今号に川名大さんが「いわゆる〈社会性俳句・前衛俳句〉―明確な概念規定が前提―」を書いておられる。十八枚ほどの小論だがおっしゃっていることはよくわかる。
平成時代に入り、ホビー俳句が流行し、俳句の大衆化が加速する状況下で、俳壇や俳人たちの関心がもっぱら目の前の現在の現象へと向かいがちになり、昭和俳句史への関心が薄らぐようになった。そのため、戦後俳句をリアルタイムで体験していない戦後生まれの俳人たちの戦後俳句に触れた文章を初めとして、内容や年代に関する客観的事実にも誤った認識がしばしば見られるようになった。
川名大「いわゆる〈社会性俳句・前衛俳句〉―明確な概念規定が前提―」
「いわゆる〈社会性俳句・前衛俳句〉―明確な概念規定が前提―」の「はじめに」で、川名さんは戦後俳句の「年代に関する客観的事実にも誤った認識がしばしば見られるようになった」と書いておられる。原因は「平成時代に入り、ホビー俳句が流行し、俳句の大衆化が加速する状況下で、俳壇や俳人たちの関心がもっぱら目の前の現在の現象へと向かいがち」になったからである。
川名さんの指摘はまったくその通りだ。一九五〇年代から七〇年代、弱まったが八〇年代初頭までの俳壇は活気があった。それは当時の雑誌などを読めば一目瞭然である。実作で様々な新たな試みが行われていたのはもちろん、俳句議論も盛んで意義あるものだった。変わってきたのは九〇年代くらいからだ。
俳句の盤石の底流が五七五に季語のいわゆる伝統俳句にあるのは江戸時代から今に至るまで変わらない。が、いわば広義の俳句前衛試行が霧散して伝統俳句だけが俳句とみなされるようになってしまった。句誌は評論とは名ばかりのトリビアルなテニオハ指導で埋め尽くされ、俳人たちは〝俳句とはなにか〟を考えることなく、ひたすら歳時記を開いてとにかく句を書くのに没頭するようになった。「俳句のオリジナリティ」といった言葉も句誌に頻出するようになっているが、〝俳句とはなにか〟を考えればそんな呑気はことが言えるはずがない。俳句で作者のオリジナリティをハッキリ打ち出すのは至難の業だ。ぬるい風土に浸りきっているからぬるい俳人たちをぬか喜びさせるぬるい言説が流布する。
今回の小論で川名さんが訂正しておられるのは大きく二点。一点は筑紫磐井さんの「『前衛俳句』は虚子の没後誕生したものであるのでその評価を聞くことができない」である。川名さんは虚子死去(昭和三十四年[一九五九年])以前にすでに前衛俳句運動は始まっており、それに対して虚子が否定的評価を下しているのを論証しておられる。昭和二十九年(一九五四年)に角川俳句が「俳句と社会性の吟味」を特集して社会性俳句が知られるようになっているので虚子はじゅうぶん前衛俳句時代に間に合っている。「ホトトギス」に毎号何か書かなければならなず、碧梧桐新傾向俳句はもちろん一碧楼や井泉水の自由律俳句にも否定的だった虚子が前衛俳句に言及しないはずがない。
ただ筑紫磐井さんは真面目な批評家なので、虚子を巡る事実誤認はいわゆる勇み足のようなものだろう。川名さんは前衛俳句の流れは俳句史の中にいくつもあるが、戦後に限定すれば前衛俳句は「時空を限定されたもの」であり、おおむね「昭和三十一年(一九五六年)~昭和四十年(一九六五年)のスパン」になると書いておられる。
もう一つは長谷川櫂さんの「社会性俳句と前衛俳句に関する言説」の事実誤認である。「長谷川はこの両者について当時の言説(理論)や実作やスパンを自ら検証して両者の概念(実体と方法)規定とスパンを厳密に抑えることをしないまま、(中略)次々と多くの事実誤認を犯すことになった」と指摘しておられる。
いわゆる「社会性俳句」は主に「風」や「寒雷」や「萬緑」などに所属していたいわゆる「戦後派俳人」(当時の三十代作家)を中心に推進されたもので、日米平和条約発効(昭27・4)後も日米安保保障条約により日本各地に米軍基地や演習場が置かれて米軍が駐留したり(条約に基づく間接占領の継続)、ビキニ環礁での米軍の水爆実験で第五福竜丸が被災したりする(昭29・3)政治的・軍事的な時代状況により米国の属国化への反発、反米感情が高まり、主としてそれをモチーフとして、リアリズムの方法で表現するものであった。おおよそ昭和二十八年から三十年までのスパン。
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他方、いわゆる「前衛俳句」は、当時、日本銀行神戸支店(のち長崎支店)に勤務していた金子兜太を初め、「夜盗派」(のち「縄」)「十七音詩」「坂」(のち「渦」)など関西の同人誌に所属していたいわゆる「戦後派俳人」たちを中心に積極、果敢に推進されたもの。科学技術の発達する都市社会に生きる人々の、組織と個人との軋轢、連帯と疎外、ストレスや不安や孤独などを主たるモチーフとして、それらを主として暗喩とイメージを多用して表現しようとした。おおよそのスパンは昭和三十一、二年からの約十年間。
同
川名さんは歯切れ良く「社会性俳句」と「前衛俳句」を定義して長谷川さんの事実誤認を指摘なさっている。その詳細は実際に論を読んで確かめていただきたい。ただ長谷川さんの恣意的読解は「社会性俳句と前衛俳句に関する言説」に留まらない。
例えば長谷川さんの『新しい一茶』は無茶苦茶だ。江戸俳句に関する基本的な知識が欠如している。「当時の言説(理論)や実作やスパンを自ら検証して両者の概念(実体と方法)規定とスパンを厳密に抑えることをしないまま、(中略)次々と多くの事実誤認を犯すことになった」のは長谷川さんのほかの評論でも見られる。
言いたかないが長谷川さんは結社「古志」前代表で俳壇の大物だ。しかしそれでいいんかいと言いたくなる。はっきり言えば頭が悪い。俳壇は押しが強ければ重鎮になれる場所なのかね。
憎まれ口を叩いてしまったが、長谷川さんがどう考えても無茶な俳論を書いているのに誰も批判しないのは俳人たちが彼の俳壇的権威を恐れているからではなく、実際のところ「古志」同人以外の俳人たちが長谷川さんの仕事に無関心だからではないか。俳壇内出世街道を駆け上ってゆく俳人の中には本当にこのお方でいいんかい?と言いたくなる俳人がほかにもいるが、皆興味がないからふーんで済んでいる気配である。
俳壇内出世を目指す俳人はそれで手一杯、新たな俳句を模索する俳人はそれで手一杯、伝統俳句を俳句だと金科玉条のように考えている俳人は毎日一句でも俳句を詠むこと以外に興味がない。川名さんが論の冒頭で書いておられる「平成時代に入り、ホビー俳句が流行し、俳句の大衆化が加速する状況下で、俳壇や俳人たちの関心がもっぱら目の前の現在の現象へと向かいがちにな」っている弊害は、こういった所に最も端的に表れている。俳人たちは分断されていて、お互いの仕事に実は興味がないんだろうな。俳壇で偉くなっても、それは偉くなろうとした涙ぐましい業界内努力の成果で別に実力主義じゃない。俳壇は信用できない。戦後俳句史がいい加減に語られるようになっても仕方がない風土になっているんだろうね。
岡野隆
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