今号には復本一郎さん司会で、パネラーが大串章、長谷川櫂、黛まどかさんのシンポジウム「俳句と虚構-文学としての俳句-」が収録されている。神奈川大学主宰の全国高校生俳句大賞授賞式で、その選考委員の先生方によって行われたシンポジウムの再録である。
俳句の世界には全国高校生俳句大賞などの公募賞のほか、俳人たちの協会や新聞社、自治体、結社などによる俳句賞が星の数ほどある。ちょっと才気のある若手俳人で、なんらかの賞の大賞や優秀作、佳作に選ばれたことのない人はまずいないと言えるほどだ。いわゆる俳壇は、有望な若手・中堅・ベテラン俳人に賞を授与することによって活性化を図っているわけだ。それだけ創作人口が多く、興味もお金も集めやすいジャンルなのである。
もちろん檀というか俳句というジャンルが一定のまとまりを維持するためには、オピニオン・リーダーのような存在が必要だ。当たり前だがそれは賞の受賞者ではなく選考委員の先生方が担っている。今回のシンポジウムは俳壇インサイダーと、俳壇と一般読書界の中間を目指す選考委員がパネラーで、意見が食い違ったところが面白かった。どちらか一方が正しいわけではない。俳壇はいつもこんなものだ。
問一 俳句は文学だと思いますか。(はい・いいえ[以下同])
問二 俳句に虚構があってもいいと思いますか。
問三 古典俳句の中で、あなたが好きな虚構俳句作品と思われるものを一句または二句お書きください。
問四 近現代俳句の中で、あなたが好きな虚構俳句作品と思われるものを一句または二句お書き下さい。
問五 あなたの俳句の主たる読者はどのような人々だと思われますか。
問六 あなたはこれからも虚構俳句に積極的に挑戦しようと思われますか。
問七 問六の理由を簡明にお答え下さい。
復本一郎さんによる事前アンケート
シンポジウムは復本一郎さんによる七つの問いの、事前アンケートを元に行われた。このうち問二から七については一応の議論が為されている。しかし最初の「俳句は文学だと思いますか。」という問いについてはまったく言及がない。「俳句は文学ですよ、当たり前じゃないですか」という前提で議論が行われている。このあたりが俳壇的思考の限界でしょうね。
短歌や自由詩、小説の世界で「文学や否や」という問いはまず起こらない。期せずしてかもしれないが、復本さんが最初に掲げた「俳句は文学だと思いますか。」という問いかけは俳句にとって本質的なものだ。「もしかすると俳句は文学ではないのではないか」、あるいは「短歌や自由詩、小説という文学と比較すると、俳句は質の違う文学なのではないか」という微かな疑念がなければ、問一のような疑問はそもそも生じない。
こういった場合、議論を面白くするためには誰かが「ええ、ええ、俳句は文学ではありません、少なくとも短歌や自由詩、小説と同じ質の文学ではありません」と挑発に乗っからなければならない。いわばそれが議論を盛り上げるためのお約束だ。ショーマンシップがあるならそのくらい気がつけよと思うのだが、俳人たちはすべからくその問いをスルーする。
その理由は俳句に関する思考を今までとは別次元の審級に導くことができないからである。俳句(俳壇)内部に逼塞すれば、何をやっても同じことの繰り返しになる。それぞれが俳句に関する意見を陳述して、これもアリ、それもアリで終わる。
長谷川 私は「一般の読書人」と答えました。その理由は「俳人、結社あるいは所属グループの人々」と「一般の読書人」は別々のグループがあるのではなくて、同心円状であって、いちばんの中心にいるのは結社、自分たちの仲間で、その外に俳人、俳句をやる人がいて、その外に一般読書人がいるという考え方です。
黛 わたしも、俳句を作らない人、作句をしない人にもわかる俳句を作ることを目指しています。
大串 長谷川櫂さんや黛まどかさんみたいな有名な方の作品はいろいろな人が読みたいと思います。でも、私の場合は、主たる読者は、一緒に俳句について語ったり、一緒に吟行したり、そういう結社の、あるいはグループの人たちではないかと思って、そう書いた次第です。
「問五 あなたの俳句の主たる読者はどのような人々だと思われますか。」に対するパネラーの回答である。長谷川、黛さんは一般読書界が読者ターゲットで、大串さんは主宰を務める結社誌「百鳥」の同人が主な読者だと回答しておられる。
俳句作品の読者は結社主宰や投句選者をしていれば自ずと増えるものなので評論を考えると、確かに長谷川さんや黛さんは一般読者を意識した文章を書いておられる。平明という意味では大串さんの文章も読みやすい。が、視線が俳壇内部に注がれているという傾向は否めない。ただし長谷川、黛さんの執筆活動が、俳壇を越えて広く一般読書界に届いているとまでは言えない。俳壇と一般読書界の中間と言っていいだろう。
俳人の散文は、その90パーセント以上が結社や同人誌の仲間の作品を論じることに費やされている。俳壇の中の、そのまた狭い結社や同人誌に精神が雁字搦めになっているわけだ。外から見れば徹底した身内びいきである。それがメディアの投句選者や賞の選考委員などになると、多少視野が開けてくる。広く俳壇を見回して、俳句全般を論じる姿勢が身につく。ただしそこからさらに広い世界に抜け出し、俳句・俳壇を相対化できる作家はなかなか出ない。
身も蓋もないことを言えば、壮年期で気力・体力の充実した俳人は、たいていは一般読書界で読者を獲得しようと試みる。俳壇に精神を縛られた状態から抜け出そうとするのである。しかしほとんどの場合その試みは挫折する。老年になるにつれて元の鞘に戻り、少数の仲間と肩寄せ合う俳壇の人になってゆくのがたいていの俳人の道行きだ。
虚子は俳句は趣味の文芸で花鳥諷詠だと言ってはばからなかった。俳壇ではいまだに虚子は神の如しで子規も尊敬されているが、両者とも俳句を明治維新以降の近代文学の中での文学だとは言っていない。少なくとも留保を付けて俳句を文学だと言っている。現代俳人がこれだけ虚子虚子と連呼しながら、なぜなんの疑問も持たずに俳句は文学だと言い切れるのか理解に苦しむ。
大串 「いいえ」と答えたのは、まず第一に「虚構の俳句」とは何だろうと思ったからでです。実際にはないことを作り上げるという意味、はっきり言うと「嘘」を書き上げるものというイメージがありますので、「虚構の俳句」、すなわち「嘘」に、積極的に挑戦するなんてことは絶対にないということで、「いいえ」と書きました。
長谷川 さっき大串先生がおっしゃった、想像力の働き、これが大事なことで、我々も大いに賛成ですし、大串先生も否定されるはずがない。そこの「想像力」とは一体何かと考えると、言葉自体が虚なのです。というのは、たとえば「雪」という言葉があるけど、その言葉は雪の実体とは違う。
虚構俳句に対する大串、長谷川さんの見解の抜粋である。そもそも論を書いておくと、司会の復本さんが虚構俳句を議題にしたのは、子規・虚子の写生俳句が現代俳句の圧倒的主流になっているからである。そのため俳句は写生だけでいいのか、俳句で虚構表現はアリなのか、ナシなのかという議論を持ち出したわけである。
大串さんと長谷川さんの議論が決定的にズレているのは誰の目にも明らかだろう。大串さんは復本さんの課題をキチンと踏まえた上で、子規・虚子の写生、つまり現実世界を写実的に捉える手法の対局にあるものとして虚構を捉えている。まったくの空想――大串さんの言葉で言えば「嘘」――を表現するのに俳句は適さないというお考えだ。
対する長谷川さんは、復本さんの課題を無視して抽象言語論に飛躍している。言語自体が人間が生み出した虚構であるわけだから、言語でできている俳句はすべて虚構だというお考えだ。しかしこれは意味がない。言語イコール虚構の一元論を唱えれば、すべてがフィクションということになり、フィクションとリアリティの対立軸がなくなってしまう。
言語と現実存在は基本的に一対一で結びついており、わたしたちはそれを日常言語と呼ぶ。日常言語は原則〝有本質〟であり虚構ではない。でないと社会が大混乱に陥ってしまう。わたしたちは日常言語世界を現実世界だと認識しているのであり、それは実質を持っている。なるほど言語の生成自体を問えば、言語は人間が作り出した虚構である。しかし言語生成システムは有本質の日常言語とは別の審級で考えなければならない。
自由詩の世界では「詩的言語」というタームを使ったりするが、これも日常言語との対比が基本である。意味伝達で有本質である日常言語に対し、非-意味伝達、無-本質的に言葉を使う用法を簡便化して詩的言語と呼ぶわけである。しかし誰がいつ、どこで、どういうつもりで句を詠んだのかを読解する「評釈」が批評の基盤である俳句では、日常言語を使うのが基本である。大勢を言えば、俳句は詩の中で最も詩的言語から遠い表現である。
長谷川さんはまた、古典俳句の中で最も好きな虚構俳句として芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」を挙げた上で、「なぜ虚構かと言うと、実際にどこかにある古池ではなく、芭蕉の心の中、想像力のたまものとして浮かんだ古池だと考えます」と述べておられる。言うまでもないが、言語=虚構一元論と同じ審級の混同を犯している。
人間の想像力は、基本的に現実存在と一対一対応の日常言語を基盤に、それらを組み合わせて架空の世界を作り上げるか、日常言語以前の無意識層に下り、そこでのイメージを言語化することで表現される。前者は小説的手法で後者は詩人的手法だろう。いずれにせよ日常(言語)が想像力のベースである。また俳句は特に実存在と密接に結びついた日常言語を使って書かれるから、今回の討議ではその表現方法の是非を巡って虚構が議題になったわけだ。
俳句文学の嚆矢であり、いまだ俳句を代表する「古池」は最も単純な日常言語で書かれた純写生俳句である。それが句で表現された内容以上の意味や観念を喚起しているのは確かだが、小説的・詩人的、いずれの文脈でも虚構(フィクション)は含まれていない。写生と呼ぶしかない表現である。そこを考えなければ芭蕉文学はもちろん、俳句文学も正確に理解できない。
長谷川さんの「芭蕉の心の中、想像力のたまものとして浮かんだ古池」だから「虚構」だという見解は、星の数ほどある「古池」解釈の一つである。ただ即座に否定できる質の悪い解釈である。心の中である風景を思い浮かべるのが「想像力」の発揮なら、あらゆる表現が「想像力のたまもの」になってしまう。つまり想像力一元論となり、言語=虚構一元論と同様、想像力も虚構(フィクション)も存在しないことになる。原理論を装いながら、問題の審級を混乱させて悦に入っているだけの議論にはイライラさせられる。頭が悪い。
黛 今日のテーマですが、文学も虚構も定義としてとても曖昧です。(中略)
大前提として、私たちはすでにある種の虚構の中を生きているわけで、写真、写生といえども、景を切り取る段階で、子規も言っていますが、「取捨選択がなされいる」わけで、そこにはすでに個人の主観が入っています。ですから、今日、復本先生がテーマにされようとしている虚構は、もう一歩踏み込んだ、作為的な虚構ということだと思います。
黛さんの発言はシンポジウムのまとめとしてのもので、言ってみれば双六の振り出しに戻ったわけだ。各パネラーが写生、虚構、言語論、想像力と様々なことを言っているが、黛さんの言うとおり議論の前提になる定義が曖昧で話が噛み合っていない。俳壇の討議はたいていこうなる。ほとんどの出席者が結社などの一国一城の主なので、発言を全否定したりすると結社員に対する面目を失わせる非礼になるためか、「あなたの言うことはごもっとも、でもわたしはこう思いますけど」とそれぞれが意見を述べて終わりになる。つまり異なる意見を交わらせる討議ではなく、討議の形を取った個々の自己主張である。
今回は、まあはっきり言えば、復本さんの課題の前提条件を理解しなかった、あるいは無視した長谷川さんの発言によって討議が混乱している。だが俳壇で長谷川さんに「問題文をちゃんと読んでから発言してください」と言える人はいないだろう。しかし黛さんの言う通り、そもそも「復本先生がテーマにされようとしている虚構は、(写生・写実俳句から)もう一歩踏み込んだ、作為的な虚構」だったわけで、そう捉えなければ写生(リアリズム)と虚構(フィクション)の対比にならない。
黛さんは「恐らく子規は手段として、方法論として、写生を説いていると思います。それが今の俳壇では目的になってしまっている。だから、陳腐になっているのではないか。あくまでも写生が手段だということをもう一度、私たちは認識しないといけないのではないでしょうか」ともおっしゃっている。
これもまったくその通り。こっからもういっぺん議論のやり直しですな。曖昧な定義に基づく恣意的な議論は、ある種の詩人にとってはそれ自体が詩的な愉楽なのかもしれないが、詩的はいつまでたっても詩にならない。論理がハチャメチャなのだから結局は無駄だ。どんな場合でも無理のない常識的整合性は大事である。俳壇では大串、長谷川両氏の評価が高いが、一般読書界で名前と著作が知られているのは黛、長谷川、大串さんの順になる理由もこのへんにあるのでしょうね。
岡野隆
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