今月号最大の特集は例年通り「新春一〇二歌人大競詠」です。歌誌に限りませんが句誌でも詩誌でも絶対的な基盤は作品ですから特に新年号は作品特集で統一されています。時期はずれますが紅白歌合戦のようなものですね。ここに作品を連ねることができれば業界でそれなりに評価されているということになります。
一方で特に詩誌の場合は通常号の主役は評論ということになります。評論・エッセイといった散文を書ける作家が詩誌のスターになりやすいということですね。これは今に始まったことではありません。理由はいくつかあります。
創作では実作と理論が連動しているのが理想です。新しい作品が生まれてきてその意義を明らかにする評論が出る。それによって一つの創作パラダイムがじょじょにできあがってゆくのが理想ということです。「明星」でも「アララギ」でも前衛短歌や口語短歌やニューウエーブ短歌でも同じです。作品と批評は創作の両輪ということです。
ただ詩誌は小説誌とは違います。小説には純文学と呼ばれる面倒くさい形態もありますがたいていは平明です。小説を読んでぜんぜん何が書いてあるのかわからない作家が何を言いたいのかわからないということはまずないわけです。小説批評なら読書感想文程度の批評なら必ずと言っていいほど書ける。しかし詩になると解説が必要な場合が出てきます。業界に属していても「なんじゃこりゃ」という作品が次々に出てきます。その意義を説き明かす批評が必要になります。
また詩は小説に比べて短い。比較的長いといっても自由詩でも平均行数は百行を切るでしょうね。たいていは三十行から長くても五十行以内です。短歌俳句は連作形式で発表されることが多いですが行数的にはやはりそのくらいでしょう。小説よりも簡単に読めてしまう。そして傑作が掲載される可能性はいつだって低い。また小説の醍醐味はマスの欲望や無意識を物語化して本が売れることですがそういった可能性が詩では低いわけです。
そのため詩誌では評論の割合が多くなる傾向があります。作品と批評の理想的関係から言えばそれでいいわけですが現実はそうとも言えない。「あーでもないこーでもない」と結論を引き延ばしにしてぐるぐると問題の周囲を回る批評が圧倒的に多くなる。それが詩誌の批評の実態だと言えるようなところがあります。
つまり詩誌では批評を書ける能力があると詩壇のスターになりやすいですがそれは諸刃の剣です。詩壇というところに精神が雁字搦めになってしまうと埋め草批評を書く習性が身についてしまう。これを避けるためにはどんな対象であろうと本一冊分くらい知力を集中させた批評を書くのが一番いいわけですがジャーナリズム批評家になると毎月の埋め草に追われてしまうことになりかねません。とりあえず頭角を現すために始めたことが本業になってしまうのですね。これは詩の世界の批評書きの陥穽です。批評がムダと言っているわけでは決してありませんが詩人はすべからくジャーナリズム批評家として消費されないように気をつける必要があります。本来的な立ち位置を見失わないようにするということでもあります。
処女にして身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす
富小路禎子『未明のしらべ』
わたくしはもう灰なのよひとつまみの灰がありたり石段の隅
河野裕子『歩く』
ハロー 夜 ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
かへりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき
大松達知『フリカティブ』
野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり
野口あや子『夏にふれる』
馬場あき子選「自己愛を感じる歌」
新年号では新春特別座談会として「見つめ直す自己愛――自分を育て世界と交わる」が組まれ馬場あき子さん伊藤一彦さん藤原龍一郎さん小島ゆかりさんが討議をなさっています。冒頭に編集部の「今回の座談会を考えたきっかけは、最近、特に若い人たちの間で、自分を隠そうとか、自分を出すことが恥ずかしいという風潮があるのではないかと思ったことです。自己愛の定義も難しいので、自意識の変化ということを念頭に置いていただいてお話しいただければと思います」とあるように編集部主導の座談会です。
「自己愛」については冒頭の馬場あき子さんの発言「自己愛がない歌人なんていないからね。歌人はみんな自己愛の権化みたいなもんですよ」に尽きている。歌人に限らず創作者はすべからくそうだと言えます。ただ確かに自己愛は時代によって微妙に変化しているわけでそれがうっすらとわかればいいという座談会です。
座談会で引用された歌を詠んでいても女性はあまり変わらない。少なくとも女性歌人が女性〝性〟を積極的に援用した際の歌は死が題材でもおおらかで肯定的なものになりやすい。普遍的表現というものが女性短歌にはあります。時代ごとに変化の影響を受けやすいのは男性歌人の歌ですね。男は社会的動物でありジェンダー的にもそうあるべきとどこかで引き受けています。しかし現代社会は大上段に社会を捉えにくい。開き直るかはぐらかすしかないわけです。ただそれではいわゆる〝男の子の面目〟が立たない。女性歌人がいつでも生と死のアマルガムである母性を援用できるのに対して男性は孤独です。この孤独を屹立させるのはホントにムダで無意味に思われるような高い観念性しかない。それがなかなか見当たらないのが現代です。
また角川短歌の座談会などでは出席者があらかじめテーマに応じた歌を選ぶのが通例です。それによって出席者の歌人の基本的な姿勢や考えがわかるところがある。座談会などにお座敷がかかって喜んでいるようではダメです。馬場あき子さんは例によってリベラルです。もちろん様々なシガラミがあるでしょうが努めてリベラルであろうとしておられます。常に現代にアップデートしようとなさっていると言ってもいい。作家は常に見られている。
今回の出席者のほとんどの方が穂村さんの「ハロー 夜 ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。」を自己愛の歌としてあげておられますがこれは『万葉』の「はろはろ」のパロディかもね。穂村さんはニューウエーブ短歌の旗手ですが過去に観念軸を伸ばす傾向があります。短歌史を背負うということです。それが幼年時代幻想に繋がっているところがある。ただし今のところそれが未来軸にまで伸びてゆく気配が薄い。その限界を誰がいつ破るのか。今年も短歌界は活況を呈しそうです。
高嶋秋穂
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