今号は第124回文學界新人賞発表号で、奥野紗世子さんの「逃げ水は街の血潮」と田村広済さんの「レンファント」が受賞なさった。前者は奇貨居くべし的作品であり、後者は文學界好みの作品と言っていいだろう。
新人賞が優れた作品と作家を発掘するためにあるのは言うまでもない。しかし雑誌に掲載する以上、雑誌的バリエーションも少しは加味される。文藝春秋社は実質的に直木賞主宰のオール讀物を刊行しているので、文學界にスッキリとしたオチのある大衆小説が掲載されることは少ない。まあたいてはモヤモヤとした純文学小説なわけだが、その枠組みの中でも冒険が必要である。従来的な純文学小説と毛色の変わった作品という取合せは、雑誌で小説を読む分には面白い。
わたし以外のメンバーの顔があまりにひどすぎたから、プロデューサーの田村がオーディションして、ゴアゴアガールズは五人になった。(中略)
星島ミグが短いボブヘアを担当カラーの淡い水色に染めると肌を織りなす鱗みたいな皮膚組織ひとつひとつが輝いているような透明感が出た。(中略)
それに全然馴染もうとしない。(中略)それに気づいた田村が「ミグちゃんに悩みとかあったら聞いてやって」と言って二千円くれたのでダンスの練習終わりにモスバーガーに行った。
「ゴアゴアガールズはどうでしょうか」と聞くと、「ぼちぼち」と言った。それから自分から何も話さないのでわたしばかり自己紹介のように喋りまくっていた。(中略)なんでこんなにわたしばかり一方的に丸裸にならないといけないのだろうかと腹立ってきて、ミグに「お前は病気か?」と言った。
「あんたは何か教えてくれないの」と言ってから、「年齢とか、学校とか」と付け加えた。とくに知りたいこともないな、と思った。(中略)
「二十一」
「若ぁい」
「アイドルで二十一って若くないよ」
そりゃそうだけど。わたし二十六だけど。それを聞いて何となく黙ってしまった。
「あとさ、病気っていうのやめて」と言ってミグは薄まったウーロン茶を飲んだ。お前はもうIN泥船だぞ、なんなんだよと思う。
(奥野紗世子「逃げ水は街の血潮」)
「逃げ水は街の血潮」の主人公は、アイドルグループ・ゴアゴアガールズのメンバーのモニである。ゴアゴアガールズは地下アイドルだ。モニはアイドルになりたいと思ってなったわけではない。五反田のガールズバーでアルバイトしていた時にプロデューサーの田村にスカウトされた。「だいたいのアイドルは「友達がオーディションを受けるから」と付き添いで行ったことでアイドルになっていた。それと同じだと思う」とある。
ゴアゴアガールズは四人だったが、そこに星島ミグが加入した。わたしとミグだけがグループの中の美形である。ただミグは可愛げがない。「写真をだれかが撮ろうとした時だけ笑顔になって輪に収まって、終わった瞬間に表情筋の稼働をやめる」子である。
わたしとミグの会話はある意味若い女の子たちの会話を、極端な本音混じりで先鋭化させたものである。相手の性格や容姿を値踏みせずにいられないのだが、本当のことを言えばさして興味があるわけでもない。ただモニの方からミグに接近してゆくプロットが示されている。スピード感のある面白い文章だ。
いつまでも視界が開けることはなく、煙幕の向こうで絶叫が聞こえるばかりだった。いつも退屈かつ義務的な風に暴力を起こす星島ミグだったが今日はどこか吹っ切れている。だんだん「アセンション」と「テンション」を交互に叫んでいるのだとわかった。新曲のタイトルだ。(中略)わたしは見せパンが丸出しになり、それすらも引きずり降ろされそうだった。身体中が菓子パンになったように思えた。わたしは宇宙の発生からの半ば永遠とも思われる一方通行な時間の果てに、現在のわたしの意識があり、それがいつか途切れた後も何億年もの時間が待ち構えていること、意識の命運がいつでも誰かに狙われているということを考えていた。
(同)
AKBが「会いに行けるアイドル」をコンセプトにしてから、アイドルは学校のクラスに一人はいる可愛い女の子というイメージをまとうようになった。しかしテレビなどで活躍するアイドルの、手を触れることができないイコン―アイドルというステータスが変わったわけではない。
しかしゴアゴアガールズは違う。彼女たちのウリは暴力だ。オタクな観客たちを馬鹿にするように暴力的なパフォーマンスを繰り広げ、客席にダイブして身体を好きに触らせる。しかしそれでも彼らの手の届かない高みにいる。虚偽的な女性アイドルのイメージを相対化することで、メジャーアイドルとは違う質のアイドルになっているわけである。
それは「わたしは宇宙の発生からの半ば永遠とも思われる一方通行な時間の果てに、現在のわたしの意識があり、それがいつか途切れた後も何億年もの時間が待ち構えていること、意識の命運がいつでも誰かに狙われているということを考えていた」と表現される。わたしはいつか死ぬ。それまで退屈な時間が続く。だからこそ他者とのギリギリの衝突が、限りなく死に近づくような刺激が欲しい。
男の口臭が溶けていった。心の目出し帽、心の目出し帽。今日の最高気温は三十五度らしい。このなまぬるさ、まるで血管の中を泳いでいるようだ。(中略)囚人服を模したワンピースの鎖をなびかせて客席に飛び込む瞬間。想像を超えて己の先を走る走馬灯、しかし本当に燃えている。(中略)絡みつく男らの腕に溺れてもみくちゃに泳がされるわたしをスポットライトが追うように、足元で瓶が割れコマの足りないアニメーションに似て赤い飛沫のひと雫の行く先が荒く弾けた。マジ死ね。全員キモいから死ね。(中略)様々な方向から「バハハ」という笑い声が炸裂した。一つの声が束になって背を押す。砂利道の上で飛び石から落ちると地獄行きだという小学生の頃の神話だ。(中略)男らなんてとっくにいないのは知っている。得体の知れない高揚感に導かれるままに、土曜日の夜、デリヘルの送迎車で埋まる道を抜けて一点を目指している。
(同)
ああいい文章だなと思う。詩的な文章というわけではない。生粋の小説家のものだ。小説家が現世の汚穢を相対化して書くとこうなる。誰にでも書けるわけではない。またこういう文章は若い作家でなければ不可能だろう。恐れを知らない。生硬だが魅力がある
「男らなんてとっくにいないのは知っている」とあるように、このあとわたしは新宿ゴールデン街のバーで灯油の入った瓶を投げつけ、プロデューサーの田村や以前寝たことのある男たちを焼き殺す。バーには無愛想な星島ミグもいたが彼女のライターで火をつけた。わたしが燃えさかるバーから救い出したのはミグだけだった。
「まだ電車ある?」
「は?」
「どっか行きたいしょ」
「死ね。行かねぇ。行ったとしてもお前と行かねぇ」
「最高の夏が来るじゃん」
夏の予感だけで終わらせたくない。わたしは知っている。最高の夏は、こういう風にしか始まらないって。何本も、そんな映画を見た!
「終電調べて」
「自分で調べろゴミ」
「iPhone、壊れたんだよ、水没で」
「はぁ? 死ねや」ミグは文句を言いながら乗り換えのアプリを見ている。
「どこにわたしを誘拐したいの」
そうかわたしは同時に誘拐犯にもなってしまうのか。さらに最高の夏だと思う。しかしながら地理に詳しくないので、とりあえず近場の温泉街の名前を挙げた。
「バカンスかよ」
ミグは青いパッケージのタバコを取り出した。ライターがあるわけでもないのに。
(同)
火の海から逃げ出すと、わたしはミグを誘って終電間際の電車に乗った。誘拐犯とあるがミグはすでにわたしの共犯者だ。互いに罵倒し合う会話だが、小説最初のよそよそしさはなくなっている。わたしとミグは理解し合っている。ゴアゴアガールズの中でミグだけがアイドルという仕事を相対化し、男たちの馬鹿さ加減と嫌らしさを知っているからである。
わたしとミグは温泉地に着き朝風呂に行く。「法令線、赤い肌、曲がった背中、肉の下の骨の細さ、妊娠線、帝王切開の痕、切り取られた乳房。/鏡に映った女の顔がかわいい。妊娠も死も安住の地だとは思えなくなっていた。「死にたい」も「妊娠したい」も、結局は「安住の地がほしい」と同義語であるようだった」とある。
小説には女たちしかいなくなる。それがこの小説の奇妙だが必然でもある帰結だ。荒削りだが魅力がある。良い意味で海のものとも山のものともつかぬが記憶に残る小説だ。
レファント、と書かれていた。
ゴシック体の赤くて太いカタカナの活字がとても毒々しく思えた。悪意すら感じられた。手に持ったチューブのすぐ隣で翔太のまぶたがぴくぴく動いたが、まだしばらくは目を覚まさないでいてくれそうだ。
「いちおう、この薬を渡しておくね。デラファントよりもずっと強い。一番強い薬。最終兵器ってとこかな。普通の病院だったら、その子はこの薬を出される段階だから。でも、これが効かなくなったらもう何を塗っても効かない。おしまいってことだからね」
女医の言葉を思い出しながら弘明はプラスチックのキャップを回し、キャップの突起をチューブの口に刺した。にゅるっと勢いよく軟膏が飛び出してきた。無意識のうちにチューブを握りしめていたようだ。
「一番強い薬は一番強い毒ってことだからね。もしこれを使うんなら、ここにはもう来ないでくれるかな」
(田村広済「レンファント」)
田村広済さんの「レンファント」は、ひどいアトピーをわずらう赤ん坊を抱えた夫婦の話である。レファントはアトピー用の強力な軟膏のこと。主人公の弘明が通う病院の女医はレファントは「一番強い毒」でもあるのだから、「もしこれを使うんなら、ここにはもう来ないでくれるかな」と言った。
ただ小説がレファントに、つまりは一番強い薬でもあり毒でもあるレベルに達しているとは言えない。小説のテーマはなかなか直らないアトピーに表象されるモヤモヤとした不快感だ。それを表現し続けている。この繊細な不快感は純文学ならではのもではある。しかし正直に言えばどこかで読んだような気もする。作品完成度は高いがもっと冒険が必要かもしれない。
大篠夏彦
■ 金魚屋の本 ■