10月8日『安井浩司「俳句と書」展』オープニング当日の夕方6時から、銀座東武ホテル地下一階のロジェドールで行われた懇親会『安井浩司「俳句と書」展を祝う会』の様子をレポートさせていただきます。
懇親会は午後6時に予定通り始まりました。司会は今回の墨書展プランナーの一人である鶴山裕司が行い、俳人・大岡頌司氏の唯一の弟子で、安井氏の純粋読者の会『お浩司唐門会』の中核メンバーだった俳人・酒巻英一郎が補佐しました。以下にその抜粋を掲載させていただきます。
【お詫び】
金魚屋のミスで『Ⅰ 来賓の皆様へのご挨拶 鶴山裕司』から『Ⅳ 祝辞と乾杯 高橋龍氏』、および Ⅵ-(1)、(2) の小澤實氏と中原道夫氏の御祝辞が録音できていませんでした。大変素晴らしいスピーチをいただいたにも関わらず痛恨の極みです。心よりお詫び申し上げます。
Ⅰ 来賓の皆様へのご挨拶 鶴山裕司
Ⅱ 金魚屋プレスおよび文学金魚代表・齋藤都のご挨拶(代読 鶴山裕司)
皆様、本日はお忙しい中、文学金魚オープニングイベント、安井浩司墨書展「俳句と書」にお集まりいただき、誠にありがとうございます。私ども金魚屋プレス日本版は2012年3月に総合文学ウェブ情報誌 文学金魚を立ち上げました。現代的な出版モデルとしてウェブ上での小説連載、そのシリーズ化および電子・紙媒体による単行本化、また従来の文芸ジャーナリズムをウェブ上で再活性化し、各ジャンルを統合した新しいジャーナルの成立を目指します。そしてそれらジャンルの統合の象徴であるヴィジュアル芸術と、文学との出会いを支援します。
安井浩司氏の初めての墨書展は、文学金魚の立ち上げにともなう記念イベントとして大変ふさわしいものです。俳句は国際社会にとっては日本文学そのものの象徴であり、安井浩司氏はその前衛的な、今や最後の巨人でありますし、その書はまさしく文学と統合されたアートです。
「文学金魚」は創作者のユニオンとして、さらに新しい出版・発信のモデルとなることを目指します。この場に多くの創作者の皆様がお集まりくださったこと、安井氏の素晴らしい墨書が初めてまとめて多くの方々の目の前に展開されたことを大変幸せに思い、安井浩司氏、協力スタッフの方々、集まってくださった皆様に深く感謝いたします。
齋藤都
Ⅲ 安井浩司氏の『御挨拶』(安井浩司『御挨拶』参照)
■安井氏が使用された『御挨拶』メモ■
Ⅳ 祝辞と乾杯 高橋龍氏
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Ⅴ ご歓談
■左から酒巻英一郎、安井浩司、丑丸敬史氏■
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Ⅵ 来賓祝辞①当夜の御祝辞の内容を抜粋して掲載(以下同)
(1) 小澤實氏
昭和33年(1958年)生まれ。俳誌『澤』主宰
(2) 中原道夫氏
昭和26年(1951年)生まれ。俳誌『銀化』主宰
(3) 小島俊明氏
昭和9年(1934年)生まれ。フランス文学者、詩人、俳人
・・・安井さんとお目にかかるのは今日初めてなんですね。安井さんと仲良くなったきっかけですが、私はフランス文学出身で、昔、アンリ・ミショーの詩集を訳したことがあります。それを安井さんが読んでくださって手紙のやりとりが始まったんです。私はカトリック系のフランスの詩を勉強してきましたが、フランスにシモーヌ・ヴェイユという人がいます。この方は非常に神秘的な体験をした方で、修道院にいた時に、キリストに触れたと言っています。ヴェイユの著作に『超自然的認識』がありまして、簡単に言いますと、地球の重力と同様に、人間の精神も落ちるんだということを言っています。しかしアンチ重力というものがヴェイユの目指したものなんです。で、安井さんの墨書は今回初めて見せていただいたんですが、一行が大地から起立してる。立ち上がっている。あれを見ていると、非常に霊的なもの、超自然的なものの影響を受けていらっしゃるように感じます。安井さんの経歴は、フランスとはあまり関係のない、私とは全く違うものだと思うんですが、どっかヴェイユなんかと共通するものがあるように感じます。
・・・安井さんの最新句集は『空なる芭蕉』ですが、後記で調布の深大寺の植物園に実際に芭蕉を見に行ったと書いておられる。実は僕は深大寺のそばに住んでいまして、植物園のことはよく知っています。それでちょっと考えました。何を見にいらしたんだろうな、と。植物公園には熱帯の芭蕉があるんです。ものすごく大きな芭蕉です。熱帯の芭蕉は水を溜めているんですが、旅をしている人は渇くとそれを切って水を飲む、そういう役割を果たしているんですね。で、安井さんはやっぱり植物公園に、本質、熱帯の芭蕉の本質を見にいらしたんじゃないか。『空なる芭蕉』の『空』ですが、僕はそこに禅的なものだけでなく、カトリックの神秘思想と非常に共通するものを感じるんです。ですから僕は安井さんの俳句や書にものすごく惹かれるんです。
・・・本来なら準備してもっとまとまったお話しをしたかったんですが、突然のご指名で、とりとめのないお話しになりました。ただ私の意図が、少しは皆さんにご理解いただけたのではないかと思います。本日はおめでとうございました。
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Ⅶ ご歓談
■左から岡田恵子、高野公一、安井浩司、志賀康氏■
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Ⅷ 来賓祝辞②
(4) 酒井弘司氏
昭和8年(1933年)生まれ。俳誌『朱夏』主宰
・・・昭和44年、安井さんがちょうど高山におられた頃に、私は能登に旅をして、その帰りに高山の安井さんのお宅を訪ねたんです。安井さんは昭和38年に処女句集『青年経』を出版されましたが、高山時代に第三番目の句集『中止観』をお出しになりました。この句集の頃から、私は安井さんの俳句が非常に純化されていったと感じています。今の安井さんが立っておられる地平というものに、高山という土地の地の霊、地霊が大きな影響を与えていると思うんですね。高山以降、安井さんは秋田にこもられたわけですが、非常に短い言葉で言えば、安井浩司はやはりぶれなかった、群れなかった、そして媚びなかった。ぶれず、群れず、媚びずという地平で仕事をしていらっしゃった。私は高山時代以降、初めて今日、安井さんにお会いしたんですが、昔のままの姿で大変感激しております。今日はおめでとうございます。
(5) 武田伸一氏
昭和10年(1935年)生まれ。俳誌『海程』編集長
・・・私『海程』の人間なんですが、なんか『海程』から場違いな人間が来ているような感じがします(笑)。さきほどギャラリーで久しぶりに安井さんにお会いしたんですが、いい顔になっていますね、びっくりしました。安井さんとの関係ですが、多分、この中では安井さんと付き合った最初の人間くらいではないかと思います。私は能代高校で安井さんと一年違いです。図録の年譜に高校生で紅顔の美少年時代の安井さんの写真が載っていますが、さきほどお話しされました酒井弘司さん、安井浩司さん、それから亡くなりましたが大岡頌司さんが、我々の時代の三『コウジ』といって、若い俳人たちの憧れの的だったんです。
・・・それで図録の若い頃の安井さんの写真を見ていて思い出したんですが、当時、句会があったんですね。能代高校だけじゃなく、女子校とか工業高校とか、合同で句会をやっていました。で、もう安井さんは忘れていると思うんですが、その合同句会の時に、安井さんが私に『女子校の○○さんが、君のこと、好きだよ』って言ったんです。そう言ってわたしをかついだ。でも私は純情でしたから、まんまとそれにのっかっちゃいましてね(笑)。で、彼女にアタックして、でもうまくいって、一年くらいいい思いをしました(笑)。それは安井さんに感謝しています(笑)。
・・・もう一つ思い出しましたが、さきほどお話しした大岡頌司さんが、広島から京都に来て住み込みで仕事をしていた時に、私の下宿と歩いて10分くらいでしたから、よく会って話しをしました。その頃私は社会性俳句に一生懸命でして、これからの時代を撃つんだという気持ちで燃えていました。で、大岡さんを京都句会に誘ったりして、そんなことが一年くらい続いたかな。安井浩司さん、酒井弘司さんを目の前にしていたら、大岡頌司さんを含めたいわゆる三『コウジ』のことが次々に思い出されまして、非常に懐かしい思いをしています。今日は安井さん、本当におめでとうございます。
(6) 大関靖博氏
昭和23年(1948年)生まれ。俳誌『轍』主宰
・・・わたしもこの場にいるのがちょっと場違いな感じがするんですが、私は前衛でもなんでもなくて、伝統派バリバリの人間であります。ところが若い頃から安井さんの俳句に妙に惹かれるところがありまして、やたらと私淑しまして、いろんな文章を書かせていただいておりました。でも安井さんの作品は難しいんですね。私は安井さんの句を五年でも十年でも考え続けて、やっと一本文章を書くという調子です。このままだと百歳くらいにならないと安井浩司論は完成しないだろうなぁと思っていたんですが、今日、ギャラリーで墨書を拝見しまして、『ああ、これはいけそうだ』と新たな創作意欲が湧きました。
・・・さきほど安井さんは冒頭の御挨拶で、俳句の世界に夢がなくなっているということをおっしゃいましたが、私の夢は非常にささやかなもので、安井浩司論を単行本で出したいということです(笑)。もう長年書いているんで、あと数篇書けば本になるなぁと思っています。
・・・私はこういう性格ですから、師事させていただいた先生はいらっしゃらないことはないんですが、心理的には安井さんを心の支えにしながら伝統俳句の道を邁進しております。最近気がついたんですが、この間の全集の時に栞を書かせていただいて、安井さんの俳句の難しさは、日本のマラルメじゃないかと思うんですね。そういう観点からも、今度は書こうかと思っています。このたびはおめでとうございました。
(7) 江田浩司氏
昭和34年(1959年)生まれ。短歌会『未来』編集委員
・・・『未来』という短歌会で編集委員をやっております江田です。私は元々俳句を作っていまして、村松紅花先生の、がちがちの有季定型の結社に入っていました。その門下から、たまたま岡井隆さんに出会って短歌を作り始めたんです。だから短歌の先生は岡井さんなんですね。最初の歌集は『メランコリック・エンブリオ-憂鬱なる胎児』で、この本には930作品くらい入っているんですが、そのうち13作品は俳句です。
・・・で、処女歌集を出した時に、普通、先生は弟子が初めて作った歌集を誉めると思うんですが、岡井さんはほとんど誉めてくれない(笑)。いただいた帯文には『江田君、自分の好きに勝手に行くところまで行け』と書いてあるだけだったんです(笑)。この歌集は安井さんにもお送りしたんですが、なぜかと言いますと、たまたま神保町の本屋で『中止観』という句集を読みまして、意味はよくわからなかったのですが、大変惹き付けられるものがあったんです。そうしたら安井さんから丁寧なお手紙をいただきました。その手紙を読んで、ひよっとして、岡井さんよりも安井さんの方が、私の歌集をちゃんと読んでくださったんじゃないかと感じました(笑)。
・・・それ以降、本を出すたびに安井さんにお送りしているんですが、安井さんの全句集が出る時に、栞を書いてくれないかという依頼が舞い込みました。迷いましたが思い切って書くことにして、私、歌人・山中智恵子に関する評論集『私は言葉だった-初期山中智恵子論』を出しているものですから、山中さんの処女歌集『空間格子』の歌と、安井さんの処女句集『青年経』の句とを比較して書きました。ある意味とんでもない論かもしれませんが、山中さんはとても俳句を読んでおられて、亡くなった後に、句集も出版されたんです。俳句との関係がとても深い歌人で、『空間格子』の帯文は山口誓子が書いています。
・・・考えてみますと、岡井も俳句を書きますし、塚本邦雄も俳句を出しています。私の好きな歌人は俳句に関係が深い方ばかりなんです。私は俳句の世界を一度飛び出してしまった人間ですが、近頃ますます俳句に惹き付けられています。その中心に安井さんがいらっしゃるわけです。今後ますますのご活躍をお祈りします。本日はおめでとうございました。
(8) 高原耕治氏
俳誌『未定』代表
・・・私個人の安井さんとの出会いは、小学校の時代なんですね。大塚の本屋に安井さんの『中止観』と三橋鷹女の『羊歯地獄』があったんです。ちょっと値が張りましたけど、両方、私、買ったんです。そういう思い出があります。でも私が本当に安井浩司の俳句がわかっているのかと言うと、ちょっと自信がございません。
・・・なんと言いますか、本当のことを言うしかないんですが、安井さんの俳句はここで簡単に語り尽くせるものじゃございません。ひとことだけ喋ってくれということで、短くすませますが、私にとりましては、富士山が富士山であるように高柳重信は高柳重信であり、富澤赤黄男は富澤赤黄男である。それは動きません。しかし安井さんが俳句の構造を提唱なさったことは大変な業績でございまして、また新しい富士山が一つ増えたような気がします。これは私にとっては非常に困ったことであるんですけどね(笑)。
・・・安井さんがカタログでお書きになっておられますように、安井さんの俳句の裾野にもし立つ若い人が出てきたら、その人は富士山よりも高い、エベレストを登るような、険しい道を辿らなくてはならないんじゃないか、そんなふうに思っています。若輩の私が安井さんの前に立ってこんなことを申し上げるのは非常に失礼ではありますけど、そういう思いがいたしますので、正直に申し上げました。本日はおめでとうございました。
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Ⅸご歓談
■懇親会会場の様子■
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Ⅹ 来賓祝辞③
(9) 高橋睦郎氏
昭和12年(1937年)生まれ。詩人・俳人
・・・今日はこの会にお呼びいただいて大変に感激しておりますが、実はもしある方がご引退されていなければ、僕は呼ばれていないんです。それは加藤郁乎さんです。加藤さんは僕が会に出席するとまことに機嫌が悪くなって、ですから世話人の方が気を回されて、加藤さんがいる会に僕はまったく呼ばれないんです。ですから安井さんがこちらにいらして集まりがあっても、世話人の方が遠慮なさって僕は決して呼ばれませんでした。それは僕の不徳の致すところでもありますが、加藤郁乎の不徳の致すところでもあります(笑)。
・・・しかしですね、加藤郁乎という人は奇怪な人で、僕はあの人に若い頃に出会ったんですが、あの方とはまず喧嘩しなくちゃならないんですね。喧嘩すると仲良くなれるという、通過儀礼を通らなければダメなんです。でも僕はそういう旧制高校的な通過儀礼は大嫌いでして、あるとき澁澤龍彦の家で『表へ出ろ』って言われて、その時僕は紋付袴で、外はひしひしと雪が降っていたんですけど、別に着物が汚れてもよかったんですが、そういう通過儀礼が嫌だったもので、『そんなにお出になりたければ、お一人でどうぞ』って言ったんですが、これがいけなかったんですね(笑)。その後で松山俊太郎が、『じゃあ俺がかわりに出る』と言って二人で出て行って、大げんかして、それから雪まみれになって、抱き合ってキスせんばかりになって帰ってきました。でも僕はそういう通過儀礼は薄気味悪くて、それに加藤さんは僕の美意識にかなわないお顔をなさっておりました(笑)。
・・・しかしあの人はどこかで人なつっこさがあるんです。僕を安井さんの会に呼んでいただければ、必ずそこで加藤さんと喧嘩が起こったと思うけど、その喧嘩から、また何か新しいものが生まれたかもしれないんですよ。ところが前衛俳句の方は平穏無事がお好きだから、僕は後衛ですけど喧嘩が大好きですから(笑)、そういうチャンスがあったら、もっと俳句界が面白くなったのになぁと残念に思います。郁乎もこのへんにいて、きっと僕に賛成してくれていることと思います(笑)。
・・・僕は安井さんのほんとうにファンでして、晩年の吉岡実もほんとうに安井さんのファンでした。安井さんはいつも俳句形式のことをおっしゃっているけど、安井さんの俳句は俳句に徹しながら、俳句を超えているんですね。これは詩歌の問題であって、同時に文芸の問題でもある。そういう域にいる方なんです。僕は安井さんのご本が出るたびに、そこからいっぱい刺激を受けています。
・・・それで安井さんの、今度の図録に載っている長時間インタビューの面白かったこと。それに歯医者さんという職業について、これだけは聞いてくれるなっておっしゃっているところ、面白かったですねぇ。僕の歯をいつも診てくださる先生がいらっしゃるんですが、僕はその先生にお会いするたびに、人間の最も不気味な、暗黒の、湿った恐ろしい口の中、それをいつもご覧になって、本当にご苦労様ですって申し上げているんです(笑)。安井さんは歯医者というご職業について聞いてくれるなとおっしゃるけど、あそこから得られたものはすごく大きいんじゃないでしょうか。陰を陽となさった安井さんの力というものは、ほんとうにすごいと思います。
・・・僕は安井さんと一歳しか違わないんですよ。懇親会の挨拶文の中に、安井さんは御高齢ですから、なかなかこちらに出てこられないでしょうと書いてありましたが、とんでもない。これからです。安井さんがこんな汚い都になんか出て来るもんかと思っておられるなら、こちらから会いに行きますから、どうぞ会ってやってくださいませ(笑)。どうも今日はお呼びいただいてありがとうございました。
(10) 川名大氏
昭和14年(1939年)生まれ。俳句文学者
・・・安井さんと初めてお会いしたのは、加藤郁乎さんが中心だったと思いますが、昭和30年代の中頃ですかね、確か神保町の窓という喫茶店で行われていた『第三土曜の会』という俳人の集まりでした。それから高柳重信の『俳句評論』などでもずっとお付き合いさせていただいています。そういう思い出はいろいろありますけど、もうちょっと現代の俳句についてお話しさせてください。
・・・ここしばらく、私には俳句を矮小化して捉える言説が多いように思えて、とても残念に思っています。特に昨年あたりから、俳句は瞬間を切り取る詩だとおっしゃる方がいらっしゃいますね。私から言わせると、それは芭蕉の『物の見えたる光』を誤解して、俳句をスナップ写真のように思っているんじゃないかなと思います。あるいは俳句で日常の些事を巧みにすくい上げることが大人の文学だと、そういった言説もけっこうあります。そういう言説は作品にも当然反映して、季語と切れ字と取り合わせといった弾をこめて、安井さんが評論集『海辺のアポリア』で言っておられますが、至近距離から命中弾を撃つことを楽しむといったような風潮があります。
・・・でも安井さんは、俳句を射程距離の長いものだと捉えて、この文学形式と契約したんだとおっしゃっています。そういう姿勢は安井さんの俳句によく表れていると思います。例えば『鳥墜ちて青野に伏せり重き脳』、『御灯明ここに小川の始まれり』、『万物は去りゆけとまた青物屋』などの句がすぐに思い浮かびます。これらの句は、死と生成の、存在の根源に触れたような作品だと思うんです。俳句というものは、こういった、射程距離の長い芸術であってほしいと思うわけです。ここには若い方がたくさんいらっしゃいますけど、安井さんは先駆を切った方ですから、矮小化した形で俳句を捉えないで、射程距離の長い俳句を目指していっていただければと思います。
・・・安井さんへのオマージュが少なくなって申しわけありませんが、私が日頃考えていることをお話させていただきました。本日はおめでとうございました。
(11) 酒井佐忠氏
昭和18年(1943年)生まれ。俳人、エッセイイスト
・・・私は毎日新聞で長く現代詩歌を担当しておりました。安井浩司さんにお会いするのは今日で二回目でございます。初めてお会いしたのは平成15年だと思いますが、句集『句篇』をお出しになった時で、これが第一回の吟遊賞を受賞しました。その時に取材にうかがって記事を書いたんですが、それが毎日新聞の文化面に安井浩司の名前が出た初めてのことではないかと思います。今日、安井さんにご挨拶に行きましたら、私のことを覚えておいででして、私はもうそれだけで感激しております。たった一回お会いしたのに、覚えていてくださったことに感激しております。
・・・私にとっての安井浩司ですが、これはもう、皆さんと同じで非常に重たいテーマであります。さきほど高橋睦郎さんが、俳句に限らず、現代詩歌のすべてに渡る問題を、安井浩司という存在そのものが提示しているという意味のことをおっしゃいましたが、私もそのように感じています。お名前はずいぶん前から存じ上げておりましたが、私の二十年弱の取材の中で安井さんにお会いしたのはわずか30分ほどです。しかし私の影にはいつも安井浩司という名前があったように思います。北の町秋田でずっとお暮らしになって、ポピュリズムに走らないというところで、非常に惹かれるものがありました。私はいろんな場所に取材に行きましたが、何かいつも引き戻される場所に、安井浩司という名前があったように思います。
・・・最近、安井さんの書物が、少しずつポピュラーになりつつあるのではないかと思います。素晴らしい評論集『海辺のアポリア』が出版されました。それに『選句集』ですね。大井恒行さんの素晴らしいインタビューがありまして、これ一冊読めば安井さんがどういう作家かわかるようになっています。
・・・ただ、私としては、『海辺のアポリア』をバイブルのようにしていまして、文学の道に迷った時には拾い読みすることにしています。その中で、俳句は俳句という秩序はあるけど、その秩序からも自由であり、しかし俳句という虚構の秩序に夢を賭けると、そのような言葉が書かれていたと思います。それは俳句だけでなく、すべての文学に通用する言葉ではないかと思います。今日はどうもおめでとうございました。
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XI 安井浩司『終会の御挨拶』
本日は初めてお会いする方、また顔なじみの方もたくさんいらっしゃいまして、実は今日は最初、大変緊張したんです。でもすぐにほぐれました。今日は皆さんから沢山の素晴らしいお言葉をいただきまして、こんなに素晴らしいお言葉をいただいていいのかとすら思いました。あまりたくさんは申し上げませんが、今日は改めて、まさに一期一会と思いまして、今日の喜びを、私はこれからも長く持ち続けていきたいと思います。私も残り少ない時間を大切にしまして頑張って書いていきますので、皆さんもお元気で、お互いに励まし合いながら頑張りましょう。今日は本当にありがとうございました。
XII 墨書展協力スタッフの紹介と二次会のご案内 酒巻英一郎
XIII 豊口陽子氏による花束贈呈
■懇親会ご出席者全員による記念写真■
以上、簡単に懇親会の様子をレポ-トさせていただきました。懇親会翌日の10月9日夜に行われた安井氏主宰の関係者慰労会でも、安井氏は、『昨日は安井浩司に会うためだけにいろんな方が集まってくださった。こんなに嬉しいことはない』と繰り返しおっしゃっていました。
実際、懇親会には、結社の垣根や俳句に対する姿勢の違いを超えて、多士済々の文学者の皆様が集まってくださいました。金魚屋スタッフ一同、改めて深く御礼申し上げます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■