今号では「座談会 歌壇・結社のこれからを考える」が組まれています。歌壇でも俳壇でも結社に加入する人が減少し続けています。最も大きな理由はSNSの普及で作品発表が容易になったことでしょうね。文字数が少ない短歌や俳句はツイッターなどで簡単に発表できます。作品への反響もダイレクトに得られる。一昔前は結社に所属し結社誌に投稿しなければ作品は簡単にはいわゆる〝活字〟にならなかったわけですが今では思い立ったら誰でもすぐに――SNSの場合は原理的に世界に向けて――作品を発表できます。
またインターネット上にはありとあらゆる情報が飛び交っていて短歌に関しても簡単に膨大な情報を入手することができます。是非や正誤は別として本や雑誌を読まなければ(結社に参加しなければ)短歌に関する知識を得られない時代ではありません。ネット経由で知識を得て読者を募り気楽な一国一城の主でいたい歌人が増えるのは当然のことです。
高度情報化社会で世界が劇的に変化し未来が見通しにくくなっていることも影響しているでしょうね。新たな世界に対応した知やシステムが必要とされているわけですがいまだ模索中です。ただ過去の知を援用しただけでそれを築くことができないのは明らかです。現代作家は多かれ少なかれ今の新しい世界の本質を作品で表現したいと願うわけですが結社が魅力的に見えないのは現代を表現するためのヒントがそこにあるとは思えないからです。
経済を言えば情報収集から買い物までスマホがプラットホームになっています。インターネットが水道ガス電気と同じライフラインになっているのです。ライフラインにかけるお金は当然削れない。しかし雑誌や本や結社会費などは節約しようと思えばできます。趣味や娯楽が少なかった時代と違って今は少しずつ出費がかさむ時代です。ネット代ファッションゲームマンガ飲み代など優先順位をつけていけば特に若い作家にとってはよほどのメリットがない限り結社会費は痛い出費になりそうです。
つづめて言えば高度情報化社会(インターネット)があらゆる局面で強い影響を与えています。杓子定規には商業歌誌にとっても結社にとってもネットは〝敵〟ということになりそうです。では今後生まれながらにネットが基本インフラ世代の時代になると商業歌誌や結社誌がなくなるのかと言えばそう簡単にはいかないでしょうね。ただ両者ともに質的な変化を余儀なくされるはずです。
世界がどんなに変化しようとも不特定多数の人々の意識を集約した〝センター・メディア〟は必要とされます。そうでなければなんの権威も存在しない無政府府状態の混乱に陥ってしまう。テレビ新聞雑誌でもセンター・メディアは存続するはずです。しかし淘汰されるでしょうね。商業歌誌も数誌に絞られる可能性が高い。
またセンター・メディアは下部構造としてなんらかの形でネットを取り込んでゆかなければならなくなるはずです。時間はかかるでしょうが誰もが納得するヒエラルキーの頂点としてセンター・メディアが存在しなければ経営はなかなか難しくなる。では結社はどうなるのでしょうか。
小島 結社に入っていない人はそういう選を受けたいという願望はあんまりないんですかね。
寺井 どうでしょう。新人賞に送ったりはするなら、読まれて選ばれたいという意志はあるだろうけど、定期的に選を受けて、どれが落ちてどれが載ったかという判断を基に勉強するということは求めていないんじゃないかという気はします。でもそもそも、選を受けて腕を磨くという、段階的・歌学的なコースみたいなものが今後の短歌の世界も有効かどうかは大いに疑問だと思います。新たな作品が評価軸を作ることもあるわけで。
小島 見てもらいたいという気持ちと選を受けたいとい気持ちは、やっぱり違いますね。
生沼 選って理不尽なもんだと思う。その理不尽さを、嫌っていうほど味わうのも最初のうちほど必要な気がするんです。
梅内 選歌を、いいとか悪いとかジャッジを付けられたというように受け取ってしまうのかもしれない。
(梅内美華子・生沼義朗・澤村斉美・小島なお・寺井龍哉「座談会 歌壇・結社のこれからを考える」)
結社参加の大きなメリットに主宰などから親しく選歌や添削の指導を受けられることがあります。いつの時代でも熱心な初心者はいるわけで数は減るでしょうが結社(誌)はその受け皿として存続し続けると思います。ただ歌人の方々は相変わらずリベラルで上品ですね。
俗なことを言えば結社と歌壇政治を結びつければ短期的にはある程度結社人口の減少を食い止めることができます。大世帯あるいは有名結社に所属していなければ現実問題として賞などを受賞しにくいというシステムです。言いにくいですが俳壇では結社と俳壇政治が根深く癒着しています。星の数ほどある新人賞は結社奨励賞あるいはリクルートシステムとして稼働している面が強い。新人賞をもらっても結社に所属しないと俳壇を代表する賞や有名メディアでの露出などのお鉢は回って来なくなる。しかし歌人はそういった俗に染まり切ることを嫌う。高邁な理念優先ということですね。
選の理念は生沼義朗さんが発言された「選って理不尽なもんだと思う」という言葉で表現されています。ダメ出しの出ない表現はムダということです。仲良しサークル的な同人誌からちょっと面白い作品が現れてもそのほとんどが泡沫のように消えてゆくことをキャリアを積んだ歌人たちは経験で知っているはずです。でもリベラルに「そういうのも面白いよね」と言ってしまう。選の効用を大きく主張したりしません。
寺井龍哉さんは結社無所属ですが「選を受けて腕を磨くという、段階的・歌学的なコースみたいなものが今後の短歌の世界も有効かどうかは大いに疑問だと思います」と発言しておられます。これは確かにその通り。そんなに大勢いるとは思えませんが自分で自分にダメ出しできる歌人は結社主宰などからの指導添削をスキップすることができます。情報を正しく選択・消化できる個人に結社の指導添削は不要です。それが情報化社会のメリットであり実際結社制度をスキップした優れた歌人が登場しています。結社側から言えばそれは結社の存在意義のハードルがさらに上がることを意味します。多かれ少なかれ結社が強いる「理不尽」のプラス面をもっと明らかにしなければなりません。
編集部 結社の運営の実態、結社の長所とは何でしょうか。
梅内 大きな存在の先生、主宰者がいますよね。最近は文学理念とかを特に掲げてないですが。
小島 共有はしてないですよね。
梅内 「塔」は、文学理念はありますか。
澤村 広告に載っているのは「歌うたのしさ、読むよろこび」ですが、これは文学理念とは違いますよね・・・・・・。
梅内 「かりん」は何だったろう。広告に「現代的な視点で清新な抒情を追求」となっていますね。
生沼 「短歌人」は「おのがじし」。これを文学理念というのは、自由におのおの銘々でやりなさい、ということだから、ある意味で理念がないと開き直っている、というと言葉は悪いけど、そういうところを逆に強みにしているところはあるんです。
(同)
和気藹々とした討議に水を差すようですが結社内で責任ある立場の歌人たちがいずれも「結社理念はない」とおっしゃっているのは問題だと思います。なんやかんや言ってまだまだ結社に参加する歌人はいて結社が消滅するかもしれないという危機感が薄いんでしょうね。だからこんな呑気なことを言っていられる。
本当になんの理念もないなら今すぐ主宰制度は撤廃してしまったほうがよい。「かばん」のように当番制の世話役(だっけな)を置いて持ち回りで一定の振興親睦行事をこなしてゆけばよいわけです。結社が結社であるためにはプラスアルファの理念が必要です。
結社所属の歌人たちは師から弟子に受け継がれて来た〝短歌における血脈〟が存在することを肉体感覚で知っているはずです。それは論理では説明しきれない「理不尽」なものですが伝統文学の〝伝統〟の意味に深く関わっています。リベラルなのは掛け値なしによいことですが自ら対立軸を放棄してしまうことは歌壇の衰退につながります。なし崩しの個人主義に傾いてゆく時代だからこそ結社は理念を明確にする必要があります。
歌壇を活性化させるためにはあえて対立軸を作ることも必要です。口語歌人は盛んに結社系伝統歌人を批判して対立軸を作り出していますが伝統歌人の物わかりのよさは逃げ腰にも写ります。自己中心的なのは人間誰しも同じです。誰だって自分がかわいい。しかしすべての言動がひたすら自己利益を求める利己主義に陥ってはいけない。
短歌の世界では利己主義を超脱した無私の作家たちが短歌そのもののような優れた作品を作り出してきました。背中で伝統の意味を若い作家たちに伝えてきた。伝統詩歌であることは多かれ少なかれ歌の主体が短歌そのものであることを意味します。今後結社の減少は避けられないでしょうが利己的個人主義に対抗する無私の短歌伝統とでも言うべき理念を明らかにできなければ結社は生き残れないでしょうね。
発音をすることのない言葉たちたとえば縁 顔を上げてくれ
ものを買う心はいつもなで肩で燃えにくそうにこの花図鑑
いざ街へみかんの花が髪にふる月夜の足を水に浸して
あーん、そう。誰の願いも叶えずに遠ざかる鈴きれいだったな
抛った仏花を巣へと持ち帰る 木陰はいまに挟まってゆく
(遠野真「照会」)
遠野真さんは一九九〇年生まれで短歌研究新人賞を受賞された若手歌人です。作品に添えた短文で「歌の前提になるネガティブさの深度を気にしている。この作者の設定値はこのくらいだと読者にあたりをつけられたくないからだ」と書いておられます。正直な言葉ですね。
「照会」の歌はいずれも末尾で転調やはぐらかしが起こっています。それが「作者の設定値はこのくらいだと読者にあたりをつけられたくない」ということなのでしょう。簡単には読み解かれないように修辞的技法を凝らしています。
ただなぜ「ネガティブさの深度」なのかはおいおい考えていった方がいいでしょうね。口語歌人だろうと伝統歌人だろうと結社未所属だろうと結社員だろうといずれ自らの選択を〝肯定〟しなければなりません。歌も同じです。ネガティブの深度は肯定によって初めて明らかになります。また肯定すれば次のハードルが見えてくる。
口語歌人というより伝統短歌とは違う歌を詠みたいと願う意欲的作家は修辞を凝らすことに一生懸命です。しばしばその修辞が韜晦につながっているのも確かです。しかし文学の表現は修辞的技巧を凝らせば凝らすほど魅力を失い作家が表現したいテーマから離れてゆきます。意味的にも技法的にも単純でなおかつ簡単には読み解けない作品が秀作名作になるのは今も昔も変わりません。
高嶋秋穂
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