さんの俳句定義と批評に関するお考え――というか虚子のお墨付きをもらった山本健吉大先生の金科玉条が俳壇のマジョリティに支持されているのも確かなことである。しかしまあ、俳人は何をそんなに恐れているんだろうなぁ。山頭火や放哉は一般読者に広く愛されている。新興俳句、前衛俳句を愛しその影響を受けた若手俳人たちも多い。歌人・詩人で虚子系花鳥風月俳句よりも新興俳句や前衛俳句を愛する作家たちだって大勢いる。
五七五・季語・切れ字の約束を守っていない作品を「これは優れた俳句である」と支持する読者はたくさんいるわけだが、一方で俳壇マジョリティは「五七五に季語以外の俳句はあり得ない」という頑なな姿勢を崩さない。俳句は気軽に始められる文芸だが、一歩俳壇の中に入るともの凄く息苦しい。非常に特殊な村社会である。が、俳人たちはすぐにそれに慣れてしまい、俳壇が異様な風土であることに鈍感になる。
俳壇マジョリティは定型を破る俳句はすべて「俳句ではない」と排除するわけだが、うんざりするほどそれを言い続けなければならないのは、定型を破った俳句が現実に多くの支持を集めているからである。ならばなぜ定型外の俳句が支持を集めるのか、その理由を考えてみた方が生産的だと思うんだけどなぁ。少なくとも凝り固まった頭の体操にはなりますよ。
創作者にとって、批評は創作外の頭の全般的な体操だと考えなければ意味がない。結論ありきの批評では、どれだけ書いても何を書いても視野は広がらないでしょうな。結局は毎回同じことを書くことになる。
一天を押し上げてゆく雲雀かな
青青と由布も九重も更衣
渡り海士鯖ぶら下げて貰ひ風呂
地の声に耳傾けて秋耕す
春満月真綿のごとき児の寝息
春着着て蝶の如くに駈けだしぬ
初秋やうすむらさきの魚の口
吉岡乱水句集『白玉』より
今号には「ピックアップ 注目の句集」で吉岡乱水さんの新句集『白玉』が取り上げられている。俳句界さんの版元・文學の森出版の「イカロス選書」の一冊だから宣伝の意味もあるのだろう。しかし面白かった。岩田中正さんが「吉岡乱水句集『白玉』鑑賞 愚直に生きる」という丁寧な評論を書いておられる。引用は岩田さんが『白玉』の中から「健康な詩情」というくくりで抜粋なさった句の一部である。
俳句は短い表現だから、即座に結果が出ると言えば出る。良い俳句なのか普通の俳句なのかは一読しただけでわかるものだ。それを評釈でこねくり回しているうちに、なんとなく良い俳句に思えてくるのはよくあることである。あまりいいことではない。
ただ俳句で秀句・名句を書こうとすると的外れになってしまうことが多いのも確か。俳人はなんとなく気づいているだろうが、俳句という表現は作家の意志的な努力をあっさり袖にしてしまうようなところがある。うんうん唸って良い句が出来るなら世話ないという表現なのだ。むしろ何気なく詠んだ句が秀句・名句になることがある。その点、写生を推奨した子規・虚子は正しい。最初に自我意識で風景(花鳥風月)をねじ曲げるというか、内面化してしまうと後々その癖が悪い方向に俳人を向かわせかねない。
吉岡さんの俳句は素直だ。ああ、けれんみのない俳句だとスッと読めてしまう。島原の生まれで今もお住まいのようだが「渡り海士鯖ぶら下げて貰ひ風呂」などは子供の頃に見た実景なのだろう。
防空壕に学びし日あり終戦日
柿剥きて戦死の夫の話など
ラムネ飲みではと別れて征きしまま
*
絵を踏まず獄門帳に名の遺る
殉教も一揆もありて島おぼろ
古寺涼し身に発心のごときもの
*
白玉や名水豊かなる城下
白玉や故郷は水の清き街
同
岩田さんの『白玉』論から「戦争を詠む」「キリシタン信仰と原爆を詠む」「おわりに―この地に生きる覚悟」に分類された句から抜粋させていただいた。
句誌では毎号多くの俳人たちが数句から数十句を発表している。それはそれで意味のあることだが、俳人が今何に興味があり、どういった俳句を詠もうとしているのかは句集という形にならないとわかりにくい。それは新人賞などを受賞した俳人にも言えることで、三十句、五十句をまとめるのと句集を出すのでは表現のレベルが違う。句集になれば自ずと俳人の資質、表現欲求などが露わにわかる。数十句ならまとまっているのに句集になると魅力が褪せることだってある。また生涯一句でそれが名句ともてはやされるようになった俳人は存在しない。俳句文学の現在と未来に対して責任を負う覚悟を定めた作家しか俳人になれないしその作品が高く評価されることもない。
吉岡さんの『白玉』は岩田さんの抜粋を読んだだけだが、その主題、表現手法が手に取るようにわかる。輪郭のはっきりした句集だということだ。商業句誌では初心者向けテニオハ論が多くのページを埋めやすいが、優れた俳人の全貌がわかり、あるいは一冊の句集にフォーカスを当てた批評の方が初心者にとっても参考になるのではなかろうか。
岡野隆
■ コンテンツ関連の本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■