巷には「アイ・ラブ・ユー」や「ユー・ラブ・ミー」な歌が溢れている。「まあ、とりあえず」なものから、情炎に覆われたものまで、その濃淡は様々だが豊富であることに間違いない。次は背中をポンと押す応援歌、それとアニソンだろうか。
DiVaの最新アルバム『よしなしうた』(‘19)の歌詞は、メンバーである谷川賢作氏の父、谷川俊太郎氏の同名の詩集『よしなしうた』(’85)に収められた作品。つまり詩がそのまま歌詞に。やはり、ここが肝だ。
歌われるつもりのない詩は、所謂「ポップ・ソング」の枠からはみ出たり、逆に足りなかったりする。Aメロ→Bメロ→サビ、を二回繰り返してから間奏、その後Cメロを繰り出してからサビ数回、という形式には到底収まらない。
同じ構造を持つアルバムとしては、鬼才・友川かずき(現・カズキ)が中原中也の詩に曲をつけた『俺の裡で鳴り止まない詩』(’78)が思い浮かぶ。が、中也の詩は字数や構成等、歌詞に転じやすい作品が多く、友川以前、そして以降にも曲がつけられている。実は歌われるつもりだった、と打ち明けられても多分驚かない。
ほとんど平仮名で書かれた『よしなしうた』の詩は、字数、構成ともに、歌われるつもりはなかったようだ。つもりがない詩につけられた音楽は、ドキッとするほど自由で遠慮がない。
ギュッと掴んでパッと投げるような旋律、そして間を持った「けいとの たま」や「さようなら れいぞうこ」や「ふしぎ」。この魅力を「変拍子」「プログレ的」という視点で捉えるのは少し勿体ない。言葉が、そして歌声が鮮やかすぎる。
もちろん「かえってきた バイオリン」や「かえる」や「かぼちゃ」のようにポップ・ソングのフォーマットを彷彿とさせる曲もある。でもやはり、どこか違う。鮮やかな言葉と歌声が既視感、もとい既聴感を吹き飛ばす。
このはみ出し方には、詩の「ナンセンス」(ジャケットに「SONGS of NONSENSE」の表記)さが果たす役割もずいぶん大きい。単純な「アイ・ラブ・ユー」や「ユー・ラブ・ミー」でもなければ、表層的な応援歌でもない。辞書に依れば、よしなし=由無しは「理由がないこと」で、よしなしごと=由無し事は「とりとめもないこと」。
想像力と情緒のせい、と言われればそれまでだが、個人的には情景が浮かびづらい曲もある。代わりに現れるのは文字そのもの。フォントこそ決まっていないけど、カラーは濃い黒。目を閉じれば、文字通り「文字」を追いながら聴ける。あまりない経験だけれど心地いい。ナンセンスなだけに、音と言葉の関係が緩く「遊び(=ゆとり)」がある。
ふと思い出すのは、アニメ『鉄腕アトム』(‘63)の主題歌の作詞を手掛けた俊太郎氏が、「ラララ科学の子」の「ラララ」について、「あれが歌った時に生きる。歌は言葉の意味だけではない」という旨を綴っていたこと。
さて、歌でなければ伝わらない意味に触れる為、もう一度最初から聴きましょう。
本アルバムの一曲目「かがやく ものさし」の、音楽が段々と広がっていく感じはとても美しい。
寅間心閑
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