今月号は「俳句と哲学」と「詠むのは花鳥か社会か」の二つの特集が組まれている。それとは別に「追悼 中曽根康弘」の小特集も掲載されている。中曽根元首相の追悼が掲載されたのはたまたまだが、二つの大特集とちょいと関連しているようで考えさせられてしまった。
俳句を詠むのにもちろん哲学は必要である。難しい哲学でなくとも、俳人ごとに俳句哲学がなければ一貫した作風にならない。また俳句で花鳥風月を詠むのはその表現の伝統から言って当然である。すべてカタカナ外来語で書かれた俳句や、わたしはこう思う、こう考えるの主張で満たされた俳句など読めたものじゃない。ただ自然諷詠一辺倒でいいのかと言えば、もちろん足りない。
積極的な社会的発言が必要という意味ではないが、現代作家はすべからく作品で現代を表現する義務を負っている。でなければ古典を繰り返し読んでいればいいことになってしまう。現代俳句には最低でも広義の〝現代社会性〟が必要なわけだ。ただしこれは兜太らの戦後社会性俳句とはまた別の問題である。兜太らの社会性俳句も現代的表現としての社会性表現であったわけだが、戦後社会と密接に関係しているわけだから、まずは俳句史の問題として考える必要がある。
とまあ、文学はとても融通が利くジャンルである。俳句といった短い表現でも哲学や社会性を俎上に論じることができる。もっとざっくばらん(そういえばこの言い方は最近ではほとんど死語に近くなっていますね)な言い方をすれば、文学はケツをまくってしまえるから楽しいのだ。
もちろん文学者でもエエカッコしいの作家はたくさんいる。しかし文学が最も輝きを見せるのは人間が矛盾に直面した時である。死の恐怖でも出世欲でも金銭欲でも道ならぬ恋でもなんでもいい。人間存在は矛盾だらけである。その矛盾を丸ごと抱えて表現できるから文学というまだるっこしい表現が人間世界から消えないのである。つまり人間存在の全体性を表現できる器として文学というものはある。
これに対して政治家は表しかない。そこそこの値段のお中元やお歳暮をいくらもらってもとがめられないが、お金だと少額でも大問題になる。奥さんとか以外の女性に惚れてもヤバい。袋だたきにあって地位も名誉も失う。それはまあ足元に潜む陥穽だが、表の仕事で政策を実行しても必ず反対勢力がいる。特に首相ともなれば毎日袋叩きだ。日本は大きな船であり、ちょっと船の方向を変えただけで甲板から海に落ちそうな人が出る。それを承知で政策を実行しなければならない。表向き清廉潔白で毀誉褒貶の吹き溜りというのが政治家である。ケツをまくってしまえる文学者から見ればあまりうらやましい仕事ではない。
ベルリンの壁(ドイツ国公式訪問とボン首脳会議出席4・30~5・7)
壁こえて薫風旗を翻す
ガダルカナルと珊瑚海(夏)
安けく眠りたまうや海灼けて
長崎原爆記念式典にて(八月九日)
慟哭にぬかずく丘の蟬しぐれ
一期一会(十一月十一日 日の出荘にレーガン米大統領を迎えて)
したたかと言われて久し栗をむく
内閣総理大臣に就任して(十一月二十六日)
はるけくも来つるものかな荻の原
硫黄島にて(四十六年)
夏雲のかなたに父母の名を呼びて
バリクパパン戦場(十六年十二月)
戦友を焼く鉄板かつぐ夏の浜
『中曽根康弘句集』より(抄出・編集部)
高位高官の文学作品を評価するのは難しい。そりゃどうしたって表芸の、高い社会的地位が作品に投影されている。実際どれもサラリと流した挨拶の句だ。ただ中曽根元首相が、表芸の息抜きに俳句を活用したのは確かだと思う。そういうものとして読んだ方がいい。
ちょっと前にNHKで「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた」が放送された。番組をごらんになった方も多いだろう。渡辺恒雄さんは言うまでもなく読売新聞グループ代表取締役主筆で、政治家ではないがほとんど政治家に準じるような毀誉褒貶の吹き溜りである。
中曽根元首相に関しては「中曽根を風見鶏だって言うのは甘いね。岸信介を見ろよ。アイツは日米開戦の詔勅にサインした男だぜ。アメリカ大嫌いだったんだ。それが戦後に首相になって、日米安保締結で政治生命を賭けたんだ。政治家なんて、そんなもんだ」と言っていたのが印象的だった。
また中曽根さんや田中角栄が従軍派で、特に中曽根さんは南方の激戦地、ミンダナオ島やボルネオ島で部隊を率いて戦ったことは知らなかった。「戦友を焼く鉄板かつぐ夏の浜」は実体験に基づいているわけだ。ただ政治家時代に中曽根さんも角栄さんも従軍体験をあまり語らなかった。厳しい現実世界の舵取りの前では、そんなことを言ってもしょうがないと見切っていたのだろう。もちろん現役の間はどんなに辛くてもテレビカメラの前で泣いたりしない。泣く政治家は失格で、とても重責は負えませんねと政治家仲間から見切られる。
政治の世界は一筋縄ではいかない。文学の世界だって激しい鞘当てやテリトリー争い、利権の奪い合いなど様々な人間的衝突がある。実利に直結した政治の世界が文学とは比べものにならないほど厳しいのは言うまでもない。
別に美化しているわけではないが、政治家には政治家の矛盾まみれの哲学と社会性がある。表芸の政治の世界から、個の感慨がふと文学に抜けることがある。文学者の場合は逆で、最初はもう本当にどうしようもない利己的な個の表現欲から大きな社会に抜けることがある。それをできるだけ高いレベルにまで持ち上げるのが文学者の理想というものだ。文学者なら誰もが目指してみた方がいい高みだとも言える。
青臭いことを言えば文学者はやはりマジメでなければならないと思う。大真面目に、考え抜いて、矛盾だらけの人間存在の全体性をなんとか文学で表現するのである。そのためには哲学も必要だし鋭敏な社会性も持っていなければならぬだろう。ただし数の力を恃む政治家のような文学者には「阿呆か」と言ってよろし。本質的に実利と無縁の文学者は強い信念を持っていなければ図抜けた作品を書けない。
このような人間・社会・地球の内外の危機をどう受けとめどう対応するか。私たちが自立へ向けて努めてきた近代的自我が、グローバルな新自由主義の下で、「欲望の自我」となる中、私たちは地球という大きな「いのち」の「存在」のひとつとして、この世の「いのち継ぎ」にどう関わるべきか。また、こうした危機を文学とりわけ俳句の課題としてどう受けとめたらいいのか。これは、単なる「自然」を詠むか「社会」を詠むかといった「社会性」のレベルを超えた大きな「現代的課題」であり、この俳句の「現代性」がいま問われている。
岩岡中正「社会性から現代性」へ
特集「詠むのは花鳥か社会か」に掲載された岩岡中正さんの論である。岩岡さんは花鳥と社会を対立させるのはあまり意味がないというお考えだ。「欲望の自我」となりつつある現代では、俳句的な花鳥の方がむしろ有効ではないのかと示唆しておられる。
僕も岩岡さんのお考えに賛成だ。ただ単に俳句で花鳥風月を詠めばいいという意味ではない。歴史をたどればすぐにわかるが、社会性は俳句に後から付加された要素である。現代でも俳句の大勢は花鳥風月にあり、過去に遡ればもっとそうである。
ではなぜ俳句は花鳥風月なのか、その思想の根幹はなんなのかを明らかにすることが真に俳句文学の定義につながる。それは俳句を文学の世界の刺身のつまではなく、真に日本を代表する文学にまで高めるはずである。また俳句が持っている根本思想は現代社会に厳しく対立する。つまり花鳥風月を越えた社会性になり得るのである。
岡野隆
■ 中曽根康弘の本 ■
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