今号の表紙に「大特集 「プレバト!!」はなぜ人気があるのか?」と印刷されているのを見て嬉しくなってしまった。商業句誌はたくさんあるが、ストレートに「プレバト!!」に斬り込むことができるのは「俳句界」だけでしょうね。ただ「プレバト!!」をご存じない方もいらっしゃるので、編集部の特集リードを全文掲載しておきます。
「プレバト!!」とは、毎週木曜日の19時から放送されている、毎日放送(MBSテレビ)制作のバラエティ番組である。2012年10月から、六年半以上続いている人気番組だ。現在は、前半に「俳句の才能査定ランキング」を、後半に他ジャンルを放送している。俳句の人気は高く、近年「プレバト!!」をきっかけに俳句へ入門する人も多い。
俳句を査定する夏井いつき氏は、「全国的な俳句ブームを牽引」したとの理由で、2017年度の放送文化基金賞を受賞。2018年4月からは、関西地区の週間ランキングでは、朝の連続テレビ小説シリーズ(NHK総合テレビ)に次ぐ高視聴率となることが多いという。「テレビ離れ」も叫ばれる中、「プレバト!!」はなぜこんなに人気があるのだろうか。生の声を聞くことで、番組の人気の秘密に迫る。
少し補足しておくと、メインの司会はダウンタウンの浜田雅功さんで、俳句を詠むタレントは梅沢富美男、立川志らく、東国原英夫、千原ジュニアさんらが常連で出演しておられる。
で、実際に「俳句界」を開いて読みはじめたのだが、前号の「大特集 森澄雄」に比べて実にあっさりしている。特集は「特別対談 夏井いつき × 姜琪東(「俳句界」発行人兼編集総務)」と編集部による「インタビュー 水野雅之(毎日放送総合演出)」の二本だけである。
変な言い方だが、このあっさりした特集構成を見てまた嬉しくなってしまった。「俳句界」発行人の姜さんがインタビュアーとして出てこられ、しかし俳人たちの関連エッセイなどがないのは当然のように感じられる。要するに正直な誌面構成である。
特集タイトルは「「プレバト!!」はなぜ人気があるのか?」だが、若手中堅俳人たちはSNSなどで盛んに「プレバト!!」批判を行っている。まあはっきり言えば、特集タイトルは「「プレバト!!」はなぜ俳人たちに嫌われるのか?」でもよかったわけである。「俳句は神聖な文学なのに、タレントがお遊びで俳句を詠むバラエティ番組にしてしまうのは許せませんっ!」ということだ。
姜さんはそんなことは重々承知で特集を組まれたのだろう。勇気がある。またそこに「俳句界」総元締めとしての姜さんの姿勢が表れている。「俳句界」という雑誌のカラーもそれによって明らかになる。もちろん僕は姜さんに賛成である。
姜 今後、「プレバト!!」が長寿番組になって、より多くの人に俳句が面白いと思ってもらえるようになったら嬉しいですね。
夏井 はい。そして、俳句の裾野を広げる活動につながっていけばと。これまで、俳句の世界に俳人を供給するためというよりは、百年のスパンで教育や文化を考えて、俳句の裾野を広げて豊かにしておくことで根くされしないように、という思いで活動してきました。
それは、俳句甲子園も全く同じで、将来の若い俳人を育てるためではなく、教育の現場としてやっている。その中から、ほんの少しの人でも、俳人として、いろんな仕事をしてくれる人が出てきたら、それはもちろんうれしい副産物だと。
そういうイメージでずっと俳句の種まきの活動もしてきましたし、「プレバト!!」も全く同じ感覚です。(中略)うっかりバラエティ番組をみてみると、着物のおっかない先生が、芸能人をボコボコにやっている。それを最初はゲラゲラ笑っているんですが、そこから「助詞ひとつ変えてこうなるって何だろう?」と興味をもってくれればと。
俳句云々というよりも、「日本語ってすごいじゃない?」という認識、知的好奇心を持ってほしいというのが、私の活動のひとつの目的なんです。
姜 それは、俳壇が最もやらなくてはいけないことですね。
「特別対談 夏井いつき × 姜琪東」より
夏井さんの日本語表現、あるいは日本文化の理解を深めるために俳句を活用するという姿勢は文句のつけようがない。俳人たちは口を開けば「俳句は日本独自の文学であり日本文学を代表する文学である」と言っているわけだから、それがテレビで取り上げられても不思議ではない。実際、教育テレビのNHK俳壇のメインは投句された作品の添削指導であり、夏井さんはそれをゴールデンタイム用に少しだけ面白おかしくしただけである。
また俳句に一所懸命な一般俳句愛好者より芸能人の俳句が劣るとは絶対に言えない。まあハッキリ言えば、一芸に秀でた芸能人の方が、本気になれば俳句でも力を発揮できる可能性が高いと思う。渥美清も夏目雅子も俳句を詠んだが、彼らの俳優としてのパブリックイメージに沿った句をキッチリ詠んでいる。兜太が社会性俳句で頭角を現し、その延長線上に彼の俳風を作っていったのとなんら変わらない。俳句には作家の人間性が表れると言うなら、芸能人の方が作品で人間性をアピールしやすいだろう。
とまあ、杓子定規なことを書いたが、「プレバト!!」に関してはケツをまくってしまった方がいいだろう。かなりの数の専門俳人たちが「プレバト!!」に反感を抱くのは、「俳句はお遊びではない」と考えているからである。しかし実際は違う。現状を見回してみたら誰だってわかる。俳句は実体としてお遊びである。
俳壇というところは矛盾だらけだ。マジョリティはお遊びで推移しているのに俳人たちは「俳句は文学だ」と言いたがる。お遊びの人を結社などに勧誘し、新聞雑誌などに投稿させ、彼らをターゲットに雑誌や書籍を刊行してゆかなければ俳壇はにっちもさっちもいかない。ハッキリ言えば、どーしようもない素人俳人たちを俳句の世界に引き込んで、おだて上げていっぱしの俳人だと思い込ませて肥やしにしながら、俳壇トップに立つと「私が俳句文学の代表でございます」という顔をする。そりゃ矛盾だわなーと誰だって思う。
現に「プレバト!!」を批判する人の多くは、「プレバト!!」が俳句をバラエティ番組にしてしまったことを批判するが、夏井さんへの批判はほとんどしない。なぜか。若手中堅俳人だって、俳壇内で多少出世すれば、夏井さんと同じようなことをやり始めるからである。結社で偉くなればしょーもない俳句の添削をやらなければならないし、出版社から企画本の話が来ても、その大半が初心者向けのノウハウ本の執筆だ。
簡単に言えばいくら「俳句は文学でございます」と主張しても、それを裏切る人は必ず身内から出る。身内だけではない。ほとんどの俳人が一定の影響力を持つポジションに立てば、たいていは生半可な素人で終わる俳人たちを指導し、俳壇の肥やしにする汚れ仕事に従事することになる。俳人の活動は矛盾だらけで「俳句は文学だ」というのはキレイ事に過ぎない。汚れ仕事じゃないのであれば、夏井さんのような姿勢の方がよっぽど正しい。
俳人が本当に頭が悪いと思うのは、こういった重大な矛盾を犯しておいて平気でいるからである。これだけバカの一つ覚えのように「俳句は文学でございます」というタテマエを主張する俳人が多いなら、「いや俳句はお遊びだ」という立場に立ち、それでいて俳句を真剣に考える俳人が出てきても良さそうなものだが、ぜんぜん出てこない。カウンターとなる思考を持たずにグズグズ文句ばっかり垂れているから、俳壇は結局は長いものに巻かれろの出世競争になる。俳人は結局は権威に弱いではないか。普段は文句たらたらでも俳壇出世に繋がるならへいへいとそれに従う。
俳句は文学か? もちろん文学である。しかし小説や自由詩と同じ質の文学ではない。じゃ何によって俳句は文学であることを保証されるのか? それを明らかにするためには、よーく目を開いて目の前の現実を見つめ、俳壇が抱える呆れるような矛盾をまず解消することだ。現実との整合性を持たない「俳句は文学でございます」の阿呆陀羅経のキレイ事では百年経っても同じ愚行の繰り返しになる。
よく考えてみればわかるはずだが、俳句はお遊びであるということと俳句が文学であることはまったく矛盾しない。これは根本的に俳句について考えてみればすぐにわかるはずである。むしろ俳句事大主義に陥って「俳句は文学でなければならない」と考え詰める方が危険だ。それでは俳句の自在さを自ら封じ籠めるようなものだ。
夏井さんは「いつき組」を結成しておられるが、そこから第64回角川俳句賞を受賞した鈴木牛後さんが出た。近年稀に見る優れた俳人だ。夏井さんは俳句のお遊びという面に寛容だが、結果を出しているわけだ。
俳句がお遊びというのは結社や同人誌の飲み会で日頃のフラストレーションを発散させることではない。句会で和気藹々と旅行を楽しむことでもない。もっと俳句の本質に関わる問題である。俳句は結社だろうと同人誌だろうと、どうやっても大勢は集団的営為になる。わたしがこう思う、こう表現したいという自我意識の発揮では俳句からは新しい表現が生まれない。馬鹿騒ぎのお遊びのようでいて、ふと俳句の意表を衝くような表現が生まれるのが句会と呼ばれるお遊びの場の重要なところだろう。
「俳句界」代表の姜さんはもちろん夏井さんとは少し立場が違う。しかし「俳句界」を長い間読んでいると姜さんの俳句界への危機感はとても強い。夏井さんとは別の位相から俳句の世界の振興を目指しておられるのだろう。その一貫として俳句がお遊びであってもいいというお立場なのではないか。
俳句はお遊びだといったん認めてしまえば、どうしたってお遊びでは済まない方向に進む。「俳句は文学でござい」で凝り固まっている俳人たちよりも、お遊び俳句から出発した方が、特に今は効果がある時代だと思う。
岡野隆
■ 夏井いつきさんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■