十二月号は鴻池留衣さんの「わがままロマンサー」が巻頭だ。この作品もLGBTっぽい主題が援用されているが、本質的にはほぼ関係ない。腐女子とか腐男子と呼ばれる人たちを主要登場人物にしている。腐女子は基本的にボーイズラブ(BL)を好む女性を指すがレズビアンではなくヘテロである。腐男子の定義は腐女子より曖昧で、BL好き、レズ好き、あるいはBL好きの腐女子が好きな男という説もある。いずれにせよ腐女子や腐男子は基本ヘテロでありその性的趣味は観念に属する。
「なんでボクは男の子に生まれてこなかったんだろう。女なんて嫌だよ。ばっちいもん。臭いもん。うんこの臭いを香水でごまかした感じ、それが女」
女として生まれて、女同士でまとめられて扱われてきたのが、妻にとっては耐え難い苦痛であったのはわかる。私だってもし女に生まれていたら、そして妻と同じような境遇に育ったら、女たちの社会の中で女らしさを強制されることに反発していただろう。妻はずっと、BLに限らず、あらゆる趣味や美意識を周囲から否定されて生きてきた。そういう抑圧もまた、彼女の創作の原動力であることに違いない。私も似たようなタイプの人間だからこそ、彼女に心底同情して、BLの趣味を持つことそれ自体は、一度も否定したことがない。
鴻池留衣「わがままロマンサー」
鴻池留衣さんの「わがままロマンサー」の主人公は溜池鷗二という小説家である。「年に一作、文芸誌に四百枚詰め原稿用紙で二百枚くらいの小説を発表して、百万に満たない原稿料を頂戴するのがせいぜいの純文学の小説家だ」とある。春霧オトメというボーイズラブ漫画家と結婚しているが妻の方は売れっ子で「都内の中くらいの大きさの本屋にふらっと立ち寄れば、ほぼ必ず彼女の著作を見つけられるくらいには、その名前が知られている」とある。現代ではBLは大きな市場規模を持つマーケットである。
妻は自分の女の性を嫌っている。しかし結婚しているのだがらレズではない。女性という性を嫌うのはその抑圧のせいだ。いわゆるジェンダーの社会的圧力で女らしくすることに我慢ならない。妻は男の子たちが遊び戯れているのを見ると「心のチンコが勃起する!」と口にする。もちろんその興奮は男になって女を犯すといった妄想ではない。男同士がいちゃつきセックスするのを妄想する。
妻は女に課せられた抑圧に激しく反発するがいわゆる性同一障害ではない。その妄想は男同士の甘美な関係性に向かう。ゲイ好きということでは必ずしもない。BLはそれを好む人にとってそれ自体が美しい幻想であり、妄想だが独立あるいは孤立した性愛の世界である。基本的には現実との対応関係を持たない。
こういったイリュージョンは性的な未成熟から生じることが多い。妻は「ボクっ子」だが多くのボクっ子がヘテロである。ただいつまでもボクっ子ではいられない。宮藤官九郎さん脚本の『木更津キャッツアイ』本編で嵐の櫻井翔さんは「バンビ」のニックネームで呼ばれていたが、確か本編が終わってから数年後に作られた映画版で宮藤さんは「お前はもうバンビじゃない、鹿だ」という台詞を書いていた。四十、五十になった女性がボクっ子でいるのは難しいだろう。どこかで女性性に折り合いをつける。職業BL作家は別として、その嗜好は過渡的趣味であることが多い。
主人公の私がなぜ妻に惹かれたのかというと、「実家から解き放たれてから自分の趣味を生活の主軸に置き、それまでの希望を一つ一つ成し遂げていく彼女が美しく見えた」からだ。実家や女性性など、妻には明確な〝敵〟(正確には仮想敵だろう)がいる。それを倒そうとする際の勢いに私は惹かれたのだった。ただもちろん〝その先〟がある。
ヘテロである以上、妻が同性愛に走ることはない。割り切ったBL作家としての道を歩むか、仮想敵をもっとはっきりとした敵と認識して男女差別撤廃などの社会運動家になるしかない。もちろん自らの性に折り合いを付けることもできるわけだが簡単ではなさそうだ。妻の立ち位置は中途半端だがその中途半端さがアイデンティティになっている。「わがままロマンサー」はとても的確なタイトルだ。妻は無理を承知で「わがまま」で居続けその「ロマン」を追っている。腐女子を正確に表現した小説である。
「ごめんって言ってんじゃん! 馬鹿! わからんちん! ボクが悪いんだよ! ボクが王子(主人公の溜池鷗二のこと)くんなんかと結婚したのがいけなかったんだよ! セックスできる相手じゃなきゃ結婚しちゃいけなかったんだ! ボクが悪いの! わかったか! 女と浮気なんかするノンケと結婚して、いいことなんかあるわけなかったの! 馬鹿!」(中略)
私は志村をとりあえず無視して妻を罵る。
「お前さあ、いつも口では女のことディスるくせに、結局お前自身が、マンコなのな。自分だって所詮は、女だったじゃないか。お前の嫌いな、大嫌いな、メスだったわけだな、春霧オトメ先生もメスなんだ。はー、情けない」
同
女嫌いの妻がセックスに積極的であるはずもなく私は浮気してしまった。それがバレて妻からBL漫画家仲間でゲイの志村とセックスするよう命じられ私は謝罪のため承諾する。しかし志村と二人で会ってみると彼はノンケであり、妻のファンで接近するためにゲイのふりをしているのだという。私は不穏な感じがする。これは妻の未必の故意の巧妙なトリックではないのかと思う。果たして妻は志村と浮気していた。妻から私とセックスするよう仕向けられた志村はヘテロであると白状し、それを知った妻は心置きなく志村と浮気したわけだ。
「セックスできる相手じゃなきゃ結婚しちゃいけなかったんだ!」という妻の言葉は混乱しているが、要するにBL作家で女嫌いで押し通した夫の前ではセックスを含めた女性性を解放できないということである。それは私も同じであり、腐男子的心性だから妻の腐女子の壁を破れない。だからこの奇妙な夫婦は互いの浮気を認め合う。しかしそれでメデタシでは小説としては物足りないわけでして。
「一人の人間だ? 素のままの自分だ?」
私の中で何かがブチンと切れた。
「甘ったれんな! うちのいかれた女房がお前のことを一人前の人間として評価するわけがないだろ!(中略)いいか、うちの妻はな、志村くんのことなんて、綺麗なキノコとしか思ってないし、それが大好物だとは言え、君なんか人間じゃないんだ。俺だってそうだ。誰かのことを一人前の人間として好きになったことなんて、一度もないよ。そこには好きな属性があるだけだ。その属性を持つよりクオリティの高い別の人物が現れたら、当然そっちに気移りするし、それが人間の正しい姿なんだ。君なんてただの綺麗な穴付きのキノコだ。人間ヅラしてんじゃないよ。消費されるだけで上等なんだ。消費のされ方に文句つけるなよ。生意気なんだよ。わかったか青二才」
同
「春霧先生には、僕のことを一人前の人間として好きになってもらいたかったんです」と言った浮気相手の志村を私は罵倒する。私の罵倒は見事で正確な認識ですね。パートナーの浮気は現実世界でも、だから小説世界でも大問題になるがこの小説ではまったく問題にならない。妻は女嫌いのBL作家という社会的アイデンティティを手放さないまま、本来のヘテロとして男とセックスしているだけだ。もっとよい相手が出現すれば「当然そっちに気移りする」。それが妻にとって、また私にとって「人間の正しい姿」である。もっと言えばBLも男女のセックスも同性愛もこの小説では一種の観念である。男も女も自分の性に正面切って向かい合わない。要はどっちつかずの未成熟の、正面切っての肯定である。こういう小説は今までなかったでしょうね。
ところで文芸誌で書く小説家は、芥川賞を獲るまでが純文学作家としての新人である、とおおよそ定義されている。それが芥川賞という新人賞の、新人に対する考え方だ。(中略)
私の作品評価はこれまで、一部のマニアックな批評家、一部の物好きな読者からそこそこウケてはいたが、読み手を選ぶ作風が禍して、業界を挙げての絶賛や、否定、もしくは激しい毀誉褒貶の相克などを引き起こした例がない。つまり業界を巻き込むパワーが足りていなかったのだ。(中略)
だが、『溜池鷗二』がゲイでデビューしてから、心なしか私の小説の評価がじわじわと上がってきた気がするのだ。(中略)その現象が果たして「現役純文学作家」の「ゲイビ(デオ)モデル」が売れ始めたことと関係があるのかどうか、私には判断できない。私の小説の腕が上がっただけなのかもしれないし、それともたまたま良い作品が量産できる時期にあるだけという可能性もある。
同
小説にはオチがあって、妻の浮気相手の志村は実はバイセクシャルですでにゲイビデオにも出演していた。私は妻との浮気を許すかわりに、若くて美青年の志村を私の影武者にする。私は顔写真を公表していないので志村を訓練して私に仕立てたのだった。私は志村のプロデューサーにもなって積極的にゲイビデオにも出演させる。ネット社会である。作家で美青年でしかもゲイビデオに出演している(と思われた)私はじょじょにネット世界でバスってゆく。ある意味私も作家であることに正面切って向かい合わないわけで、主題は非常に一貫している。私はヘテロでもゲイでもバイでもいいのだ。その曖昧さが私の評価を押し上げると直観している。
「文芸誌で書く小説家は、芥川賞を獲るまでが純文学作家としての新人である、とおおよそ定義されている」とあるが、その価値観を心から信じられるのが純文学作家であり文壇人だと言っていいところがある。この狭い純文学文壇が芥川賞というまだまだ権威のある賞を拡声器にして日本文学に強烈な影響力を及ぼし続けている。鴻池さんにとっては芥川賞受賞までが仮想敵との戦いであり作家活動のモチベーションの一つなのかもしれない。とてもいいことだと思う。純文学という定義が揺らぎ作家が現代社会を表現しあぐねている時代に快楽が残っている。芥川賞受賞最短コースは文學界経由だ。「わがままロマンサー」は文學界好み、芥川賞好みのポイントを衝いた純文学小説である。鴻池さんが芥川賞を受賞される日は近いのではなかろうか。
大篠夏彦
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