李琴峰さんは台湾人で日本で活動しておられる。日本語の読みは「り ことみ」さん。処女作「独舞」で群像新人賞を受賞し、本作「五つ数えれば三日月が」が芥川賞と野間文芸新人賞候補作になった。中国語と日本語を自在に使いこなす小説家で、日本にとっても台湾にとっても期待の新人である。
近郷情怯、という中国語の成語が脳裏を過ぎった。長年帰郷していない旅人がいざ故郷に帰ろうとする時、気持ちが逆に怯えてしまうという意味。自分のいない間に何かが変わってしまっていたらどうしよう。自分のことを知らないであろう子供達にはどんな顔で何と言って挨拶しよう。故郷の人々が自分を忘れてしまっていたらどうしよう。今の自分を受け入れてくれなかったらどうしよう。
数え切れぬ名前のない不安をぐっと身体の奥底に押し込めて、実桜に向かって手を振ってみた。すると彼女は白い歯を見せて笑い、手を振り返しながら歩を早めた。その笑顔は五年の歳月が生み出したはずの距離をそっと包み込んで、それを見ただけで絡み合う不安が少し解けたような気がした。
「久しぶり」
そう言い合いながら抱擁を交わした。
(李琴峰「五つ数えれば三日月が」)
見事な純文学小説文体である。日本人作家が書いたと言っても誰もが納得するだろう。ただ台湾人の李さんの場合、それは大きな武器になると同時にマイナスにもなる。作家のアイデンティティはどこにあるのかということである。人類皆兄弟は真実かもしれないが創作は個性表現だ。日本語で書く外国人作家に強い個性が求められるのは半ば当然である。
映画などを見るとわかるが台湾はかなりの親日国である。映像コンテンツだけではない。最近になって三田文學などで台湾現代詩の小特集が組まれているが、台湾の詩人たちはそうとうに日本の戦後詩を読んでいる。台湾は建国以来、また将来的にもメインチャイナと様々なフェーズで対立せざるを得ないが、そのいわば準戦時下的精神が日本の戦後詩への親近感を生んでいるのだろう。台湾では日本文学ではマイナーな自由詩ですら一定の影響を与えている。
それを敷衍すれば、台湾小説でも日本文学の影響がかなりの程度あるのかもしれない。李さんは十五歳から日本語を学び始めその頃から小説を書いておられるようだが、彼女の極めて日本的な純文学文体は短期間で習得できるものではあるまい。日本の純文学の文体やテーマが小説の基盤だという刷り込みがあるのかもしれない。
日暖風柔櫻雨細, 日暖かく風柔らかにして 櫻雨細く、
翰林院裡業方成。 翰林院にて業方に成らんとす。
織花振袖羞紅杏, 織花の振袖 紅杏を羞ぢらはせ、
翠羽瑤簪勝紫瓊。 翠羽の瑤簪 紫瓊に勝る。
典論一篇焉易作? 典論一篇 焉んぞ作り易からん?
儒林七載正堪榮。 儒林七載 正に榮に堪へん。
書樓莫使埃塵掩, 書樓 埃塵をして 掩はしむること莫れ、
問學途如萬里征。 學を問ふ途は 萬里を征くが如し。
(中略)
詩はスマートフォンで実桜に送った。東洋哲学を専攻していた実桜はある程度漢詩と漢文が読めるということは知っていた。しかし彼女からは「ありがとう」としか返事が返ってこなかったから、本当に伝わったかどうかは結局のところ分からなかった。
(同)
「五つ数えれば三日月が」の主人公は日本の大学の大学院に留学してきた台湾人の私(林妤梅)で、大学の事務所で入学手続きをしている時に浅羽実桜と知り合った。東日本大震災直後のことである。実桜は学部時代に中国留学していて中国語ができたこともあり、二人はすぐに仲良くなった。二年後に私と実桜は修士論文を提出して大学院を卒業したが、大震災で入学式が行われなかったこともあり修了式は華やかなものになった。「謝恩会では二年間の写真を編集した動画が流されたが、その内容も記憶に残らなかった。記憶にはっきり焼き付いたのは実桜の振袖姿と、彼女が階段を上るときの情景だった」とある。私は実桜の着物の裾からのぞく白い足を見ていた。
私はレズビアンで実桜に恋している。しかし実桜はストレートで思いがかなう相手ではない。私が恋していると知っているのかどうかも曖昧だ。私は謝恩会が終わると家に帰り、実桜への思いを込めて七言絶句を作った。「織花の振袖 紅杏を羞ぢらはせ、/翠羽の瑤簪 紫瓊に勝る」という二行に私の精一杯の恋心が表現されている。あなたは実に美しいということだ。しかし実桜の返信はつれなかった。卒業後、実桜は台中に渡って日本語教師となり現地で台湾人と結婚した。私は日本で信託銀行に就職して営業職として働いている。私は一時帰国した実桜と五年ぶりに再会したのだった。
結局カードは渡せなかった。自分が何を恐れているのかは分からない。これほど韜晦した形にしているのだから秘し隠した気持ちを悟られることはないだろうとは思ったものの、敢えてそんな形にすることこそ嘘を吐いているようにも思えた。あるいは私は自分の気持ちに嘘は吐けなかったのかもしれない。(中略)
櫻舞梅飛日月流, 櫻舞ひ 梅飛び 日月流れて、
黌門一別幾春秋。 黌門 一別して 幾春秋。
鯤鵬薄宙今何在? 鯤鵬 宙に薄るは 今 何くにか在らん?
帝女堙洋志未酬。 帝女 洋を堙むるは 志 未だ酬いられず。
乍暁阨災方惴惴, 乍ち 阨災を暁すに 方に惴惴たり、
忽聞秦晉復悠悠。 忽ち 秦晉を聞くに 復た悠悠たり。
蓬萊瑞穗難期會, 蓬萊 瑞穗 期會すること難し、
且託嬋娟寄旅愁。 且く 嬋娟に託して 旅愁を寄せん。(中略)
声に出さずに二回読み終えると、心の中の何か花火の導火線みたいなものに火が付いたように感じた。(中略)
暫くして、私は心の中で決めた。次に目を開けた時、実桜が歩いていった方向へ振り向こう。もし実桜の姿がまだ見えていたら、まっすぐに気持ちを伝えよう。そこにはいないけれど、ホームに行くとまだいるのであれば、カードだけ渡そう。もうホームにいないのであれば、全てを諦めて、気持ちを隠そう。一生、隠し通そう。話す言葉、住む国、勤める職場。もう既に色々なことを自分で決められる年になったけれど、こればかりは自分ではなく何か不確かなものに頼るしかないような気がしてならなかった。
私は両目を閉じ、五秒のカウントダウンを始めた。
(同)
小説の大団円だが最後まで格調高い純文学文体である。〝格調高すぎる〟と言った方が正確かもしれない。この今では日本文学でもほとんど例のない文体の格調高さが文壇での李さんの高い評価になっている。つまり「五つ数えれば三日月が」という小説は、台湾人が日本語で書いた高貴な文体で評価されたということだ。また格調高すぎるということは浮世離れしているということでもある。
日本人に限らず台湾人でもメインチャイナの中国人でも、私が書いた七言絶句がラブレターだとはっきり理解できる人はまずいない。私の恋愛感情もその表現も幼い。大学院を卒業しているのだからもう三十近いはずだが、恋する心はティーンエイジャーのままだ。「もう既に色々なことを自分で決められる年になった」とあるが、実桜に直接恋心を伝えるのが大人への第一歩だろう。つまりこの小説は李さんという作家にとっての到達点ではなく、始まりのその手前の序章だということである。少なくともテーマから言えばそうなる。
文体の格調高さがテーマの未熟さを隠している面が確実にある。小説は明らかに私小説であり李さんの実際の学歴や生活がベースになっている。ただ私小説は必ずしも現実体験を書く小説形態ではない。フィクションがあるのは当然で、それが事件を起こし主人公の未熟さや醜さまで暴き出してゆく。しかしそこまで小説が到達していない。
小説中には台湾の宗教習俗なども散りばめられている。台湾人の作家がその特権的知識と感性を活かすためには当然のスリップだ。しかしそれが実桜に恋する私のプロットとうまく連動していない。漢詩による恋愛表現もそうだ。恋心を韜晦して表現した漢詩は密かに日記にでも書かれ、主人公の未熟さを抉り出すために使われるべき小道具である。作品のクライマックスとしては弱い。最後まで独りよがりということになってしまう。現実の恋はもっと残酷だ。
余計なことを言えば日本の純文学界をあまり信用しない方がいい。ただでさえ本が売れない純文学業界は、芸能人だとか出自が特異だとか若くてキレイだとかハイブリッドだ、外国人だからとさまざまな作家の付加価値までも総動員して日替わりで作品を売ろうとする。作家もまた一度芥川賞などの賞レースに参入すると、お受験と同じでそれを得るまではレースから降りられなくなる。
で、ゴールテープを切ったらどうなるのか。別に純文学界に悪意はないわけだが梯子は外される。素晴らしい賞を受賞したのだから後はお好きに、になる。中国人で芥川賞を受賞した作家に楊逸さんがいらっしゃるがその後の作家としての道行きはなかなか厳しい。純文学業界の賞レースに参加しているうちに一般読者の好みとはズレがある純文学業界の評価基準に染まってしまい、身動き取れなくなる。作家によっては有名賞の知名度で作品が話題になり本が売れたことが露わになってしまう。賞を得た後に初めて読者の支持を含めた作品の文学的価値が問われるという奇妙なことが起こる。
小説の文体が評価されたことは手放しでいいことではない。小説は物語でありテーマを的確に表現するために文体がある。文体の美しさ、高貴さなどすぐに飽きられる。「五つ数えれば三日月が」という小説では実桜はいてもいなくてもいい存在だ。私の恋心の苦悩だけが書かれている。しかし物語は他者との葛藤で動く。人々は物語を求めている。大変な努力を重ねて日本語で小説を書き、既に純文学界で高く評価されている作家には失礼だが、危ない橋を渡っておられると思う。
大篠夏彦
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