今号には特集「派手な歌、地味な歌」が組まれていて巻頭に吉川宏志さんが「出で栄えと〈場〉」という総論を書いておられます。スッキリとして読みやすく納得のできる批評です。
「派手」という言葉の中には、すでにマイナスのイメージが含まれている。テレビでは、「容疑者の○○は、派手な生活で知られていた。」なんて、よく使われるじゃないですか。先入観のある言葉を使って批評するのは、なかなか難しい。
そんな場合、古典和歌ではどんな言葉を使って評をしていたのだろう、と考えてみるのが、有効な方法の一つだ。鴨長明の『無名抄』などがとても役に立つ。
源頼政が、歌合にどの歌を出すか迷っていた。俊恵法師に見せると、
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関
を選び、この歌は能因法師の〈都をば霞とともに去りしかど秋風ぞ吹く白河の関〉に似てはいるけれど、「出で栄えすべき歌なり」と述べたそうだ。そして、歌合にも勝ったという。
「出で栄え」とは、「人前でいっそう目立つこと」という意味で、これが今回のテーマである「派手な歌」に近いのではないかと思う。
吉川宏志「出で栄えと〈場〉」
「派手な歌、地味な歌」というお題を与えられてパッと八百年近い時間を昨日のことのように遡れるのが短歌のいいところです。源頼政の歌を例にあげて「「出で栄え」とは、「人前でいっそう目立つこと」という意味」だという吉川さんの言葉にも説得力があります。なるほど頼政の歌は能因法師の先行歌に比べれば魅力は劣るかもしれません。しかし歌合で詠まれる――朗読される歌です。「青葉」「紅葉」「白河の関」と青赤白が並びます。歌合では実に栄える和歌ですね。
頼政は言うまでもなく源三位。平家時代の人ですが色恋に長けていました。宮中女房らに和歌を送るなどしてツテを作りようやく従三位に叙せられたといいます。もちろん源氏なのですが京源氏なので板東源氏との繋がりはほとんどありませんでした。
しかし以仁王が挙兵すると頼政は突如雷同して兵を起こします。清盛が「あの頼政がなぜ」と言ったと伝わります。武人として名高い人ではなかった――というより軟弱な女たらしのイメージがあったのですね。
頼政はあっけなく宇治平等院の戦いに敗れ自害します。一族郎党引き連れての玉砕ではなく身内を板東源氏に逃がしていた。源平合戦が終わり源氏の世になると頼政遺子が報償を受け家を安堵されたのは言うまでもありません。「出で栄え」にふさわしい人生を送った人でもあるわけです。能に『頼政』があります。
一九九三年だったか、NHKのBS歌会という番組に、岡井隆が出ていて、
スキャンダラスな記憶の中に照る池を重ねて憶ふ午の水際に
(後に『神の仕事場』に収録)
という歌を出したのにも度肝を抜かれた。
これも典型的な「出で栄え」の歌で、テレビという衆人環視の場で「スキャンダラス」から始まる歌を出す豪胆さに圧倒されるのである。(中略)
〈場〉とは、必ずしも歌会だけではない。今という時代に対して、どのように言葉を発するのか、という期待は、特に新人に対して強くのしかかる。そんなプレッシャーの中で、期待以上の驚きを与える言葉で打ち返すのが、本物の新人だといえるだろう。
男性の吐瀉物眺める昼下がりカニチャーハンかおれも食いたい
佐佐木定綱『月を食う』
韓国と日本どっちが好きですか聞きくるあなたが好きだと答える
カン・ハンナ『まだまだです』
時代の閉塞感、または日韓関係。難しい問いである。しかし佐佐木は、それでも食う(生きる)と答え、カンは好きを超える〈好き〉があると答える。怯まない答えを返すところに、真の華やかさが生まれるのだ。
同
八百年まえの歌の記憶から始めてスッと現代に帰ってきます。歌人にとっては当たり前のことでしょうがほかの文学ジャンルではまずないことです。兄弟姉妹である俳句で「派手な歌、地味な歌」のお題が出れば十人中九人までの俳人がそれぞれが派手と思う例句をあげて用語や切れの使い方を論じて終わるでしょうね。俳句では古典と現代作の間に短歌ほど落差がないのです。また頼政や岡井隆さんのような個の輪郭が俳句では薄い。岡井さんは現代では珍しく駆け落ち失踪した歌人です。そんな方が「スキャンダラスな記憶の中に」と詠い出せばドキッとしますね。
吉川さんはまた「出で栄え=人前でいっそう目立つこと」を現代若手歌人である佐佐木定綱さんとカン・ハンナさんの歌を例にして論じておられます。新人には「今という時代に対して、どのように言葉を発するのか」という問いが課せられます。この問いに正面から答えるのが新人の義務であり新人として認知されるためのハードルだと言っていいでしょうね。
様々な回答方法があるわけですが佐佐木さんとカンさんの答え方は意味にあります。正確には意味重視です。歌の意味が現代を訴えかけるわけですがもちろん短歌という型も重要です。五七五七七と俳句より七七長いだけですが短歌は短い文として読めます。最後の分節まで意味がどこに届くのかわからない。佐佐木さんもカンさんも最後で意味が落ち着きます。そこに至るまではスリリングな歌です。
おでん しかも大根として生きてゆく わたしはわたしの熱源になる
ツューズショップと書かれた字(これは油性)人が人を懲らしめている
手をつないで 正しくは手袋と手袋をつないでツナ缶を買って海へ
髪の毛がごわごわじゃんか人間の髪をごわごわさせる海風
これまでの歌はすべてが僕の夢、夢だから責任はとらない
あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている
柴田葵『母の愛、僕のラブ』
歌壇時評の寺井龍哉さんの批評からの孫引きですが柴田葵さんの処女歌集『母の愛、僕のラブ』の歌です。寺井さんが「同名の五十首連作が第一回笹井宏之賞を受け、その副賞として出版されたものだ」と書いておられます。柴田さんの歌にももちろん意味はありそれは切実な意味でもあるのでしょう。しかし微妙ですが修辞の方に新しさがあると思います。
これは個人的な感想に過ぎませんが私なら柴田さんの連作に賞は授与しないですね。「これまでの歌はすべてが僕の夢、夢だから責任はとらない」という一首で候補から外します。文学では作品で書かれている以上の意味は読み取らないのが大原則です。自己の作品に「責任をとらない」作家の作品は評価できません。なぜかと言えばこれからも作品を書いてゆくかどうか危ういからです。創作者として立つという覚悟が感じ取れない作家に新人賞を餞にすることはできません。
ちょっと苦言を書いておくと若手歌人は少し脳天気で利己的なところがあります。歌壇は比較的お金が集まるジャンルなのでいろいろな仕事が落ちています。若手でちょっと目立つ歌集なりを出すと小さな仕事が降ってきたりするわけですがたかがそんな仕事で有頂天になっている若手がチラホラ見受けられます。しかし一冊二冊歌集を出したところでたいした実績ではありません。夭折するつもりならともかくほとんどの歌人は今後五十年八十年といった時間を創作者として乗りきっていかなければなりません。ご祝儀に近い仕事くらいで有頂天になっているのはあまりにナイーブです。
これらの発想は手法から、歌集は漠然と新しさを感じさせる。だがそれはもちろん、これまでにまったくなかった性質が出現した、ということではない。短歌を読んできた私の目の前に提示されて、私に短歌として理解されてあるということは、これらの歌のあり方が、確実に既存の短歌のあり方に多くを負うているということを示す。「つなぐ」の反復から「ツナ」を導くのは、序詞を連想させる点で和歌的だとさえ言える。
だがたとえある表現が既存の短歌の発想や形式から大きく逸脱していたとしても、それを逸脱ととらえることができる限りにおいては、やはり既存のものとの関係から語られうるということだからだ。矢は弓を離れても、弓と無縁の箸ではありえない。この詩型を用いる限り、用い方はもちろん自由だが、表現は明確に意識しえないほどのさまざまな制約や規定のもとにある。それでもそれを乗り越えようとするところに、柴田の歌集の妙味もある。
寺井龍哉「大いなるものを怖れよ」(歌壇時評)
私の個人的感想とは別に柴田さんの歌集をどう受け取るかには意味があります。寺井さんは「たとえある表現が既存の短歌の発想や形式から大きく逸脱していたとしても、それを逸脱ととらえることができる限りにおいては、やはり既存のものとの関係から語られうる」と的確に批評しておられます。
現実感が薄くて世界とリアリティのある結びつきが得られずしかし内面では自我意識が世界の中心となってしまっているのは歌人に限らず現代ではしばしば見られる傾向です。『涼宮ハルヒ』的な心性です。自我意識が肥大化しながら世界で拠って立つべき基盤がないという心性を詠う歌人は非常に多い。しかしそろそろこの閉塞から抜け出して欲しいですね。
〝逸脱〟という逃げは賞味期限が切れかけています。ステレオタイプ化し始めている。短歌は個の心象表現ですから世界(外部)と無縁に甘いモラトリアムで済む傾向があります。どうしてもそんなぬるい状態から抜けられないならいったん短歌は止めた方がいいかもしれない。成功するかどうかは別として小説など現実世界の俗と切り結び短歌ほど気軽ではなく膨大な時間と労力を創作者に課す表現を試した方が回り道のようで得るものがあるかもしれませんよ。
高嶋秋穂
■ 吉川宏志さんの本 ■
■ 柴田葵さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■