今号から神野紗希さんの「現代俳句時評」連載が始まった。神野さんは一九八三年生まれでまだ三十代だから、俳句界の期待の若手である。俳人であるだけでなく俳句研究者でもある。俳句界に限らないが若手の役割に新しいタイプの作品を書き、評論などでも斬新な視点で文学を見直し議論を泡立てることがある。連載初回の「これから俳句の話をしよう」の主眼は文学としての俳句を取り戻そうということである。
「平成俳句無風の時代」とは、喧々諤々の文学論が闘わされた昭和俳句の熱気に対し、平成の俳壇には議論と批評が失われていることを嘆く文脈で用いられてきた語だ。個々の俳句を深めてゆくといえば聞こえはいいが、衝突を避け、あちらの俳句とこちらの俳句は違うからと内々に線引きし、たこつぼ化した今の俳句の現状は、たしかに末期的と嘆きたくなるほどに、没交渉で断絶している。いや、正確には、交流はあるのだ。一緒に酒を飲み、世間話をするが、俳句の話をしないのである。
俳人は、俳人の話をするのが好きだ。俳句は俗も抱き込んだ、世間のうちに咲く花なのだから、それも当然のこと。しかし俳人の話ばかりして、肝心の俳句の話をしないのでは、俳句に未来はない。俳人は死ぬが、俳句は残る。句に先んじて俳人がいるのではなく、句が生まれてはじめてそこに俳人が発見されるのだと信じたい。
(神野紗希「現代俳句時評 ① これから俳句の話をしよう」)
神野さんがお書きになっていることは、まったくもってその通り。俳人は本当に噂話が好きだ。句会は俳句の研究会を兼ねるのが普通だが、それは会合の半分の目的であって多くの俳人がその後の飲み会を楽しみにしている。飲み会で話されるのは「なんで俺の、わたしの俳句に点が入らないの」といった愚痴であり、くっだらない俳壇噂話だ。「誰々が賞をもらったのは誰々と仲が良かったからなんだってさ」「誰々が ○○ の選者に抜擢されたのはこういう裏があってね」といった真偽不明だけど、口にして話されるとそれなりに広がってしまう噂話に花が咲く。
神野さんが書いておられるように、こういったくっだらない俳壇内輪話はうんざりである。うううんざりだ。ただこれはほとんど俳句の発生の時から変わっていないのではないかと思う。江戸時代でも俳人たちの大半は愚にもつかない噂話で暇つぶしをしていたと思う。俳句を文学として考える時期というより人が現れることの方が例外的で、そういった例外的な時期を俳句は屋台骨としながら、平時の大半の時間を無駄話に費やしている。神野さんは「俳壇には議論と批評が失われて」おり「今の俳句の現状は、たしかに末期的と嘆きたくなるほどに、没交渉で断絶している」と書いておられるが、それが俳壇の常態だと思う。
乱暴に言えば、俳壇を牛耳っているかのように思われている大物俳人から結社などに未所属で、どう考えても俳壇で頭角を現す可能性が低い無名俳人に至るまで、俳人たちは俳壇という場所を嫌っていると思う。俳壇を嫌いながら俳壇に雁字搦めになっている。俳人たちが俳壇噂話が好きというのはそういうことだ。
オフレコでは俳句メディアや有名俳人、若手で頭角を現した俳人のことを糞味噌に貶したりするが、俳句メディアからお声がかかればホイホイ書く。前衛的作風でデビューしようとそれを足がかりになんとか俳壇の中枢に食い込もうとする。俳壇は会社組織に似ているからまず小さな仕事から回ってくるわけだが、同人誌の時評であれ、頼まれ仕事の俳句のセレクトであれ小さな賞の選考委員であれ、文句たらたらの俳人でも頼まれればやる。それが何を目指しているのかと言えば俳壇の頂点と言わざるを得ないだろう。俳壇の頂点とは何かと言えば、結局は大新聞やテレビメディアの選者ということになるのではなかろうか。そうなれば食えないまでもそれなりの金になる。俳句で金を稼ぐにはそれ以外の方法はない。それが俳人のアガリだ。ただそこまで行くには山あり谷ありで、決定権を持つ俳人と良好な関係を保ち、それなりの受賞歴とか大結社での地位を確保しなければならない。でないと永続的に俳壇で力を持ち得ない。たまに句集を出すが、たいていの俳人の主著が誰が書いてもいいような大同小異の初心者俳人向け手引き書になるのもそのためだ。ちょっと頭角を現すと俳人は既存レールに乗っかった出世競争に血道をあげる。要は俳壇の利益のために滅私奉公する。
俳壇批判というか俳句の現状批判は、浮いては消えるようにいつの時代でも様々な俳人が口にするわけだが、実効性はまったくない。俳壇内で一定の力を持たなければ俳壇批判すら書かせてもらえず、結社誌や同人誌に書いたとしても冷や飯食いの愚痴と一蹴されるのがオチだからだ。で、俳句メディアとルートができれば過去の愚痴には頬被りする。俳人は誰もが俳壇に雁字搦めに縛られている。
じゃあ僕はこういった俳壇ていたらくに怒っているのかと言えば、ぜんぜん怒っていない。呆れているが怒りはない。俳壇というのはいつの時代でもそういう場所だ。俳句は短い。俳人は結社で結社員や初心者俳人の俳句を読んで添削し、結社誌や日本各地での句会などの世話でもしていなければ、とても手持ちブタさんで間が持たないだろう。
世の中恐ろしいほどの勢いで変わっているわけだが、俳壇はなべて事もナシである。俳人は第二芸術論でもマゾ的反応を示したが、傲慢で近視眼的である上にマゾである。もそっと正確に言うと、俳句や俳壇を批判されることに秘かな喜びを感じるが、それを結局はやり過ごしてしまえるのは恐ろしく傲慢だからである。
一日三十句俳句を詠むのをノルマにすれば、金になるかならないかは別としてなるほど俳句は仕事になる。しかしそんな俳人はいない。せいぜい年に三百句とか五百句くらいを詠むのが関の山だろう。で、俳論だがたいていは結社誌や俳句メディアに載せるための短い俳論を書き飛ばしている。それだって年間五百枚を超えたりしないだろう。年に五百句に五百枚の評論で仕事になるか。ならない。でも息の短い俳句というジャンルに惹き付けられた俳人の常として、そのくらいの量の仕事すらできない俳人が大半だ。ほとんどの俳人は筆力がない。絶望的なほど書けない。だから書けないフラストレーションを必然的に噂話で暇つぶしすることになる。
大半の俳人は俳句を日本というより世界で一番素晴らしい文学だと固く信じ込んで傲慢に過ごしているわけだが、一方で比較対象をまったく持とうとしない。知ろうともしない。俳句以外のジャンルにまずもって興味を示すことがない。俳句に関しても同様で、芭蕉や蕪村全集を頭から尻尾まで読んだ人がいるならお目にかかりたい。プロ俳人と自称していても、腰を据えて他者の俳句に学んだ人は少ない。要するにポツポツ俳句を書く以外は徹底して怠惰。絶望的である。
過去の膨大な例から言っても既存の俳壇を批判し、それを変えようとする試みは間違いなく失敗に終わる。むしろ俳句は習い事芸であり、お遊び文芸だとはっきり認識した方が実り多いだろう。なぜ俳句は習い事芸でお遊び文芸なのか、なぜいつの時代にもそれが俳句の常態なのかを考えるわけである。そちらの方が現実に合致している。文学としての俳句を考えるなら、まずは現実を直視しなければならないでしょうね。
ここには真摯な俳句論がある。作家の思想がある。「自分自身を象る」「私と共に過ごしてきた言葉」「自らを何者かの記憶に加える」・・・自らの存在そのものとしての言葉を求める若者たち。平成の俳句は、技術を練り上げたいわゆるうまい俳句が評価される傾向が続いていたが、ここに来て、そもそもなぜ私たちは俳句を作るのかという本質論へと、揺り戻しの風が吹きはじめているようだ。(中略)
人間が俳句を詠むことの意味。自明としてなおざりにされてきた命題に、時代の変わり目の今、もう一度向き合う時期が来ているのではないか。高校生は正面の顔を堂々と見せている。私たちも正面の顔で、彼らと対等に、これからの俳句を語り合うべきなのだ。
(同)
神野さんは俳句甲子園松山予選で藤原豪士さんが詠んだ「「 」春眠し」――「かぎかっこかぎかっことじるはるねむし」と読むようだ――を高く評価されているが、表現というものはなんの背景もなく突然新たに生まれることはない。この句がニューウエーブ短歌の焼き直しであることは明らかだ。もちろん寺山修司以来、俳句・短歌の焼き直し合戦はそれはそれで俳句の伝統であり、高校生でそれをやってみせるのは才気とは言える。ただ誰が考えてもこれでは続かない。大人はこういう句を高く評価して若い作家を勘違いさせてしまうことにも配慮しなければならないでしょうね。
また神野さんの評論のテーマである「文学としての俳句を取り戻すこと」は、要するに自己表現・自己主張ということになるようだ。しかしそれではナイーブ過ぎるのではないか。「そもそもなぜ私たちは俳句を作るのか」という問いだが、プレバト!!を見ていれば芸能人だって俳句を詠む。詠める。渥美清も夏目雅子も詠んだ。俳人は絶対認めないだろうが、酒場放浪記の吉田類の俳句だってたまにいいのがある。プレバト!!をきっかけに俳句に本気になる芸能人も出るかもしれない。で、自己表現というなら芸能人の俳句の方が自己表現だ。よく分析してみればわかるが芸能人は自己の社会的価値に敏感だ。自己のパブリック・イメージを裏切るような句は詠まない。それは立派な自己表現である。
プレバト!!批判はけっこう目にするが、ムダ。そもそもたいていの俳人が、ちょっとしたきっかけで俳句を詠み始めたわけだろう。俳句メディアが飽きることなく繰り返している初心者向け俳句ノウハウ特集となんら変わらない。俳句甲子園だって一種の若手俳人リクルートである。俳句メディアや俳句甲子園は文学で、夏井いつきはテレビバラエティで娯楽だからダメとは言えまい。初心者集めが一番大事な俳壇に貢献しているのは変わらない。プロとアマチュアの境目は自己表現としての俳句というところにはない。俳句は文学ではなく国民文芸。お遊びの芸事。それが基本。そういう誰でも詠める俳句はそもそも自己表現のための器なのだろうか。むしろ自己表現ではないから俳句は文学になるのかもしれませんよ。
岡野隆
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