今月から新潮の時評を始めます。きりのいいところで二〇二一年一月号から。まあ当月号ぴったりに時評を掲載してゆくには時間がかかるでしょうが、小説について考える時評ということで勘弁していただきたい。文壇的要素も入り混じることもあるが、それはあくまで二次的要素。この時評は小説批評がメインです。
で、新潮は古色蒼然としておりますなぁ。カラーグラビアなし編集部による特集なしで、新年号ということもあって小説がズラリと並んでいる。二十年前、三十年前の誌面構成とほとんど変わらない。それが悪いことなのかというとそうではない。むしろ好感が持てる。当たり前だが編集部が前面に立って特集ページを増やしたって小説(純文学)の世界は上向きゃしない。「低調かもねぇ」と思っても、そこをグッとこらえて小説を掲載してゆくしか活路はない。その意味で新潮は純文学小説誌の王道を行っている。
自分に近い趣味趣向を持つ蓮二に出会った時、私がほとんど反射的に彼を好きになってしまったのは、そんな元彼と付き合っていたからというのもあったかもしれない。映画や本の趣味も、激辛料理好きというところも一致していて、(中略)去年の夏激辛グルメフェスが開催された時はラウンドが変わって店が入れ替わるたび食べに行き、毎週肛門が焼けるような思いをした。
辛さを感じているのは味覚ではなく痛覚だという。味ではなく痛み、刺激を私たちは辛みと感じるのだ。(中略)私たちは涙目でなぜ辛みはある一定レベルを超すと苦味に変化するのかと話していた。(中略)激辛カレーの対抗策として買ったレモンサワーの氷を噛み砕きつつ私たちはそんな話をして、何とかかんとか完食するとそのまま歌舞伎町のラブホテルに入った。
(金原ひとみ「テクノブレイク」)
金原ひとみさんの「テクノブレイク」の主人公はOLの芽依。学生時代に明るく前向きで素直な性格な、芽依の言葉を使うと「妖怪ポジティバー」の遼と付き合っていたが、就職してしばらくして別れた。芽依は外交的な性格ではない。むしろ「コミュニケーション能力の低い陰キャラ」だという自覚がある。遼とは二年付き合ったが別れの痛手は感じていない。二年間は自分と遼との違いを確認するための時間だった。
そんな芽依が出会ったのが蓮二である。映画や本の趣味が合い、なにより激辛好きでセックスの相性が最高だった。もちろん小説なので理想の彼に出会えてメデタシメデタシにはならない。小説の主題は「味ではなく痛み、刺激を私たちは辛みと感じる」という記述にある。
「そうだよね。乖離や虚飾が認められなくなった人間がどうなるかって考えると、ただ無思考に食べて寝て交尾するだけの生き物になるんじゃないかな。(後略)」
「私は蓮二といる時に動物でありたいって思う。動物みたいに交尾がしたい」
「動物は気持ちよさの限界を目指したりしないよ」
「じゃあ、性に貪欲な動物になりたい」
それが人間なんじゃない? 蓮二は真面目な表情を崩してそう言うと、私を抱きしめた。最近蓮二と別れたあと、セックスの余韻が残ってて、よくオナニーするんだ。俺のこと考えてるの? AVも見るけど、蓮二のことも思い出すよ。(中略)じゃあ、オナニー用に撮影する?(中略)スマホを片手に結合部を映しながらピストンする蓮二を見ながら、「2001年宇宙の旅」でモノリスに触れた猿の姿を思い出した。私たちはモノリスに触れて進化したのだろうか、退化したのだろうか。
(同)
芽依は元彼の遼に勧められるままスマホにゼンリーというアプリをインストールしていた。インストールした人たちはGPSでお互いの現在地を確認できる。芽依と遼が信頼し合っていたことがわかる。芽依は今彼の蓮二にもゼンリーをインストールしないかと誘う。蓮二はあっさり承諾した。芽依は浮気などを心配する必要のない男と付き合っている。
確かに元彼の遼と比べて今彼の蓮二とのセックスは激しく卑猥だが、恋人同士のハメ撮りゴッコは今ではそれほど珍しくあるまい。また二人のセックスは蓮二のスマホではなく芽依のスマホで撮ることにする。そうすれば男の方が心変わりしても彼女とのセックス画像をネットにばらまく可能性は低くなる。芽依と蓮二はそれほど危うい遊びをしているわけではない。
ただ蓮二はピロートークでスマホなどでお互いを監視できる社会が進んだら、人間は「ただ無思考に食べて寝て交尾するだけの生き物になるんじゃないかな」と言う。芽依は動物でいい、だだし「性に貪欲な動物になりたい」と言う。
セックスが別の何かにすり替わり始めている。芽依は「私たちはモノリスに触れて進化したのだろうか、退化したのだろうか」と考える。もちろん進化も退化もありはしない。セックスは常同性であり、ほとんどの人は同じことを繰り返している。それが変化し進化する要因はセックスの中にはない。芽依は基本的には極端な方向に進まなければならないのだから。
「芽依の過剰な恐怖の言葉を聞くたびに、人間は弱い生き物だって痛感する。俺はそういうメンタリティで生きていたくないんだ。ある種の全能感を大切にして生きていきたい。芽依と付き合うことは、その全能感を強化することだった。一緒に辛いものを食べて汗だくになって全力でセックスしていると、自分たちが世界を凌駕するような存在だっていう気がした。でも今芽依と一緒にいると、自分が無力でみすぼらしい存在に感じられる」
「子どもの頃、母親が心臓に悪いって言うから、吸入器がすごく怖かった。吸わなくても死ぬかもしれないし、吸っても死ぬかもしれない。だから吸入器を使うことも、使わないことも、私にとっては緩やかな自殺だった。もちろん生きること自体が死に向かうことではあるよ。でも私はあの時自分が瀕していた恐怖にもう身を窶したくない。ひたひたと死が迫ってくるんじゃない、ひたひたと死に向かっていく自分が怖いの。できる防御をしないのは、死に向かっていくことと同じだよ」(中略)
「何にせよ、俺たちは身体的に依存しすぎたんじゃないかな」
そう語る蓮二には、性欲が微塵も見えない。性欲が見えない蓮二は別人みたいだ。
(同)
芽依と蓮二の関係を変化させるのは、新しい恋人の出現などではなくコロナである。芽依はコロナを心底恐れる。子どもの頃に小児喘息を患った恐怖からでもあった。ただ蓮二は芽依ほどコロナを気にしない。芽依はマスクや手洗いを徹底しない蓮二を恐れ、時には憎むようにすらなる。外から帰ってきてシャワーも浴びずにセックスしようとする蓮二を拒む。しかし相変わらず蓮二が恋人であり彼とセックスしたいという欲望を抱いている。
セックス、ハメ撮り動画という基本的には男の欲望に沿った小道具(セックス描写がどんなに過激でも小説では小道具に過ぎない)を使いながら、コロナ恐怖症を境に芽依と蓮二の立場は逆転する。蓮二は芽依と付き合うことは「全能感を強化することだった」と言う。ある意味ロミオとジュリエットのように、外部を遮断した二人きりの世界に閉じることで性の快楽を含めた全能感を求めていた。それを愛と呼ぶかどうかは別として、セックスの前提に精神的結びつきを求めているのは蓮二の方である。実際芽依は「性欲が見えない蓮二は別人みたいだ」と思う。
それに対して芽依が求めているものはセックスである。芽依もまた精神的愛を口にするが蓮二よりも曖昧だ。小説は社会的クリシェとして動物的にセックスを求める男と精神的愛なしにはセックスに積極的になれない女の立場を逆転させたわけだが、それが効果的に、スキャンダラスに機能しているとは言えない。
「お願い、私は蓮二がいないと駄目なの。本当に生きてる価値のない人間だよ。蓮二しかいない。蓮二がいなきゃ、蓮二とのセックスがなきゃ、仕事も無駄、、生活も無駄、私自身も無駄。全部蓮二とのセックスがあったから意味があった」
「俺がいなきゃ価値がないなら、俺がいたとしても価値はないし、俺がいないと駄目なら、俺がいたって駄目だよ。芽依は自分の存在価値を信じられないから、俺とか俺とのセックスに依存してその辺を有耶無耶にしてるだけだよ。動画の件、本当に頼んだよ。ちゃんと削除して。削除して落ち着いたら、話し合おう。次は外で」
踵を返して玄関に向かうその蓮二の背中が、緊張しているのが分かった。私に背後から刺される心配をしているのかもしれない。(中略)私はいつまで経っても、ダサくてしょぼい思考の奴隷なのだろうか。洗ってカゴに置いてある、さっきゴキブリを潰したフライパンを、再び振りかぶって蓮二の頭に振り下ろす自分が〝カウンターアタック オブ コックローチ〟というテロップと共に頭に浮かぶ。
(同)
蓮二が距離を置こうと言って家に寄りつかなくなってから、芽依は彼とのセックス動画を見ながら毎日のようにオナニーに耽っている。しかしセックス依存症ではない。芽依は蓮二とのセックス以外は望んでいない。
ただようやく家を訪ねて来てくれた蓮二とセックスしようとした時に、芽依が自分のスマホで彼とのセックスを隠し撮りしようとしていたことがバレてしまう。蓮二は怒る。「蓮二の怒りはもっともだ。私だってセックスを勝手に撮られたりしたら、怒るどころではすまない。どんなに好きな相手だったとしても警察に行くことを考えるだろう」とある。蓮二は別れを切り出す。「動画の件、本当に頼んだよ。ちゃんと削除して」と芽依に言う。蓮二は夢から覚めたように社会的コードに沿った常識人になり、芽依はその壁を打ち破れない。
芽依の蓮二限定のセックス依存の底にあるのは絶望による依存である。蓮二が指摘した通りだ。ただその絶望がこの小説で突き詰められているわけではない。コロナという時事ネタを織り込んでいるが、それが有効に機能しているとも言えない。芽依の自己中心的な絶望とそこからの逃避はコロナがなくてもいずれ露わになる。
金原ひとみという作家は、現世の濁った世界を前提に、濁った男女関係の中で一瞬生じる純情を不意打ちのように表現するのを得意とする。ただしその純情は世間一般の純な感情ではなく、むしろ禍々しいほど反社会的で本質的に風紀紊乱的なものだ。その奇妙だが高い説得力を持つカタルシスはこの作家独自のものである。しかしこの小説で主人公は、社会常識に立ち戻った蓮二の殻さえ打ち破れない。辛さが痛みにまで達してない。さまざまな不純物を排除して絶望を突き詰めるしかないのではあるまいか。言いにくいが絶望が足りないように思う。
大篠夏彦
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