今号では大特集「いま、なぜ新興俳句なのか」が組まれている。現代俳句協会青年部編集の書籍『新興俳句アンソロジー―何が新しかったのか』が、予想外のヒットになったのを受けた特集だろう。宇多喜代子さんが「新興俳句とは・その新しさとは」という必要十分な総論を書いておられる。
新興俳句は俳句史における重要なムーブメントだった。これまでは俳句評論家・川名大さんの『新興俳句表現史論攷』が代表的研究書で、宇多さんの論は基本的にそれを踏まえている。川名さんによるレジュメでは新興俳句は昭和五年から十六年(一九三〇年から四一年)までのムーブメントで、大まかに前期・中期・後期の三期に分けることができる。
端緒になったのは昭和六年(一九三一年)の水原秋櫻子らの「ホトトギス」離脱である。当時、高濱虚子主宰の「ホトトギス」は、俳人たちの生殺与奪の権を握るほどの俳壇の絶対的勢力だった。秋櫻子らは絶対権力者に初めて反旗を翻したわけである。虚子の花鳥諷詠俳句が限界に達していたということでもある。ムーブメントの終息は昭和十六年(四一年)の治安維持法による俳人たちの検挙。京大俳句事件とも呼ばれる。
もちろん新興俳句の全盛期が昭和五年から十六年だとしても、その前史と事後がある。前史については比較的ハッキリしている。しかし事後の影響関係は曖昧だ。ただ若手俳人たちが『新興俳句アンソロジー』を書き、それが売れた(俳人たちに支持された)ことは、今の俳句が行き詰まりつつあることを示唆しているのかもしれない。
■新興俳句前史■
葛飾や桃の籬も水田べり 大正十五年(一九二六年)
来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 昭和二年(二七年)
国原や野火の走り火よもすがら 昭和三年(二八年)
水原秋櫻子
新興俳句の母体となった、秋櫻子処女句集『葛飾』(昭和五年[一九三〇年])からの抜粋である。宇多さんは「このような秋櫻子の明るくのびやかな俳句を、当時の青年たちがいかに眩しく感受したかを想像する」と書いておられる。
今の目線で言えば、秋櫻子『葛飾』と当時の虚子「ホトトギス」系俳句との違いはわずかである。きちんとした有季定型で写生句でもある。しかしその「明るくのびやかな」俳句は魅力的だった。絵画の世界では明治初・中期に高橋由一の暗めの画風が「ヤニ派」と呼ばれ、フランス留学で印象派を学んだ黒田清輝の画風が大正時代にかけて「外光派」と呼ばれてもてはやされた。秋櫻子句には絵画の外光派に近い清々しさがあった。秋櫻子主宰の「馬酔木」が山口誓子、橋本多佳子、石田波郷、高屋窓秋、加藤楸邨らを輩出したのは言うまでもない。
■新興俳句前期■昭和五年(一九三〇年)から九年(三四年)■
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷
桑の実をつみゐてうたふこともなし 加藤楸邨
ラグビーの巨軀いまもなほ息はずむ 山口誓子
しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
「始動期の新興俳句の代表句を見ただけで、あきらかに些末な写生主義を超えていることがわかる」と宇多さんの評。高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」が新興俳句運動の実質的号砲になった。現実離れした夢想や空想を表現しているわけではないが、作家の内面をも写生的に表現した句が増えている。
■新興俳句中期■昭和十二年(一九三七年)七月七日支事変勃発まで■
戀びとは土龍のやうに濡れてゐる 富沢赤黄男
白の秋シモオヌ・シモンと病む少女 高篤三
夢青し蝶肋間にひそみゐき 喜多青子
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
夏と秋わかれていつた白い道 波止影夫
心臓がまつかに歩きゐる冬ざれ 内田慕情
ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ 藤木清子
中期が新興俳句運動全盛期だと言っていいだろう。宇多さんは「「ある」「なる」「ゐる」などの口語で下五を完結させる方法は、新興俳句に惹かれて寄り集った当時の青年俳人たちに多く採用されており、あたかも「かな」「けり」「たり」などを封じた自由解放の象徴のようにも見えてくる」と評しておられる。
たいていの新たな文学運動に言えることだが、ムーブメントは十年ほどでピークに達する。そこから約十年の百花繚乱の安定した表現期間を経て、じょじょに下火になってゆくのが常である。新たな文学運動の生命はだいたい三十年ほどで、意外と短いものなのだ。新興俳句は弾圧されて終わったので衰退期がほとんどないが、昭和十二年(一九三七年)頃から一つの表現パラダイムを持つ文学運動になっている。
初期に比べれば作家の想像・空想の句が増えている。ここでは詳述しないが自由詩のモダニズムや当時最先端のシュルレアリスムの影響がはっきり見られる。俳句は歴史上初めて同時代の他ジャンルの文学的成果、それも欧米文学に影響を受けた同時代文学を積極的にその表現に取り入れたわけだ。
また宇多さんが指摘された「口語で下五を完結させる方法」は意図的であり、無意識の選択でもある。作家が想像・空想界を実体を持つ世界として捉えていない限り、その表現は一瞬の現在形になる。「かな」「けり」「たり」――つまり文語の切れ字を使えば表現が過去形になり句は誰もが共有できるある種の永続性を喚起できる。しかし作家の想像・空想表現は個のものであり時間的通有性を持たない。
口語援用のもう一つの理由はやはり時代的な切迫感だろう。戦争の足音が近づいている時代であり、新興俳句運動の多くの俳人たちが戦地に招集される可能性があった。先が見えない時代に過去形はそぐわない。また大きく膨らんでゆく作家の不安な心情を短い俳句で表現するためには、従来的な風物の取合せでは間に合わない。現実界の突飛な事物を取り合わせ、空想・想像界の不協和音的イメージを取り合わせることになる。その一瞬は現在になる。
■新興俳句後期■昭和十六年(一九四一年)京大俳句事件まで■
困憊の日輪をころがしてゐる傾斜 富沢赤黄男
なにもない枯野にいくつかの眼玉 片山桃史
一人ヅツ一人ヅツ敵前ノ橋タワム 西東三鬼
そらを撃ち野砲砲身あとずさる 三橋俊雄
戦死せり三十二枚の葉をそろへ 藤木清子
人征きしあとの畳に坐りつる すずのみぐさ女
戦前・戦中に文学の世界でも大政翼賛会が組織され、多くの文学者が戦争を翼賛した。そのため一般社会で最も有名な新興俳句は戦前・戦中に書かれた数少ない反戦句になっている。ただ表現として見ればすでに新興俳句は下り坂に差しかかっている。全盛期は戦争に突入するまでだろう。
宇多さんは「ともすればファジーな感性や甘美なモダニズムなどが、「燎原の火のごとく」と形容された新興俳句の広がりの中に散見されるようになり、文芸運動の陥穽ともいえる作品の類型化が見られるようになっていたところに打ち込まれた戦争であった」と書いておられるが、卓見である。
幸いなことにとも言えるし、皮肉なことにと言ってもいいのだが、末端的な物真似シュルレアリスム詩のように、新鮮な表現ならなんでもアリになりかけていた新興俳句の表現を、地に足が着いた強い表現にまで高めたのが戦争だった。ここでも表現は現在形である。まあ当然のことですな。
昔から俳句には「新しみ」「新しさ」が求められてきた。「新しさ」を教条的に解説すると、たちまち褪せる。ここに挙げたどの句もが「今日のことば」「今日の俳句」「今日の問題」「今日の課題」ではないか。
宇多喜代子「新興俳句とは・その新しさとは」
宇多さんは「今日の問題」「今日の課題」とは何かについては書いておられないが、それは今現在の俳句とはハッキリ違う俳句を生み出そうと指向している中堅・若手作家それぞれが考えるべきことだろう。俳句の世界では俳人は年を取れば間違いなく俳壇主流に吸収されてゆく。吸収してもらえなかった俳人は俳壇を仮想的にして不平不満を呟きながら人生を終える。それは今後も変わらないだろうが、俳壇主流になるにせよあぶれるにせよ、壮年期に新たな仕事を為した作家は俳句史に残る。
現代俳句協会青年部編の『新興俳句アンソロジー―何が新しかったのか』がヒットしたのは、比較的若手の俳人たちが新興俳句の表現に現代の閉塞を打ち破るヒントがあると予感したからだろう。ただ若手俳人たちの評論を読んでいても、「ファジーな感性や甘美なモダニズムなど」にヒントを求める姿勢が目立つ。新興俳句的な表現を取り入れても、それではすぐに「作品の類型化が見られる」ようになるはずだ。
大局で捉える必要がある。新興俳句は子規・虚子の有季定型写生俳句(花鳥諷詠俳句)への反発から始まった。句に新しさをもたらし、表現の幅を大きく広げたのはモダニズムやシュルレアリスムなどの同時代文学だった。この同時代文学は欧米文学の影響を大きな受けていた。俳句は初めて同時代欧米文学を取り入れ消化しようとしたわけだが、その本質は何かを考えなければ本質に迫れない。反戦俳句などは時局的なものとして、ひとまず除外した方がいいということである。
端的に言えば、新興俳句で最も重要なのは作家の自我意識である。写生俳句では作家の自我意識は表現されない。外界の事物を取り合わせることによって作家の自我意識が間接的に表現される。新興俳句は同時代欧米文学の影響を取り入れることで俳句史上、初めて作家の自我意識を力強く表現した。
ただしそれは、現代の早とちりした前衛俳人が行ってるような、作家主体(作家意識)の絶対化ではない。あくまで写生的な俳句表現のフレームの中で作家の自我意識を表現している。このあたりが俳句文学の中で後世にまで影響を与える運動になるか、泡沫的な試みになるのかの分水嶺である。作家の自我意識を直截に表現したいのなら、詩では自由詩が適している。俳句でそれを行えば必然的に俳句文学から逸脱する。
あくまで俳句文学の中での自我意識表現というラインを考えれば、新興俳句運動の正統後継者は高柳重信である。それは新興俳句運動の立役者たちが次々に既成俳壇に取り込まれてゆく時代において、あの小生意気な重信が不可解な沈黙者である富沢赤黄男を師としたことからもわかる。赤黄男-重信の周囲には吉岡実、大岡信ら当時の自由詩の精鋭が集った。新興俳句が同時代文学に対して開いていた窓もまた、重信によって継承された。
ただしこのような見解は、重信多行俳句、前衛俳句を蛇蝎のように嫌う現在の俳壇では受け入れられないでしょうな。テニオハ添削の繰り返しの中で、ちょっと気の利いた表現として新興俳句を参考にしても無駄なのだが、何を言ってもほとんどの俳人は理解できないだろう。また重信前衛俳句の後継者たちも、徒党を組んで既成俳壇に対抗するという昔ながらの俳壇権力争いに血道を上げている。まあどっちを向いても絶望的ですな。
岡野隆
■ 新興俳句関連コンテンツ ■
■ 金魚屋の本 ■