今月号には「生誕100年 塚本邦雄の描写力」の特集が組まれています。生誕百年かぁと思ってしまいました。塚本さんは二〇〇五年に八十五歳でお亡くなりになりましたが考えてみると微妙な時期ですよね。しばしばゼロ年代と呼ばれるように二〇〇〇年くらいから社会が大きく変容しています。それまで残存していた戦後文学の遺風が消滅して新たな時代のヴィジョンを模索しなければならない過渡期に突入したわけです。この試行錯誤はいまだ進行中でニューウエーブ短歌もその一つであるわけです。
俳句の世界では一九九〇年代まではかろうじて残存していた重信系前衛俳句の遺風が本当に消滅してしまいました。自由詩の世界では現代詩の影響力が完全に霧散した。小説の世界でも変化は大きい。まだなんとか誤魔化しながらやっていますが芥川賞に代表される私小説系の純文学の影響力は風前の灯火です。自由詩の世界で起こることは遅れて小説の世界でも起こる傾向が強いですがこのままだとかなり厳しいことになりそうです。しかし短歌の世界では戦後文学というより前衛短歌はまだ生きています。特に塚本短歌は時代の大きな変化にもかかわらずかなりの部分が生き残りそうな気配です。それはなぜなのかは興味深い問題です。
塚本邦雄の『黄金律』の長い書評を、二十二歳のときに書いたことがある(「現代短歌雁」二〇号・一九九一年)。あの時は本当に、手が震えながら書いた感じだった。原稿の段階で永田和宏さんに読んでもらったのだが、
鯖の血の痕ある村を驅けぬけて國道に出づ國の道とは 『黄金律』
という歌について、だいたい次のような会話をしたことを憶えている。(中略)
「この歌は、「國道」という言葉は普通に使われているけど、「國の道」と書いたら恐ろしい、という意味ですよね。ナショナリズム批判だと思いますが、言葉遊びにすぎないんじゃないでしょうか。」
「下の句にばかり目がいくんだけど、上の句の情景がくっきりしている歌で、あんまり否定しないほうがいいと思うな。」
当時の私は、短歌を〈部分〉だけで読んでいた。そのことに気づかされたから、このときの会話を今も記憶しているのだと思う。塚本の歌には、すごく目を引くフレーズが現れることが多い。しかし、その背景には緻密な描写があり、それがアフォリズム的なフレーズに深みを与えているのである。
吉川宏志「鯖の血と二重封筒」
二回続けて吉川宏志さんの批評を引用しましたが塚本の思想ではなくそのリアルかつ喩的な表現に焦点が当たっている批評だからです。今回の特集は歌人の血を沸き立たせるようでどの執筆陣も意欲的な評論を書いておられます。塚本短歌は特別なんですね。
吉川さんはまた「短歌で、目に見えるように物を描くには、単に情景を言葉でなぞっているだけでは不十分な気がする。新しい視点で物が見えた、という驚きを読者に与えなければ、印象は残っていかない」とも書いておられます。このあたりが塚本マジックでしょうね。塚本といえば戦後思想ですがそれはどんどん色あせています。しかし塚本短歌の魅力は健在です。思想と修辞がリンクしているからですがしばしば修辞が思想を上回るからでもあります。
石鹸積みて香る馬車馬坂のぼりけり ふとなみだぐまし日本 『日本霊歌』
ポリエチレン袋の蜆さげて佇つ一市民、再た英雄待てる
安息日すべり臺より家族らが欣然と累なり墜つる惨劇
『日本霊歌』には、見終わったのち幾度も反芻される映画の一場面さながら、描かれた光景によって印象に残る歌が数多くある。島内景二による歌集解題の言葉では「人間の心に何層にも重なっている「影像=映像」を一つだけ鮮烈に切り出し、三十一文字の言語の中に定着させる組織力」が卓越している(中略)。
だが、塚本の描写力は写実主義とは異なる。穂村弘が対比するとおり、後者が「対象を言葉で虚心に写し取る〈写生〉という理念を軸に展開してきた」のにたいして、塚本の歌は「言葉のフェティシズム」に基づいており「言葉をモノにしてしまった時代」の産物である(「短歌の友人」)。私なりに敷衍すれば、塚本は主体の目が捉えたものを歌に留めるために描くのではない。選りすぐりの言葉によって読者の脳裏に事実非事実の境を超えた映像を喚起するところに表現の主眼は置かれている。
島田幸典「卓越した映像喚起力――虚実を超えて」
島田さんもまた塚本の思想ではなくその独自の描写力を論じておられます。もちろん思想は重要ですがそれが言語表現にどう昇華されているのかが評論のように論理的に説明するわけではない創作の醍醐味です。
塚本という歌人は思想的で理知の人のような雰囲気ですが想像界を大事にした人だと思います。「馬車」が「馬坂」を登るということはそれが通い慣れた道であることを示しています。そして馬車に積まれた荷は「石鹸」である。恐らく四角く白い。「馬」「馬」の重なりに「石鹸」が重なり白の無意味と読むこともできますがそれ以前にこれらは作家が見ている情景ですね。「ポリエチレン袋の蜆さげて佇つ一市民」も同じです。ある情景が見えてそれが言語化される。
「安息日」の歌は「欣然と累なり墜つる」がこなれない表現でありながらなぜか説得力を持っています。今度は「欣然」という感情表現と「累なり」という状態と「墜つる」という動詞が情景として見えているからでしょうね。
塚本短歌は現代のニューウエーブ短歌と近しいところがあると思います。戦後思想ではありません。その重要性はいまだ健在な部分がありますが大半は過去のものです。また特別な思想ではありません。今の若者が戦後の時代を生きていれば多かれ少なかれ戦後思想を抱くことになる。そうではなくて言葉の生成方法ですね。
ニューウエーブ歌人に限りませんが現代歌人は現実をあまり信用というか重視できないようになっていると思います。自然風物の写生が新鮮で斬新な表現を生むとは信じられないでしょうね。それでは言葉が精神に食い込んだ感じがしない。かといって現実を題材にしてそれを作家の内面でフィルターをかけた喩として表現するのもなんだか物足りない。そのためザラザラとした現実存在物を丸のまま投げ出しかつそれは無意味だという表現になりがちです。
相対的に見れば新しい表現でありながらニューウエーブ短歌はどん詰まりに近づきつつある気配なのですがこれを超克する方法はやはり思想だと思います。塚本は戦後思想の人であり前衛表現の歌人ですが両者は深くリンクしています。
塚本短歌の存在物は俗なモノが多いわけですがそれは現実事物の組み合わせという感じがしない。塚本の意識下で見出されたモノが現実物となって言語化されている気配です。それを可能にしているのが思想でしょうね。神話的とも根源的とも言える想像界をフル活用した歌人ではありますがそれが混沌すれすれのところからある秩序として立ち現れてくるためには思想が必要だということです。この思想が戦後思想として色あせたとしても塚本の言語生成方法はいまだ斬新なわけです。この塚本短歌のあり方は現代最先端の短歌にも援用できると思います。
寄港地のくらい夜明けに火夫たちがひらくくらげの解剖圖など 『水葬物語』
遠い盬湖の水のにほひを吸ひよせて裏側のしめりゐる銅板畫 『水葬物語』
亡命の旅にしたがふ妃らがえりに縫ひこみわすれし耳環 『水葬物語』
聖ピリポ慈善病院晩餐のちりめんざこが砂のごとき眼 『装飾樂句』
五月來る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり 『綠色研究』
塚本には五七五/七七で空白を空ける歌も多いのですが一行棒書きのような歌が優れていると思います。特に今の時代ではそうでしょうね。
短歌は日本語表現における最も原始的な世界分節です。言語が未熟な時代には長歌が盛んだったわけですが書き文字の流入と同時に五七の長歌に七七を加えて止める和歌の形式が成立しました。しかしこれは歪な形であり短歌はさまざまな形で声の朗唱とともにありました。短歌の原初には果てもなく続く長歌の世界があるわけですが一行棒書き短歌は実はそれに最も近い。切るより続く方が短歌の源流なのです。
高嶋秋穂
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■ 金魚屋の本 ■