今号では「大特集 没後10年 河野裕子」が組まれています。お亡くなりになられてからもう十年も経つんですね。早いものです。特集には永田和宏・永田淳・永田紅さんの家族鼎談も掲載されていてその中で淳さんが「近いうちに、母の全歌集を出そうって思っています」とおっしゃっています。そうか十年というのはまだ全歌集も刊行されていない時間かと思ってしまいました。散文集もいずれ刊行されるでしょうからそこから河野さんの本格的検証というか評価でしょうね。
ただこの方が短歌史で非常に重要な位置を占める歌人であるのは間違いないところです。もしかすると口語短歌やニューウェイブの嵐が一段落した後にさらに評価が高まるのが河野さんかもしれません。
昭和四十年代の角川短歌賞受賞リストを見ると、私の同世代は一人もいない。福島泰樹、村木道彦、伊藤一彦、大島史洋、永田和宏などなど。応募もしなかったはずだ。歌壇のお墨付きなど不要、活動は自力でと半ば突っ張っていたからだ。前衛短歌に刺戟された同人誌運動の志向がそこには作用していた。
ところが四十四年(一九六九年)に河野裕子が「桜花の記憶」で受賞したから、そしてそれが新鮮な青春歌だったから、男たちの突っ張りはあっさり崩壊、やがて松平盟子や今野寿美、さらに米川千嘉子や俵万智と続き、特に女性歌人の登竜門として否応のない重みを持つようになった。
三枝昴之「歌壇史における「河野裕子」 母なる大地に根をおろす」
特集では三枝昴之さんが総論を書いておられますが『昭和短歌の再検討』の著者らしく歌壇史に即した河野評も含まれます。河野さんの角川短歌賞受賞によって「男たちの突っ張りはあっさり崩壊」した――前衛短歌の方を向いていた同時代の歌人に衝撃を与えたというのは「あーなるほどー」です。角川短歌の権威を強調したいわけではなくて文学の流れは常に複数あるということです。
一九六〇年代から七〇年代の歌壇で最も重要なのは塚本邦雄や岡井隆に代表される前衛短歌の流れでした。まだ多くの歌人の視線が前衛短歌に釘付けになっていた時に河野さんはスルスルっとそれを抜けてデビューしてきた。その女性歌人の流れが俵万智さんまで続いているという三枝さんの指摘は示唆的です。今はまだ見えにくいところがありますがこの流れが将来前衛短歌と平行する重要な短歌の流れとして多くの人に認知される可能性はじゅうぶんあると思います。
わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり
たとへば君 ガサツと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
言ひかけて開きし唇の濡れをれば今しばしわれを娶らずにゐよ
青年は背より老いゆくなだれ落つるうるしもみぢをきりぎしとして
坂の上異様に赫く昏れゆきぬ坂の向かふに何かあるごとく
河野裕子 処女歌集『森のやうに獣のやうに』(昭和四十七年[一九七二年])
河野さんの処女歌集『森のやうに獣のやうに』は清新な青春歌と言われましたが今読み返すとやはりそれだけではありません。もちろん若さの特権と言える燃えるような恋愛歌はあります。しかしどこか醒めています。大きな熱を抱えながら自己も他者も相対化して捉えている冷たさがある。そして「坂の上異様に赫く昏れゆきぬ」の歌のように不気味で不可思議ななにかを見つめ求めている気配です。
その瞬間も私はかたく眼を閉じていた。やがて生まれたばかりの子供がつれて来られ、枕元におかれた時も眼を閉じていた。外は日の翳った水底のようにほのぐらく、やはり蟬の声はきこえていたのである。そしてそれは陣痛のさなかに聴きすがっていた、あのおびただしい数の蟬の声ではなく、ただひと筋にしんしんしんしんとうち続くひとつの蟬の声であった。
産後幾月もたった今、かつて少女の頃に作った歌の中に、
産み終へし母が内耳の奥ふかく鳴き澄みをりしひとつかなかな
という歌があったことに気付き、今更のように母と私の符牒の不思議さを思わずにはいられないのである。
河野裕子「我が歌の秘密」(「短歌」昭和四十九年[一九七四年]三月)
特集に再録された河野さんを代表するエッセイです。長男永田淳さんを出産した直後に書かれました。多くの母親のように子供を得た溢れるような喜びはほとんど書かれていません。河野さんが陣痛の最中に聞いていた蟬の声は明らかに死の表象です。それが子供を出産したことで「しんしんしんしんとうち続くひとつの蟬の声」に変わったと読める。つまり人間の生が茫漠と孕んでいる死が子供を生んだことで一筋になった。
もちろん河野さんが出産の際に死を覚悟したということではありません。虚無主義者だったわけでもない。ただこの歌人は若いころから表裏を見るところがある。生は死と対でありそれは誰も逃れられない。だからこそあっけらかんとした明るい歌も生まれたりするわけです。その逆に死を意識するときは生が地続きになって現れてくる。
元気ならば生きゐることは楽しからむ烏だつてさうだこゑ鳴き分けて
なつかしきこの世のかたみに黒かみの一束が欲しそれも失せたり
子を産みしかのあかときに聞きし蟬いのち終る日にたちかへりこむ
河野裕子 第十五歌集『蟬声』(平成二十三年[二〇一一年])
河野さんの第十五歌集『蟬声』はご家族によってまとめられた死後刊です。河野さんは乳癌になり再発してお亡くなりになりました。これらの歌は絶唱と言っていいでしょうね。闘病中の短歌に秀作が多いのはよく知られています。絶唱は文学として検討し難いですがやはり文学として深く考えるべきです。
ちょっと極端なことを言いますと平安の昔から歌人は絶唱と闘ってきた面があります。魂極まるような歌が短歌では名歌と言われてきたわけです。ただ絶唱は詠もうと思ってもそう簡単には生まれない。また無理な絶唱は鼻につきます。しかし歌人はどこかで短歌の最高峰が絶唱にあることを意識せざるを得ないところがあります。
絶唱への対処方法は歌人様々です。子規が実朝を理想に写生短歌を推奨したのは人間の平時の生こそを歌うべきという姿勢だったからという面があります。脊椎カリエスで七転八倒の苦しみを味わいましたが子規は古典的な絶唱歌を書き残していません。子規らしい絶唱との――あるいは死との闘い方です。
では河野さんは絶唱を詠もうと思って詠んだのか。あまり意識はしていなかったでしょうね。歌業の最初から死の予感はあった。生と死は裏腹でした。天啓のように絶唱が生まれただけという気配です。
現代に近い時代に生まれていたら河野さんは口語短歌を詠んだのだろうかと考えることがあります。詠んだでしょうけどスルスルっと文語体に抜けられる道筋を残しておいたでしょうね。河野さんが抱えていた地続きの生と死は本源的なものだからです。言葉の新しさは相対的で時間が経てば色あせることがほとんどです。しかし文語は永遠に属する。口語の時代ではなおそうです。本源的主題を抱えた歌人は永遠に属する語法を手放さなかっただろうと思います。
いろいろなことを考えさせられる歌人です。河野さんの歌業についてはこれから何度も検証が為されると思います。
高嶋秋穂
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