今号では「俳句の魅力」特集が組まれている。編集部のリードには「老若男女、俳句を知らない人はいないだろう。少し俳句を囓った人を含めると、俳句人口は膨大な数になる。(中略)俳句を「詩」とみなすなら、日本は詩人があふれている国ということになる。(中略)今回は、さまざまなジャンルの著者の方々に俳句の魅力について自由に語っていただいた」とある。
難癖をつけるわけではないが、ヨーロッパでもアメリカでも中国圏でもアラブ圏でも詩人の数はそんなに多くない。少しでも俳句を囓った人が詩人だとすれば、日本人の八割近くが詩人ということになるだろう。それはゆるすぎるとしても、俳句雑誌を読み、結社に所属したり投稿欄に投句しているいわゆる俳句人口は一千万人近いとも言われる。まあ誰が考えたってそんなに詩人がいるわけがない。
でもプロと呼ばれるような俳人さんたちは、盛んに「俳句を詠めばあなたも今日から詩人」と言ってますね。商業句誌でそんな言葉を何度も読んだことがある。もうちょっと具体的に言うと、「五七五に季語の形式を守れば俳句は簡単に詠める。有季定型の型さえ守っていればそれは立派な俳句で文学なのだから、自動的にあなたも詩人です」と説いている。誰が考えたってそんなわけがない。
こういったお気楽なたわ言は、たいていナントカ俳句協会の偉いさんで自分の結社に初心者俳人を集め、俳壇で勢力を拡げることにしか興味のない俳人が言うわけだが、同じ口で俳句は並大抵の努力では上達しないと言ったりもする。どっちやねんと思うが二枚舌なのだからしょうがない。隠しているならともかく、バレバレの二枚舌だ。そんな弛緩し切った俳人たちがトップに立ち、俳壇出世争いで絶対損したくない中堅若手俳人たちが、馬鹿馬鹿しいと思いながら何も言わないで忖度し続けるとどうなるのか。俳人の言葉は信用されなくなるわけですな。
「川柳」は連歌上達のためさまざまな言葉遊びが流行しました。「雑俳」のジャンルの中に「前句付」。七・七の短句の前に五・七・五の長句を付ける。「斬りたくもあり斬りたくもなし」七・七の題を出す。その答「盗人を捕へて見ればわが子なり」「間男は世話になつてる若旦那」五・七・五の答えを考えるのです。そのうち題がなくなり五・七・五が独立して川柳になりました。(中略)
雑俳の解説は長くなりますのでこの辺で、俳句も川柳も所詮言葉遊びなのです。
言葉で大いに遊びましょう。
出初式つま先までも清め塩
漂白剤たんと入れたる終戦日
塩煎餅割りて思案の年の暮
(金原亭馬生「俳句と川柳は似て非なるものです」)
特集のトップバッターは落語家の十一代金原亭馬生さんで、先代が川柳好きだったので当代も川柳を楽しんでおられるようだ。高座での語り口そのままのような文章である。川柳は雑俳と書いているが、俳句に比べて劣っているという意味ではない。結論は「俳句も川柳も所詮言葉遊びなのです。/言葉で大いに遊びましょう」である。
ただ遊びで俳句を詠んでいるからといって、馬生師匠の俳句のレベルが低いわけではない。「塩煎餅割りて思案の年の暮」と俳句の勘所をおさえている。江戸っ子らしい句で、肩の力が抜けている分余韻がある。ここに落語家という付加価値が加われば、凡百の俳人の句より巷間に流布する可能性もある。
その類の世界には、添削よろしくこの語をこっちに持ってきてこれを取り、季語を頭にしてどうたらこうたらなぞ云う、妙なしたり顔でもって個人の恣意的でくだらぬ言語体裁を押しつけてくる〝自称俳人〟たちの跋扈しているイメージがある。バカの見本のような人種である。本来、こう云う手合いは創作とは無縁の衆生だから、到底まともに相手はできぬ。
俳句の良さは、あくまで自由な発想、どこまでもフリースタイルで臨める点にあると思う。下手でも自身が楽しければ良い。(後略)
小説にすがりつきたい夜もある
子を負わぬ我に尋ねる幸不幸
夢も見ず眠る独りの冬布団
(西村賢太「制約の反動として」)
西村さん、原稿依頼の企画書、読みました?といった内容である。ただ西村さんが書いているように、俳句の世界は外から見ると「個人の恣意的でくだらぬ言語体裁を押しつけてくる〝自称俳人〟たちの跋扈しているイメージ」である。俳人たちは俳壇利権や権力争いで大わらわだろうが、小説家や自由詩の詩人は文学作品で頭角を現すために苦労している。
もう少し具体的に言うと、小説家や自由詩の詩人たちは、個の力で独自の文学を打ち立てている。俳句に限らないが文章など誰でも書ける。学習すればちょっと上手いねといった作品は簡単に作れる。しかしそれでは足りない。ほとんど死屍累々の言語表現の中から、本当に一握りの作品だけが小説や詩として評価されるのだ。テニオハ添削によって俳句が文学作品になってくれるなら世話はない。
俳句が詩であるのなら〝詩的な表現〟と〝詩〟の間には絶対的な差がある。詩的表現が詩になるためには命がけの飛躍(昇華)が必要だ。そしてこの飛躍にはこれといったルールがない。定型を守っていても詩でない場合がほとんどだ。俳句が詩として認められるためには狭い俳壇的評価を抜け出さなければならない。日本人が誰でも簡単に俳句を詠めるのなら、日本人は優れた俳句とは何かを直観的に理解している。その広い認知を得られなければ俳句は本当の意味で詩にならない。
西村さんの俳句は「夢も見ず」以外は季語がないので、有季定型派の立場から言えば俳句として失格である。しかし本当にそうだろうか。俳句が詩に飛躍するためのルールがない以上、作家の強い自我意識が飛躍要素になることはある。俳人たちが「文人俳句」と呼んでいるものがそれだ。夏目漱石や芥川龍之介を始めとして、小説で名を上げた作家の俳句はほぼ無条件で俳句として評価されている。西村さんの俳句も文人俳句である。ただ有名小説家の俳句を無条件で評価すると、俳人はあまりにも権威主義的で卑屈ということになる。かといってお膝元の俳句界で強い自我意識表現を認めないのは矛盾である。考えてみるべきだろう。
また「俳句の良さは、あくまで自由な発想、どこまでもフリースタイルで臨める点にあると思う」という西村さんの言葉は正しいとは言えない。俳句は決まりごとがあるから俳句である。しかしそれを五七五に季語といった形で形式化してしまうと、俳句はまず間違いなく詩には飛躍しない。まだるっこしい言い方になるが、型に沿いながら型を抜け出る必要がある。有季定型といった型を仮想敵にして、反とか超とか言っていたのではダメである。型を真正面から裏側に抜けるようなイメージだ。そこで初めて俳人の強い自我意識が必要になる。
西村さんは「どこまでもフリースタイルで臨める」のが俳句の魅力だと書いている。型に縛られている俳人たちだってそれは同じだろう。ただ俳人なら型の中での無限の自由になる。それができれば杓子定規な型を破っていても、素晴らしい俳句とはどういうものなのかを直観的に理解している大多数の日本人は、気にも留めないだろう。
岡野隆
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