川上弘美さんも流行作家のお一人だが、群像には短編小説を定期的に発表しておられる。読み切りだが同じ主人公を設定した連作である。川上さんも小川洋子さんや江國香織さんらと並んで女性読者に絶大な人気を誇る作家である。実に安定した作風だ。
俺さ、と、カズは始めた。俺さ、またふられたんですよ。
言っている内容はしょぼくれているのに、くちぶりがいやに颯爽としていた。本人の様子も、なかなかの男ぶりである。
カズとは、その二年ほど前、つまり平成十五年に、代々木上原の駅のホームでばったり再会したのだ。カズとよく遊んだのは、わたしが幼稚園の時である。だから、互いに成長した姿で出会っても本来ならば互いのことをわかろうはずもないのだが、カズは少し名の知れた作詞家となり、顔写真を見る機会があったので、わたしの方から声をかけたのだ。
「あらま、何年ぶり? 三十年ぶりとか?」
とカズは早口で言った。三十年じゃなくて、四十年。サバ読んじゃだめだよ。わたしが答えると、カズは笑った。笑い顔が、幼稚園の時と同じだった。
川上弘美「あれから今まで一回もマニキュアをしたことがない」
短編連作の主人公は「私(八色)」である。フィクション化されているだろうが、川上さんの実生活に取材した連作だ。幼稚園時代からの付き合いの友人たちが登場するが、それは私が幼い頃アメリカにいたせいである。わたしはもう五十歳近いから今よりもずっと日本人が少なかった一九六〇年代のことである。異国の日本人コミュニティにいた少年少女の繋がりは強かったということだ。それが作品にドメスティック日本小説とは異なる風合いを与えている。エッセイのような小説だ。もちろんエッセイにはない複雑さが行間に込められている。
「元夫とは、なぜ離婚したの」
カズが聞くので、
「たぶんカズちゃまが離婚したのと同じ理由だよ」
と答えた。カズちゃま、という呼び方をすると嫌がるので、わたしは都合が悪くなるとそれ以降も「カズちゃま」を頻用した。
「性格の不一致?」
「そう、性格の不一致」
二人して、笑った。ひとくちに説明などできるわけのない離婚の理由、などということについて訊ねるからには、すでにカズはかなり酔っぱらっているに違いなかった。案の定カズはその夜わたしをホテルに誘った。行くわけないじゃん、カズちゃまなんかと。一蹴すると、抱きついてきた。せっかくのいい男なのに、こんなふうだから、きっとふられるのだ。
「こういう口説きかたで、カズのことを好きになってくれる女がいるの?」
聞くと、カズは目をしょぼしょぼさせ、
「たまに、いる」
と答えた。それから、
「ま、長続きしないけど」
と言い、
「俺、結婚したいのよ。一人で家に帰るのがいやなんだ」
と、真顔になってつぶやき、タクシーをとめて、ぞぞぞ、という感じに座席になだれこんで、帰っていった。
同
ああ上手いなぁと言いたくなる記述だ。小説は絶対的に俗なものでなくてはならない。でないと読者は興味を持って読み続けてくれない。私は一度、カズは二度の離婚経験のある五十代の男女だ。枯れ切っているわけではなく若さを持て余しているわけでもない。恋愛、結婚を一周してそれを相対化しながら実行もできる年齢である。カズはストレートに私をホテルに誘うがどこまで本気なのだろうという感じだ。ただこんな色気は小説には必須である。
「ぞぞぞ、という感じに座席になだれこんで、帰っていった」というのは川上さんならではの表現だ。こういった表現はドロドロとした恋愛モノは書きたくないが、かといって孤独で淡泊な女の小説もイヤだという若い女性作家にかなりの影響を与えている。金井美恵子さんの『愛の生活』の記述というかエクリチュールがその後の女性作家たちに絶大な影響を与えたのに似ている。また女は自分を持っており男にはないことが示唆される。カズが私を誘ったのは「一人で家に帰るのがいや」という理由だけだ。自分でそう言ってしまうところにカズという男の希薄な育ちの良さが表れている。セックスはするかもしれないがそれが目的ではない。
カズの父親は商社勤務だったがアメリカ赴任の際も息子に日本語を英才教育を施し、フランスに転勤になるとフランス語も叩き込んだ。カズはフランスの高校を二年飛び級してフランスの大学受験資格を得て、日本に帰ってくると要領よく東大に合格した。学生時代は遊びまくったのだという。就職はせず友人たちと貿易会社を起こして一時は羽振りが良かったが倒産してしまい、ツテを頼って作詞家になってそこそこの収入を得ている。
優秀なのにまームダの多い人生だねと言いたくなるが、それが「カズちゃま」の人生である。こういった才能を湯水のように浪費してしまう坊ちゃんが東京にはかなりいる。恬淡としているのはなにをやっても生きていけるからだ。だからガツガツしていない。周りから見ればもったいないような人生だが本人は気にもとめていない。本物のお坊ちゃまである。
もちろん、才能も感受性も豊かだがどこか焦点が合っていないカズという実に魅力的な(小説的にですが)男を小説家が手放すわけがない。カズはその後も川上さんの短編連作にサブ主人公のように登場することになる。ただしスリップ的にである。スリップ的にスッと物語に戻ってくるからかえって印象深くなる。
「カズって、いい?」
次にアンに会った時に聞いてみた。
「いい?」
聞き返された。
「メールしあったり、二人で会ったり、いろいろ感情を表出しあったり、してるんじゃないの?」
「してない」
というのが、アンのそっけない答えだった。(中略)
下北沢でばったり会ってふたたび三人で飲んだ時、カズはアンの番号とアドレスを聞き出していた。食事に誘われたけど予定があわなかったのだとアンは言った。
「予定があわなきゃ、次の予定を検討すればいいのに」
わたしが言うと、アンはため息をついた。
「六十近くになると、たしかに夢見がちになるけど、同時に承認欲求も妙に強くなって素直じゃなくなるから、なかなか次の予定検討にいくのがむずかしいのよ」
「承認欲求・・・・・・あなたたちもやっぱり中学生だったのか」
「中学生と違うところは、夢見てることとか承認されたいことが、ほんとうのところはどっちでもいいことだって、心の底では知っていること、かな」
「何それ、突然の冷や水?」
「でも、その建前と本音みたいなところを、おれたちも楽しむ余裕があるんだぜ、っていう姿勢をとることができるが、あたしたちの年齢の強みよ」
「結局、中学生が少し複雑になっただけか・・・・・・」
アメリカにも「中二病」のような概念はあるのかと、わたしはアンに聞いてみた。あるけど、そこまで具体的な言葉にはなってないかな。それに、アメリカの中二病は、日本の中二病よりも、外向きかな。アンは答え、肩をすくめた。
同
人は実際の年齢ほど老いてゆかないことが鮮やかに描きだされる。「結局、中学生が少し複雑になっただけか」というのは小説ならではの人間認識だ。またアンも私の子供時代からの友人である。アンは日本とアメリカを行き来する生活を続けていたが、しばらく前から東京にマンションを買って定住するようになった。その間に時間が流れ、私たちは六十歳近くになっている。
小説はカズを媒介にしてズルリとアンの方に動く。夢見がちで他者や社会からの承認欲求も相変わらず持っているが、「ほんとうのところはどっちでもいいことだって、心の底では知っている」と言うアンは成熟した大人だ。老いた母親の面倒も見ていてアメリカに娘と孫もいる。アンも自分自身の思想を持って一人で立っている。それによってカズの浮ついた空虚が一段と露わになる。ただしカズの空虚は女たちにないものだ。女たちだけでは小説は魅力的にならない。
こういうズルリと横滑りするようなアメーバー的小説は日本文学ならではのものだろう。古井由吉が修辞の限りを尽くして美文化しようとした小説のエッセンスがいとも簡単に表現されている。小説ではないが鷗外晩年の史伝のエクリチュールにも近い。その根を古典にまで遡ることができるエッセイズム小説は強い。男と女の修羅モノを得意とした作家は性別男だろうと女だろうと晩年になると小説が書けなくなることが多い。しかし川上さんには無縁だろう。若くあることも年老いることもできる。エッセイズム小説の醍醐味である。
大篠夏彦
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