今号で取り上げるのは高尾長良さんの「カレオールの汀」である。高尾さんも一九九二年生まれでまだ二十代の新人作家だ。以前「音に聞く」という作品を取り上たが(No.144)この作品は芥川賞候補になっている。「音に聞く」について僕は「明らかな翻訳文体」だと書いた。「カレオールの汀」も基本的に同じである。小説のキー主題としてアジア的母性(女性性)のようなものが取り入れられているが欧米的観念が色濃い。また小説論を織り交ぜた作品でもある。
志手はしずかに着がえて、昨夜は闇にまぎれていた景観をはるかに見わたす、東山のM・・・ホテルの食事会場で、遅い朝食をとった。(中略)
その女は、単身で真ん中のテーブルに陣どっていて、牛乳や果物、蜂蜜、油で揚げた菓子などをとりあつめた彼女の食卓だけが、盛春にもどったように華やいでいた。(中略)
そのたべ方は、ぜいたくなほど無作法だった。
彼女の圧倒的な白い歯の下では、果実の小さな粒が蒸気の破片のようなこまかい音を立てて次々に破裂し、いっときのかがやきが、いちどきに滅びてゆくのだった。
高尾長良「カレオールの汀」
小説の主人公はいちおうは志手という女性である。夫の折尾は小説家で新作が好評で、頼まれた講演の仕事を京都で済ませた。が、体調がすぐれないのでMホテルでの滞在を延ばすことにした。心配した志手が夫婦の家のある神戸からMホテルに来て合流したのだった。志手はホテルの朝食の会場で傍若無人に振る舞う女を見た。やがてアーテーという名だとわかる女でギリシャ人と日本人とのハーフである。もちろん美人だ。小説の観念的集約点である。
小説の登場人物は四人。志手、その夫の折尾、志手の父親で折尾の義父にあたる国沖、そして謎の女アーテーである。折尾は小説家で国沖は評論家。志手は小説家の妻で評論家の娘ということになる。この三角関係の役割分担はある程度明確だ。折尾は無から作品を生み出す神に近似した創作者、国沖はそれを解体し批評する辛辣な批評家、そして志手は傍観者である。折尾と国沖は対立せざるを得ないが、志手という傍観者によってバランスを保っている。これはこれで安定した関係性である。それを壊す、あるいは揺るがす存在としてアーテーが設定されている。
ただ志手は傍観者で観察者という位置づけだから、物語展開は実質的に折尾、国沖、そしてアーテーが担うことになる。小説は志手の描写に始まり最後も志手で終わるという意味で彼女が主人公なのだが、物語の担い手である折尾、国沖、アーテーの心情は彼らの口から直接語られる。つまり「カレオールの汀」は三人称多視点小説である。作家が神の視点から登場人物を操る小説形態で日本文学ではあまり使用されない。登場人物の言動よりも作品全体で喚起する観念を描きたい場合の小説形態である。
「(前略)いいか、ことばは女と同じことだ。ことばは衣服を身につけたがる。だから、俺はことばを裸にしてみるのが好きだ。一糸まとわぬすがたになったときに、ことばの恥ずかしがるさまときたら、見ものなんだ。裸になっても、なんとか見るに堪えるのだけが合格点。だが、あんたは、俺とは正反対だろう、十二単やら、ミンクやらを着込んだような、とりつくろったことばばかり使いやがって、あんたのやってることは、女の化粧した上っ面しか認めないってことだよ!」(中略)
「義父さんのおっしゃることも、一理あります。貴重なことばの毒に当てられすぎてはいけないのは、そのためです。重要なのは、書くことではなく、正しく書かれたかどうかを見直す作業だと、わたしは考えています。そして、正しく書かれたものからは、じぶんが気づきえなかった、ゆたかな含意が生じるはずです」
国沖は手を打って笑いだした。
「含意だって! じぶんがこめた含意さえ、誰にもよみとられていないじゃないんか? 志手が、あんたが書くものの含意をひとつでもよみとれたのか?――おまえをわるく言ってるんじゃないよ、志手。(中略)――いいか、折尾くん、とりつくろったことばは、何にもならないんだ。見るだけでわかる、裸の、まっさらな状態が、もっとも美しい。それこそ、真の美のすがたなんだ!」
同
国沖は京都在住で、Mホテルに娘夫婦が滞在していることを知って夕食に誘った。その席上で国沖と折尾は議論を始めた。評論家の国沖は言葉は「裸」にすることで初めて「真の美のすがた」になるのだと言う。しかし折尾は言葉を飾りすぎると激しく批判した。国沖は即座に反論するが二人の議論はすれ違う。
折尾は国沖の主張にいちおう同調するが、彼の考えを「重要なのは、書くことではなく、正しく書かれたかどうかを見直す作業だと、わたしは考えています」と表現する。そうすれば「じぶんが気づきえなかった、ゆたかな含意が生じる」のだと言う。折尾のいわゆる美文は何事かを正しく表現するためにある。それによって作者ですら気づかなかった「含意」が生じる。それは国沖の言う言葉を裸にすることと同じだと主張したのである。
もちろん国沖は納得しない。国沖にとって折尾の美文は、そもそもからして「含意」を含む言葉の裸の姿、真の美を覆い隠してしまう夾雑物である。折尾の美文が嫌いな国沖に、折尾が主張する「正しく書かれた」作法やそこで生じる「含意」がわかるはずもない。
国沖と折尾の対立は、うんと簡略化すれば「評論的観念」と「小説的観念」の違いである。国沖はズバリとある観念を表現する評論的文章の側におり、折尾は物語というまだるっこしい形でしか表現できず、含意と呼ぶしかない小説的観念側の人だということである。
もちろん「カレオールの汀」は小説なのだから、折尾の小説的観念、つまり物語によって示唆される含意を表現するためにある。それを表象するのが美しいハーフの女性、アーテーだ。ただそれは不可能で捉えどころがないと予感されている、というより茫漠としたまま終わるのが確実だから、国沖のような「雨が降ってるなら〝雨が降ってる〟と書け」的な評論家の批判が登場していると言える。
また折尾の小説的〝夢〟を表現するなら、登場人物は折尾とアーテーに絞り込む方がいい。一方で負の主人公として志手が設定されているのは、評論と小説的観念の上位審級にいるアーテーとそれを下位審級から傍観する志手が、基本的には同質だと作家によって設定されているからである。
「梅雨も、おまえも、うそをついている。」
アーテーはわらいだし、小説家は巨軀をまげて、女の足の甲に唇をおしつけた。
「うそだろう――どうして、知らないふりばかり? 俺は、おまえを知っているのに。十三歳をむかえる前に死んだ、おまえ――おまえが俺のなかにいるかぎり、俺は尽きない泉だった。おまえは俺を外からおびやかさず、俺の内に囚われていた。この宝庫を、誰もとり去ることはない、と俺は思いこんでいた。死人であるはずのおまえが、こうしてここにいるということは、どういうことか?」(中略)
アーテーは手のひらをはたきながら、言った。
「あなたは、死人と寝るのが趣味なの? どうか、おしえてちょうだい――わたしが、ほんとうは生きているのか、死んでいるのか。」
同
アーテーはファム・ファタールだから、たまたま同じホテルに泊まって、少し話しただけで折尾と寝る。リアリティはないがこれは最初から決まっている。でないとこういった小説は前に進まない。もちろんリアルなセックス描写はない。クロソフスキーの小説に登場するようなベッドシーンである。折尾とアーテーのセックスは観念である。
ではその観念がどういうものかというと、折尾が心の奥底に秘めていた女性性をアーテーは表象している。折尾はアーテーに「わたしのベアトリーチェ」とも呼びかけている。ベアトリーチェが死者でそれゆえ神聖不可侵の至高の女性性であるのは言うまでもない。
至高の女性性と寝た以上、これも選択の余地なくどちらかが死ななければならない。それは現世の営みではないからだ。ただそれは詩で表現できても小説には不向きな設定だ。ズドンと死という審級に結末を飛翔させるとそれまでの物語が壊れる。小説では現世の物語は現世で終わらなければならない。不文律だがこれを破るのは難しい。
折尾は女のくびに、左右から、てのひらをおし当てた。女は黙っていた。
小説家は焦りながら、力のかぎり締めつけて、とくとくという脈動をおしつぶし、杏仁が割れるように急に眼がひらかれるのを、漆黒の瞳から、強剛な意力のひらめきがゆらぎ消えるのを、待ちのぞんだ。(中略)
抽象的な空想のなかへ、写実の美をそそぎこんだ、あの豊麗なくびが、ほっそりとした長いくびの型に落としこまれてゆき、ゆるやかな息づかいを保っているのを、彼はぼう然と眺めた。
志手のねむりのなかに飛翔していた、アーテーのまぼろしが、どのように夫へ影響したのか、定かではない。
折尾は妻のくびから手をはなし、ふらふらと椅子に向かった。
これが、彼の殿居だったのである。
同
折尾はアーテーを殺そうとするが、気づくとそれは妻の志手だった。もちろんアーテーは実在で「その朝、太陽がのぼる頃、M・・・ホテルのフロントは、ながらく滞在した異国の女性を見送った」とある。小説の観念的焦点は振り出しに戻った。あるいは折尾の求める一種の至高の観念は、妻の志手だったという解釈も可能である。多様な解釈を「含意」として残しているのだからどちらでもよい。
純文学小説には観念小説とでも呼ぶべきジャンルがある。東洋的観念を援用すれば小説は猥雑で笑いに満ちたものになりやすい。笙野頼子は『母の発達』でラスコーリニコフの話を聞いた母に「逃げたったらええやないか」といった言葉を言わせている。地上的猥雑から天上に向かうのが東洋的観念を援用した小説の一つの在り方である。
欧米的というか、キリスト教的観念を援用する場合は東洋観念の場合よりも敷居が高くなる。当たり前だが欧米的観念(キリスト教的観念)は日本人にとって肉体的なものではないからだ。「カレオールの汀」でも欧米的観念と東洋的観念の混交が見られる。それが弁証法的統合といった形で落とし所を見出せているとは思えない。ダッチロールするような物語展開が意図的なのか混乱の反映なのかわからないということである。もちろんこういうモヤモヤと混乱した小説がお好きな方もいらっしゃるだろう。しかしやはりうんとリスクを冒す性根を定める必要があるように思う。
大篠夏彦
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