今号では「比喩の魔力」の特集が組まれています。こういった特集を句誌で組むと「比喩には直喩と暗喩があってetc.」といった一夜漬け的エッセイが並んだりするわけですが歌誌はさすがにもっとこなれています。このあたりから見ても短歌は俳句よりも大人の文学という感じがします。
極論を言えば、短歌はすべて誇張です。私たちの時間はいかなる時間も同じ速さで流れ去り、再び帰ってくることはありません。(中略)その時間を他の時間から差異化し、特別なひとときとして言葉に刻みこむのが短歌です。つまり、短歌に詠むということがすでに誇張です。(中略)
乾坤の崩落に遭ふごとき顔なしたり虫歯を告げられて児は 黒瀬珂瀾
拙作で恐縮ですが、これは派手にやり切ったぜ、と自分でもちょっと思っている歌。検診で虫歯が見つかった当時五歳の娘の表情です。(中略)こういう誇張はそもそもリアリティを追求しない面白さに賭けているのです。
黒瀬珂瀾「誇張の願い」
黒瀬珂瀾さんは相変わらずエッセイの名手ですね。自作を例にすると嫌味になることが多いのですが「乾坤の崩落に遭ふごとき顔なしたり虫歯を告げられて児は」は比喩的短歌の例としてすっきり腑に落ちます。読んで笑ってしまうような歌です。黒瀬さんの娘さんは歯を大事になさっているか歯医者嫌いかどちらかなのでしょうね。
黒瀬さんは「こういう誇張はそもそもリアリティを追求しない面白さに賭けているのです」と書いておられます。平凡で淡々と過ぎてゆく時間のある断面を捉えてそれを比喩という誇張を使って表現するのも短歌の一つの醍醐味です。つまり生き続ける人間のドラマチックな表現ですね。人生百年時代が現実味を帯びていますから比喩表現が重要になるのは言うまでもありません。
ママチャリに油さしつつ道路地図ふわり広げるマジックアワー
夕暮れをそっと背負って家を出る私はわたしを生きてゆくのだ
もうきっと家では親に気づかれてくせ字の手紙も見つかってる頃
滋賀を出て犬吠埼を目指しゆくダッフルコートを握りしめつつ
冷え切ったサドルをカイロで温めて今日は静岡まで走るのだ
親からの電話もメールも無視しつつビジネスホテルをカフェで予約す
あとはもう線路沿いに走るだけ追いつけそうな銚子電鉄
空と海のあわいの写真を撮ったあと返事の代わりに母へと送る
昨日より勇気を持って生きようとやっと思えた旅の終わりに
「ガタン!」と少しペダルをにぎやかに跳ね上げ進路まっすぐ西へ
田中翠香「神崎雪菜、海へ」より
今号では第66回角川短歌賞受賞第一作30首が掲載されています。田中翠香さんと道券はなさんが受賞されたわけですが田中さんの受賞作は「光射す海」50首でした。「シリアへ、と我が告げれば不思議そうに瞳を向ける友の多さよ」といった歌で内戦で混乱するシリア訪問を題材にした連作でしたね。
受賞第一作の「神崎雪菜、海へ」は素直に読めば神崎雪菜という女性主人公が故郷の滋賀の家を家出して自転車で遠く千葉県の犬吠埼を目指すという内容です。田中さんは男性ですから架空の人格を設定した歌ということになります。ちょいと一筋縄ではいかない作家の短歌観があらわになったという気がしないでもないですね。
ドラマチックな比喩表現は短歌と順接ですが架空=フィクションはしばしば短歌では大きな問題になります。短歌は作家の私性を表現する器なのかそうではないのか――小説と同様に完全なフィクションでも良いのかという問いかけは短歌文学の根幹に関わるものだからです。
ちょいと乱暴な言い方になりますが受賞第一作の「神崎雪菜、海へ」30首は連作としてはキレイにまとまっています。しかし「「ガタン!」と少しペダルをにぎやかに跳ね上げ進路まっすぐ西へ」と故郷に戻る歌で何かが断ち切られたような感じがするのは否めません。この先の表現はないのではないか。また角川短歌賞受賞作「光射す海」がシリアを取材しながらフィクションで構成された連作だったのかもしれないという感じを読者に起こさせます。
もちろんフィクションだからダメだと言っているわけではありません。しかし短歌は圧倒的に私性の表現の器でありそれに挑戦を挑むフィクション短歌はなぜフィクションなのかという理由が求められます。またフィクション短歌独自の存在理由が提示されなければこれまでもそうであったようにいつしか短歌の世界から消え去ってゆくことが多い。田中さんの短歌は短歌文学の根源的問題に突き刺さる歌ですからこれからもっと作家の短歌観があらわになるような作品・批評両面での活動をしていただきたいですね。
萩原慎一郎の『滑走路』が映画化された。(中略)
『滑走路』を三つの方向から眺めてみる。(中略)それが主要人物の鷹野、翠、学級委員だ。(中略)
官僚の鷹野は社会詠。膨大な仕事に押しつぶされそうになっている。徹夜で作った資料は使われなかったり、上司から作り直しを命じられたり。(中略)
仕事の中で自分と同じ二十五歳で自殺した青年を知り、興味を持ち、調べ始める。(中略)調べていくうちに鷹野は自身とも向き合うことになる。(中略)
切り絵作家の翠翠は創作、才能。(中略)切り絵作家として認められだしているが、周囲を見ると自身の年齢も気になってくる。(中略)翠は創作に突き進みたいがそれに悩む人物。夫の巧己は自らの才能に苦しむ人物として描かれる。(中略)
中学二年生の委員長は幼なじみを助け、いじめの標的にされる。(中略)
この三人の人生があるとき交錯する。物語化のカタルシスはまさにここだろう。なにも想定していなかったので心地よい衝撃があった。
映画『滑走路』公開記念「映画『滑走路』を観て 歌が突き動かす」佐佐木定綱
今号では佐佐木定綱さんが萩原慎一郎さんの歌集を元に映画化された『滑走路』の映画評を書いておられます。ジャーナリズムの世界では書評などでは批判を抑えて基本的には誉めなければならないという不文律があります。雑誌の版元が出している本を書評で取り上げることが多く版元は一冊でも本を売りたいわけですから当然ですね。この不文律を飲み込めなければ原稿依頼は来なくなります。映画の世界はもっとそうで興業という博打ですから監督や俳優たちは宣伝のために走り回ります。定綱さんが封切りの映画を誉めておられるのは当然のことです。
よく知られていますが萩原慎一郎さんは若い頃から歌壇で注目されながら三十二歳で自殺した歌人です。「非正規の友よ、負けるな、ぼくはただ書類の整理ばかりしている」といった歌が現代社会が抱える問題に鋭く斬り込んでいることもあって歌集『滑走路』は大きな話題を呼びました。歌集を元にした映画化がその影響力の大きさを端的に示しています。
ただ思い切って書いてしまいますが「また絶唱か」と思わないことはないですね。平安短歌以降あるいは近代では啄木以降の短歌の歴史で突出しているのは絶唱です。病死であれ自殺であれ若くして白鳥の歌を詠んだ歌人が短歌文学を代表しているようなところがあります。高位高官でも啄木の「ぢっと手を見る」を我が事として感じる瞬間があるわけです。それは映画『滑走路』でも活かされています。
この絶唱短歌に対して歌人は様々な挑戦を試みてきたようなところがあります。乗り越えようとしてきた。子規から茂吉らに続く写生もその一つであり塚本らの前衛短歌もそうですね。読者なら絶唱短歌に心蕩けるような感動を覚えていっこうに差し支えありません。しかし歌人はどうか。なかなか難しい問題です。
高嶋秋穂
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