映画『天地明察』が公開され、作者の沖方丁の次作が刊行された特集である。『天地明察』は日本の改暦に生涯を捧げた安井算哲のいわば伝記ものだ。和算で有名な関とも深い親交を持つ日本の天文学者とも言え、つまりは理科系の話であるが、モノは暦だ。当時の政治的思惑と利権が絡んで…という社会派のストーリーにもなる。
特集には、作者の沖方丁と映画主演の岡田准一の対談もある。こういう対談は、そうそうエキサイティングなものにはなりようがないものだ。ただ、映画の方はまだ見ていないが、岡田准一はハマれば非常に上手い演技を見せる。あれでジャニーズと言われると、びっくり仰天する。ハマれば、というのはたいてい、脚本がよければ、という場合なのだから、読解力や知性も高いのだろう。まあ、本人の弁など聞いていると、イマイチよくわからないが、俳優には俳優の知性のあり方がある。雄弁な言語能力なんかは、原作者が持っていれば十分だ。
伝記小説というのはしかし、こう言っては失礼だが、小説の中では一番テクニックを要しないものではないだろうか。登場人物も、プロットも結末もあらかじめ与えられていて、いわば仮縫いのしつけ糸が入っている状態だ。作者に求められるものは、すでに起こった出来事の評釈みたいなもので、批評意識があればどうにでもなる。
小説を書いてゆく上で最も重要かつ難しいのは、「構造」を作ることだろう。それについては、単にプロットを立てるだけの技術と勘違いしている向きが多いが。
同号の「特別レポート」というコーナーでは「中村航と中田永一がものがたりソフトを作る!」というのがあった。「小説ソフト」ではなく、「ものがたりソフト」というのがミソだと思う。
登場人物を決め、プロットを立て、といったタスクについて、「実際に自分たちがやっている作業と同じ」と鷹揚にも (?) 認められているが、それは全体の構造の中の、目に見える部分にすぎない。しかし「同じだ」と思われる部分がある以上、そこのところを外注に出すとか、このような支援ソフトであらゆるパターンを提示させるとかいうのは、不可能ではない。
結局のところ、責任もって最終判断を下し、どのパターンを採るかを選択したり、あるいは最初からある方向性を持ったパターンに絞って発注したりするのは、目には見えない、しかし明確な判断軸を持った者がやらなくてはならない。我々はその者を「作家」と呼ぶ。
こういう創作支援ソフトみたいな発想は、だから決して無駄ではないと思う。それを通して、「作家」とは何者なのか、が見えてくる。作家とは、登場人物の「ネーム」に凝る者でも、ぽいぽいとプロットをでっち上げる者でもない。毎日ペンを握り、あるいはパソコン画面に向かい続け、文学的アトモスフィアの中で髪を掻きむしったりする者でもない。本人にしか見えない、抜きがたいテーマを抱え、それに照らした確信を持って、無数の選択肢の中から「選ぶ者」なのだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■