前号で相馬悠々さんの「鳥の眼・虫の眼」が連載終了になったが、同じ場所の連載を引き継いだのは松浦寿輝さんの「遊歩遊心」である。文学事大主義は不滅かもしれませんねぇ。Wikiで調べればすぐわかるが松浦さんは現世の文学賞文化賞を総なめにしておられる。もう松浦さんにあげられる賞はノーベル賞くらいしか残っていないかもしれない。一昔前なら超のつく文豪である。
しかし詩人・小説家・批評家として知られる松浦さんの代表作が思いつかない。読んでいないわけではない。それなりの数の作品を読んでいる。だが「ああなるほど」といった感想は抱いたが「これはいい」と記憶にくっきり刻まれた作品がない。
文壇と一般読書界の作家評価に差があるのは今に始まったことではない。しかし現代ではかなりその差が開いている。文壇で重宝されている作家の作品を読んでも作品から「なぜなのか」が伝わって来ない。昔ながらの文壇的権威を信じている作家が大物に押し上げられてゆく気配がある。一般認知度が恐ろしく低い理由である。しかし文壇にしかわからない、文壇でしか通用しない基準で作家の評価が決まってゆくのはあまりいいことではない。
文壇の大物の作品を読んでいると言いにくいが現役感がない。設定は現代でもこれはいつの時代の小説なんだろうと思うことが多い。思考と感受性が一昔、二昔前の、文学が世の中のエンタメと文化の中心であった頃に固着化してしまっている。文学事大主義とはそういうことでもある。要は現代を捉えられていない。
現代では文学は明らかな斜陽産業である。それはますます進む。まずそれを認めそこからの脱却方法を考えなければ理念としても市場としても文学が上向くことはない。IT業界では十年前が太古の昔のように語られるほど変化が激しい時代に、文壇を代表する作家たちが二十年三十年前の夢を見続けているのは奇妙なことだ。傾いた会社で毎日ハンコを押し続けている呑気な平重役のようである。本来は逆じゃなかろか。現代を捉えられない作家を文壇の顔にしてもしょうがない。
発作が始まった、と思った。
どの仕事場にもあるところの社是、モットー、正しい道、信念。お客様が神様であるという事。やり甲斐。自己犠牲。本当は形振り構わぬ利潤の追求が最優先であるのに、やり口が汚い会社ほど殊更に高尚な理念を謳い上げる、その嘘。全ての職場を支配し、ひいてはこの国全体を覆い尽くすこのでっち上げの理想に、春日井武雄は時として我慢が出来なくなる。そしてこの発作に見舞われる度に、仕事を辞めてきたのだ。今回は三ヶ月余りで発作が訪れた。長くもった方だったじゃないかと、彼はシャワーに打たれながら苦笑した。
(吉村萬壱「堆肥男」)
吉村萬壱さんの「堆肥男」の主人公は春日井武雄で、小さな出版社で取材班がファクスで送ってくるメモを記事に起こす仕事をしている。文学の世界には「あなたは有名人ですよ」と持ち上げて法外な値段で紳士録を売りつけようとする商売があるが、春日井が携わっている仕事もその一種である。取材班は田舎を回り高齢者の人生を取材する。それを本にして売りつけるのだ。一人半ページほどの記事になるに過ぎないが代金は七万円とある。倫理的には問題だが違法とまでは言えない商売である。
春日井は淡々と仕事をこなしていたが、上司から一度現場に出てみなさいと命じられ、現場取材をしたことで自分の仕事の虚偽に気づく。取材担当者から「俺達取材班の仕事は、取材で得た断片的な言葉から彼らの人生の苦難や悲哀や喜びや祈りの全てを読み取って、彼らに代わって一つの美しい織物を織り上げる事なのだ」という綺麗事を聞かされたからである。実態は高齢者を騙しているのだがそんなタテマエがついて回ることを春日井は嫌悪する。
その一方で春日井は真向かいのアパートに越してきた男に惹きつけられる。四十代くらいの大柄な男で腹が大きく張り出していた。カタギではない男たちが男の部屋を訪ねて来た。生活保護サギの片棒を担がされている男だろうと春日井は見当をつけた。
この男が奇妙なのはいつもドアを開け放っていることだった。夏は蚊やゴキブリがたくさん出るのだが、それを気にする様子もない。いつもパンツいっちょうで畳の上に寝転んでラジオを聞きスナック菓子を頬張っていた。春日井は男の様子を覗き見するのを日課にしていたが、ある時男がビニールシートの上に寝そべったまま糞をして、それを野良犬に食べさせているのを見た。男は大きな声で笑っていた。
男は一年ほどアパートにいて忽然と姿を消した。男が消えてからしばらくして春日井は男と同じようにドアを開け放った。「頬に蚊が止まって血を吸っているのが分かる。まずはこんなところから平気になりたかった。明日から益々何も考えないようにしようと思った。考えれば考えるほど、質の悪い肥やしになっていくに違いないからだ」とある。
主人公の春日井は社会全体に蔓延する虚偽を激しく憎悪し嫌うが、それを超えるような理念を持っていない。彼の前に現れた男は自由を象徴している。しかしそれは糞のようなものだ。生きてゆくために必要なのは思考停止だと春日井は思い至ったわけである。出口のない小説だがこれが今の純文学の正直な姿かもしれない。
一年限定の仕事、時間的に小さなサイズの仕事を繰り返すのは、僕にとっては一種の縮景だ。心臓の音が、階段を踏みはずすような変な早さで響いて、僕は奥さんに気づかれないようそっと長い息を吐いた。
どうして今まで焦点が合わなかったのだろう?
縮めてはその都度完結させてきた細切れの人生の、向こう側にまで視線が延びて、そこに死を見たのは、これが初めてだった。時間の長さに打たれ弱い自分なりに、働きやすい環境を手に入れること。僕がしていたのはそれだけではなかった。死を手に入れていた。むしろいつか、そちらの方が本当の目的になっていた。死といっても、仮の死だ。契約期間満了の日の帰り道ほどいいものはない。(中略)一つの区切り、決して戻ることのできない断絶。本当に死ぬわけではない、安全な死。
全うすること、終わるとわかっていて終わること。辿りきれること。把捉できること。それだけを僕はいつも求めていた。そうでなければもたなかった。
(牧田真有子「仮の林」)
牧田真有子さんの「仮の林」の主人公は幾背という青年で、大学を卒業して就職したがすぐに辞めてしまい一年契約社員の仕事を次々にこなしている。同級生たちは出世や出産、子育てなど年相応に変わってゆくので焦りはある。しかし幾背はどうしても正社員として働く気になれない。その理由は今の派遣先の大学教授の妻で、幾背の昔の知り合いでもある「奥さん」と再会したことで明らかになる。奥さんは異様に不器用な人だが盆栽にだけは優れた才能を示した。盆栽という閉じた小さな世界の中でなら才能を、自分本来の自我意識を発揮できる人だったのである。幾背とは似たもの同士ということだ。
幾背は一年契約社員の仕事が盆栽の「縮景」に通じていると気づく。盆栽は大自然を縮小した芸術だが人工的な偽物だとも言える。幾背は一年契約仕事は人生の縮景だと思う。「全うすること、終わるとわかっていて終わること。辿りきれること。把捉できること」とある。自分の長い人生にヴィジョンを持てない青年なのだ。短いスパンで仕事を、人生を完結させなければ生きてゆけない。一年限りの派遣仕事は「本当に死ぬわけではない、安全な死」だとあるように幾背は生きることに絶望している。
恋愛関係は生じないが幾背と奥さんは交流を深め、それにより幾背だけでなく奥さんも変わってゆく。不器用な奥さんは夫の大学教授を必要としている。「あの人がくれる答えなしには生きられない」と言う。しかし幾背の出現で奥さんの心が揺らぐ。どうやって盆栽を完成させればいいのかわからなくなってしまう。その理由を幾背は「彼女の新しい欲求は、樹木以外に対しても向けられつつあるのだろうか」と考える。奥さんは小さな縮景の盆栽の世界を出て、広い社会に直面しようとし始めたということだ。では幾背はどうなのか。
ふと、もう一度物語を書いてみようかと思った。僕もまたどうしたらいいかわかるものがなくなったからこそ、書きたかった。(中略)かけがえのなさという一種の衝動を、もうどこへも捨てず今度こそ自分がすみずみまで所有するために書きたかった。自分が持っていてもいかなる形にも成就しないからと、絶えず心の外へ捨て、その影だけがくっきりと残りつづけたものについての物語を。
(同)
幾背は以前密かに日記に書いていた物語、つまり小説を書き始める。それが一年後ごとに小さな死を繰り返し、その先に本当の死が待っている絶望的な生活から彼を救い出してくれるきっかけになるかもしれないということである。
偶然だが吉村さんの「堆肥男」と牧田さんの「仮の林」は手触りがとてもよく似ている。「堆肥男」の主人公は社会的偽善を嫌悪するがそれを超えるヴィジョンを持っていない。何も考えない判断停止によって厭うべき現世をやり過ごそうとする。「仮の林」の主人公には社会批判意識はないが、人生に絶望しているのは同じだ。彼はそこから抜け出そうとするが、その手段は小説を書くことである。
しかしどんな小説が彼を絶望から救ってくれるのだろうか。「絶えず心の外へ捨て、その影だけがくっきりと残りつづけたものについての物語」というのはトートロジーである。今さら捨ててきた物語を拾っても絶望は超えられない。何もすることがないので小説でも書こうか、という行為以上ではない。しかし新たな希望=小説には新たなヴィジョン=理念が必要だ。
「堆肥男」と「仮の林」は現代の閉塞した状況を端的に表現した小説ではある。二十年、三十年前と同じように、吉田健一や内田百閒のような古色蒼然とした文学余裕派を気取って小説や散文を書いている文学事大主義的作家よりも遙かに現代的だ。しかし読者は否定ではなく肯定を求めている。特に純文学という表現はそうだ。判断停止であれ能動的に小説を書くのであれ、何かの否定であってはいけない。それでは読者は納得してくれない。そのくらい読者は忙しく性急に答えを求めている。ウオーミングアップのような小説には読者はついてきてくれない。
大篠夏彦
■ 吉村萬壱さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■